13話 顔のない英雄
「百年前の記録、ですか」
王宮の書庫番は、白いひげをなでながら、わたしの顔をしげしげと見た。
「王女さまの相談役どのが、ずいぶん古いものに興味をお持ちですな」
「村の言い伝えを、調べたくて」
うそではなかった。
マルタさんが語ってくれた「数字は揺れるものだった」という言い伝え。それがいつ、どうして消えたのか。わたしは本当に知りたかった。
でも、それだけではなかった。
(あの人の手には、数字がなかった)
あの霧の朝から、三日がたっていた。
アルベルトさまとは、あれから一度も目が合っていない。王女さまの散歩には、カイルさんが代わりに付き添うようになった。
書庫番が案内してくれたのは、地下の、ほこりっぽい一室だった。
古い羊皮紙のにおいと、乾いたインクのにおい。ろうそくの光の中に、背の高い棚がどこまでも並んでいる。
「百年前といえば、『黒き災厄』の記録でしょうな。このあたりです」
◇ ◇ ◇
その記録は、恐ろしいものだった。
百年前、王国の東の空が、日蝕のように黒く欠けはじめた。
欠けた空の下から現れたのは、形のない影だった。
影が通りすぎた畑は一夜で枯れ、触れられた人々は、若者も子どもも、たちまち老いて倒れた。
人々はその影を、こう呼んだ。
「刻蝕」
時を、蝕むもの。
≪エリアさん。霧の朝の黒い騎士の剣と、特徴が一致しています≫
(触れたものの時間を、奪う……)
わたしは、ページをめくる手を止められなかった。
刻蝕は、三年のあいだ王国を蝕み続けた。軍は何度も敗れ、王都の城壁にまで黒い影が迫った。
そして、最後の戦いの日。
一人の騎士が、時の神アイオーンに、自らの寿命のすべてを捧げた。
その祈りによって、刻蝕は封じられた。
騎士の名は、こう記されていた。
「アルベルト」
指先が、冷たくなった。
(同じ、名前)
記録には、こう続いていた。
英雄は、その日、戦場から姿を消した。亡骸は見つからなかった。
王国は彼の名を永遠に記憶するため、以後、騎士団長の位を「ヴァルハルト」の称号とともに受け継ぐことにした――。
◇ ◇ ◇
書庫のいちばん奥の壁に、一枚の大きな絵がかかっていた。
最後の戦いを描いたものだという。
黒く欠けた空。地をはう影。その中心で、剣を天に掲げる一人の騎士。
わたしは、ろうそくを近づけた。
けれど、英雄の顔は、よく見えなかった。
回廊の絵と同じように、顔はとても小さく、そのうえ百年の年月で絵の具がひび割れ、表情はほとんどわからない。
(でも、立ち姿が……)
わずかに左肩を引いた、剣の構え。
霧の朝に見たのと、同じ構えだった。
そして、その英雄のすぐ隣に、もう一人の騎士が描かれていた。
英雄に背中を預けるようにして、同じ構えで剣を握る騎士。
絵の隅に、かすれた文字が書かれている。
「副長ジークハルト、英雄とともに散る」
(英雄の、隣にいた人)
その騎士の剣の構えを見たとき、わたしの背中に、ぞくりとしたものが走った。
霧の朝の、黒い騎士。
あの構えにも、どこか似ている気がした。
(まさか……ね)
≪エリアさん≫
ルカが、静かに言った。
≪百年前の英雄と、現在の騎士団長。同じ名前を受け継いだ子孫、と考えるのが自然です≫
「……うん」
≪でも、エリアさんは、そう思っていませんね≫
わたしは、答えなかった。
ろうそくの火が、絵の中の小さな英雄の顔を、ゆらゆらと照らしていた。




