14話 君にだけ見える数字
その夜、わたしは庭へ出た。
月が、半分欠けていた。
噴水の水が、その光を砕いて、きらきらと揺れている。夜咲きの花の香りが、昼間より濃くなっていた。
噴水のそばに、黒い人影が立っていた。
最初に会った夜と同じように、剣を地面に向けたまま、月を見上げている。
「傷の包帯を、替えに来ました」
アルベルトさまは、振り向かなかった。
「カイルに替えてもらった」
「カイルさんに、手袋を外させたんですか」
返事はなかった。
わたしは、噴水の縁に医療バッグを置いた。
「三日前から、包帯はそのままですよね。傷が化膿したら、剣が握れなくなります」
長い沈黙のあと、アルベルトさまは、小さくため息をついた。
そして、噴水の縁に腰を下ろし、左手の手袋をゆっくりと外した。
◇ ◇ ◇
月明かりの下で、わたしは古い包帯をほどいた。
傷は、思ったよりきれいにふさがりかけていた。
消毒をして、新しい包帯を巻こうとしたとき。
わたしの手が、止まった。
手の甲に、何かが浮かんでいた。
数字ではなかった。いや、数字なのだけれど、この世界の人たちの手にある、あの淡い光の数字とは違っていた。
もっと薄くて、もっと古い。
水に溶けかけたインクのような、かすれた文字。
最初に見えたのは、こうだった。
「62年」
その数字には、細い線が引かれていた。消された数字。
そして、その下に、もう一つ。
かすかに、けれどはっきりと、光る数字があった。
「残り150日」
わたしが見つめているあいだに、その数字の最後の一文字が、ふっと揺らいだ。
「149日」に、変わった。
真夜中を、すぎたのだ。
「……エリア?」
アルベルトさまの声が、遠くに聞こえた。
「この数字、何ですか」
わたしは、自分の声が震えているのがわかった。
「消された、62年。それから……残り、149日」
アルベルトさまの手が、びくりと震えた。
彼は、自分の手の甲を見下ろした。
それから、わたしの顔を見た。
灰色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれていた。
「……見えるのか」
「見えます」
「宮廷魔術師にも、国王陛下にも、見えない数字だ。私自身にさえ、見えない」
「でも、わたしには、見えるんです」
◇ ◇ ◇
噴水の水音だけが、しばらく二人のあいだに落ちていた。
やがて、アルベルトさまは、静かに話しはじめた。
「王族には、この手に『残り40年』と見えている。宮廷魔術師の幻影だ。数字のない手を、誰にも見せるわけにはいかないからな」
「でも、わたしには、その幻影も見えませんでした」
「そうだろうな。君は、どうやら……普通ではないらしい」
アルベルトさまは、かすかに笑った。
それから、月を見上げた。
「書庫の記録を、読んだのだろう」
「……はい」
「百年前、私は、自分の寿命のすべてを神に差し出した。六十二年。それが、私に残されていた時間だった」
消された「62年」。
「その代わりに、刻蝕は封じられた。期限は、百年。そして私は、世界の時間の流れから切り離された」
「切り離された……?」
「歳を取らない。眠らない。食べ物の味も、ほとんどしない。百年前のあの日から、私の時間は、止まったままだ」
アルベルトさまは、自分の手の甲を見下ろした。
「私は、百年前に死んだはずの人間だ。封印が尽きる百年祭の日に、私は消える」
「百年祭……」
「百四十九日後だ。君がいま読んだ数字のとおりに」
わたしは、何も言えなかった。
のどの奥が、焼けるように熱かった。
(この人は、百年も、たった一人で)
(自分が消える日を、数えながら生きてきたんだ)
「このことを知っているのは、国王陛下と、ほんの数人だけだ。カイルも知らない」
アルベルトさまは、少しだけ目を伏せた。
「百年前、私は、死んだことにした。……私を待つ者が、いたとしても」
その最後の言葉だけが、噴水の水音にまぎれそうなほど、小さかった。
アルベルトさまは、手袋をはめなおした。
傷の上の包帯ごと、手の甲の数字を隠すように。
「エリア。頼む。誰にも言わないでくれ」
わたしは、うなずくことしかできなかった。
アルベルトさまが去ったあと、わたしは一人、噴水の縁に座っていた。
月が、雲に隠れた。
左手の甲を見る。
「残り1年82日」
わたしの数字は、今夜も増えていた。
それなのに、ちっとも、うれしくなかった。
(この国の誰も知らない)
(国王陛下にも、宮廷魔術師にも、あの人自身にさえ見えない数字)
(世界でたった一人、わたしだけが、彼の死を知っている)




