12話 黒騎士の襲撃
その朝は、霧が深かった。
王宮の庭は白いもやに沈み、生け垣の迷路も、噴水も、輪郭がぼんやりとにじんでいる。
濡れた芝のにおいと、どこかで鳴く小鳥の声。
「エリア、見て。霧の中を歩くと、雲の上を歩いてるみたい」
セシリアが、両手を広げてくるりと回った。
王女さまの散歩は、もうひと月以上続いていた。最初は噴水まで歩くのがやっとだったのに、今では迷路をぐるりと一周しても息が切れない。
「殿下、あまり先へ行かれませんように」
少し後ろから、アルベルトさまの低い声がした。
黒い騎士服に、黒い革手袋。霧の中でも、その姿だけはくっきりと見える。
(この人と並んで歩く朝にも、すっかり慣れてしまった)
そんなことを考えていたときだった。
霧の向こうで、何かが、枯れる音がした。
ぱき、ぱき、と、乾いた小枝を踏み折るような音。
見ると、迷路の生け垣が、端から茶色く変わっていく。青々としていた葉がみるみるしおれ、ちぢれ、音を立てて崩れ落ちていく。
その向こうに、黒い影が立っていた。
黒い鎧。黒い兜。顔は見えない。
手には、光を吸いこむような、黒い剣。
(あの騎士だ)
リーフェ村の広場で、ノクス公爵家の馬車のそばに立っていた騎士。
足もとの草を枯らしていた、あの騎士。
「殿下、エリア。私の後ろへ」
アルベルトさまの声が、聞いたことのないほど鋭くなった。
次の瞬間、鎧をつけた黒い騎士が地面を蹴った。
兜の奥の闇は、アルベルトさまではなく、まっすぐに、わたしを見ていた。
◇ ◇ ◇
速い。
目で追えたのは、そこまでだった。
金属と金属がぶつかる音が、霧を引き裂いた。火花が散る。
アルベルトさまの剣が、黒い剣を正面から受け止めていた。
「殿下をお連れしろ、エリア! 噴水の向こうへ!」
わたしはセシリアの手をつかんで走った。
王女さまの手が、がたがたと震えている。噴水の陰にしゃがみこみ、小さな体を抱きしめた。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」
自分に言い聞かせるように、何度もくり返した。
そっと顔を出すと、霧の中で、二つの影が激しくぶつかり合っていた。
黒い騎士の剣は、重かった。
一撃ごとに、地面の芝が枯れて舞い上がる。剣がかすめた石像は、表面がぼろぼろに崩れ、百年も風雨にさらされたように古びていった。
≪エリアさん。あの剣に触れたものは、急速に劣化しています。時間が早送りされているようです≫
ルカの声が、髪の下で小さく響いた。
(時間を……奪う剣)
アルベルトさまは、一歩も引かなかった。
黒い剣を受け流し、踏みこみ、払う。その動きには、ひとつの無駄もなかった。
けれど、わたしは気づいた。
(あの黒い騎士……アルベルトさまと、動きが似てる)
剣を構えるときの、わずかに左肩を引く癖。踏みこむ前の、半歩の間合い。
まるで、同じ師から剣を習った者どうしのようだった。
アルベルトさまも、それに気づいたのかもしれない。
ほんの一瞬、その剣が、ためらうように止まった。
その隙を、黒い剣は見逃さなかった。
黒い刃が、鎧をつけていないアルベルトさまの左手をかすめた。
黒い革手袋が裂け、宙に舞う。
「アルベルトさま!」
アルベルトさまは、血のにじむ左手のまま、剣を逆手に持ちかえて、黒い騎士の胴をなぎ払った。
鎧の重い音がして、黒い騎士が大きく後ろへ飛びのく。
黒い騎士は、剣を打ち合わせながらも、一歩、また一歩と、噴水のほうへ回りこもうとしていた。わたしたちのいるほうへ。
黒い籠手が、霧の中から、わたしに向かってまっすぐに伸びた。
その手を、アルベルトさまの剣がはね上げた。
そのとき、王宮のほうから、鎧の音と叫び声が近づいてきた。
「団長! ご無事ですか!」
カイルさんの声だった。騎士たちが、霧の中から駆けてくる。
黒い騎士は、ゆっくりとこちらを見た。
兜の奥は、闇だった。何も見えない。
それなのに、なぜか、その目がわたしを見ている気がした。
次の瞬間、黒い騎士の体は、霧に溶けるようにして消えた。
あとには、枯れ果てた生け垣と、崩れた石像だけが残っていた。
◇ ◇ ◇
「動かないでください」
わたしは医療バッグを開き、アルベルトさまの前にひざをついた。
左手の甲から、手首にかけて、赤い線が走っている。傷は深くないけれど、血が止まらない。
「たいした傷ではない」
「たいした傷かどうかは、わたしが決めます」
アルベルトさまが、少しだけ目を見開いた。
わたしは消毒液をしみこませた布で、傷口をそっとぬぐった。
血が拭きとられ、手の甲の肌が見えてくる。
そして、わたしは、息をのんだ。
何も、なかった。
数字が、なかった。
この世界の人なら、誰の左手の甲にも刻まれているはずの、寿命の数字。
生まれたばかりの赤ちゃんにも、百歳を超えた貴族にも、あの寿命市場の「残り3日」の老人にもあった、あの淡い光が。
アルベルトさまの手には、どこにもなかった。
「団長、手が……血が……」
セシリアが、震える声で駆け寄ってきた。
「でも、だいじょうぶよね。団長の数字は、四十年もあるもの。お父さまが言ってたわ」
わたしは、王女さまの顔を見た。
セシリアは、アルベルトさまの手の甲を見つめて、ほっとしたようにうなずいている。
(王女さまには……見えてるの? 数字が?)
もう一度、手の甲を見る。
やっぱり、何もない。
(わたしにだけ、見えてない)
アルベルトさまが、静かに手を引いた。
わたしの手から、包帯がすべり落ちる。
彼は、カイルさんが差し出した新しい手袋を受け取り、傷の上から、ためらいなくはめた。
それから、わたしにだけ聞こえる声で、低く言った。
「見なかったことにしてくれ」
灰色の瞳が、まっすぐにわたしを見ていた。
責めるような目ではなかった。
頼むような、ひどく疲れた目だった。
≪記録しました、エリアさん。騎士団長の左手に、数字は確認できません≫
ルカの声が、髪の下で静かに響いた。
(ルカにも、見えてない)
わたしは、ゆっくりと包帯を拾い上げた。
霧が、少しずつ晴れはじめていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、わたしは騎士団の詰所に呼ばれた。
石の壁に、剣や槍がずらりと掛けられた部屋。鉄と油と、汗のにおいがした。
アルベルトさまは、新しい包帯の上に手袋をはめて、窓辺に立っていた。カイルさんが、机の上に地図を広げている。
「庭の東の門の番兵が、二人とも眠らされていました。外傷はなし。目を覚ましたら、二人とも十も老けこんだような顔をしていましたよ」
カイルさんの声には、いつもの陽気さがなかった。
「あの騎士は、何をしに来たんですか」
わたしが聞くと、アルベルトさまは、窓の外を見たまま答えた。
「君を、さらいに来たんだ」
「わたしを……?」
「剣は私に向けていた。だが、あの騎士は、最初から最後まで、君から目を離さなかった。殺すつもりなら、最初の一撃で、殿下もろとも斬ることができたはずだ。あれは、君を連れ去るための剣だった」
背中が、冷たくなった。
「王女殿下の数字が増えたことは、もう宮廷じゅうの噂になっている。数字を変える娘を、手に入れたい者がいる。命を売り買いするこの国で、それがどれほどの値打ちを持つか、わかるだろう」
(数字を増やす力が、命の値段になる)
(だから、わたしは「宝石」なんだ)
わたしは、王都に着いた日の、あの銀色の髪の男の微笑みを思い出した。
「あの黒い騎士を、わたしはリーフェ村で見ました。寿命を買いに来た、ノクス公爵家の馬車のそばに立っていたんです」
カイルさんが、はっと顔を上げた。
アルベルトさまは、しばらく黙っていた。
「……そうか」
それから、ゆっくりと振り向いた。
「だが、証拠はない。公爵は、この国でいちばん力を持つ貴族だ。うかつにその名を口にすれば、危うくなるのは君のほうだ。今のことは、ここにいる三人だけの話にしておけ」
「……はい」
「今日から、殿下の散歩には騎士を三人つける。君の部屋の前にもだ」
アルベルトさまは、手袋をはめた左手を、そっと握りしめた。
「あの騎士の足もとで、草が枯れるのを見た。……私は、あれを、ずっと昔にも見たことがある」
その声は、ひどく遠いところから聞こえてくるようだった。




