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あなたの寿命を、私にください ――世界でたった一人、私だけが彼の死を知っている  作者: Hamin
第4章 偽りの数字

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12話 黒騎士の襲撃

その朝は、霧が深かった。

王宮の庭は白いもやに沈み、生け垣の迷路も、噴水も、輪郭がぼんやりとにじんでいる。

濡れた芝のにおいと、どこかで鳴く小鳥の声。


「エリア、見て。霧の中を歩くと、雲の上を歩いてるみたい」


セシリアが、両手を広げてくるりと回った。

王女さまの散歩は、もうひと月以上続いていた。最初は噴水まで歩くのがやっとだったのに、今では迷路をぐるりと一周しても息が切れない。


「殿下、あまり先へ行かれませんように」


少し後ろから、アルベルトさまの低い声がした。

黒い騎士服に、黒い革手袋。霧の中でも、その姿だけはくっきりと見える。


(この人と並んで歩く朝にも、すっかり慣れてしまった)


そんなことを考えていたときだった。

霧の向こうで、何かが、枯れる音がした。

ぱき、ぱき、と、乾いた小枝を踏み折るような音。

見ると、迷路の生け垣が、端から茶色く変わっていく。青々としていた葉がみるみるしおれ、ちぢれ、音を立てて崩れ落ちていく。

その向こうに、黒い影が立っていた。


黒い鎧。黒い兜。顔は見えない。

手には、光を吸いこむような、黒い剣。


(あの騎士だ)


リーフェ村の広場で、ノクス公爵家の馬車のそばに立っていた騎士。

足もとの草を枯らしていた、あの騎士。


「殿下、エリア。私の後ろへ」


アルベルトさまの声が、聞いたことのないほど鋭くなった。

次の瞬間、鎧をつけた黒い騎士が地面を蹴った。

兜の奥の闇は、アルベルトさまではなく、まっすぐに、わたしを見ていた。


◇ ◇ ◇


速い。

目で追えたのは、そこまでだった。

金属と金属がぶつかる音が、霧を引き裂いた。火花が散る。

アルベルトさまの剣が、黒い剣を正面から受け止めていた。


「殿下をお連れしろ、エリア! 噴水の向こうへ!」


わたしはセシリアの手をつかんで走った。

王女さまの手が、がたがたと震えている。噴水の陰にしゃがみこみ、小さな体を抱きしめた。


「だいじょうぶ。だいじょうぶだからね」


自分に言い聞かせるように、何度もくり返した。

そっと顔を出すと、霧の中で、二つの影が激しくぶつかり合っていた。


黒い騎士の剣は、重かった。

一撃ごとに、地面の芝が枯れて舞い上がる。剣がかすめた石像は、表面がぼろぼろに崩れ、百年も風雨にさらされたように古びていった。


≪エリアさん。あの剣に触れたものは、急速に劣化しています。時間が早送りされているようです≫


ルカの声が、髪の下で小さく響いた。


(時間を……奪う剣)


アルベルトさまは、一歩も引かなかった。

黒い剣を受け流し、踏みこみ、払う。その動きには、ひとつの無駄もなかった。

けれど、わたしは気づいた。


(あの黒い騎士……アルベルトさまと、動きが似てる)


剣を構えるときの、わずかに左肩を引く癖。踏みこむ前の、半歩の間合い。

まるで、同じ師から剣を習った者どうしのようだった。

アルベルトさまも、それに気づいたのかもしれない。

ほんの一瞬、その剣が、ためらうように止まった。


その隙を、黒い剣は見逃さなかった。

黒い刃が、鎧をつけていないアルベルトさまの左手をかすめた。

黒い革手袋が裂け、宙に舞う。


「アルベルトさま!」


アルベルトさまは、血のにじむ左手のまま、剣を逆手に持ちかえて、黒い騎士の胴をなぎ払った。

鎧の重い音がして、黒い騎士が大きく後ろへ飛びのく。

黒い騎士は、剣を打ち合わせながらも、一歩、また一歩と、噴水のほうへ回りこもうとしていた。わたしたちのいるほうへ。

黒い籠手が、霧の中から、わたしに向かってまっすぐに伸びた。

その手を、アルベルトさまの剣がはね上げた。


そのとき、王宮のほうから、鎧の音と叫び声が近づいてきた。


「団長! ご無事ですか!」


カイルさんの声だった。騎士たちが、霧の中から駆けてくる。

黒い騎士は、ゆっくりとこちらを見た。

兜の奥は、闇だった。何も見えない。

それなのに、なぜか、その目がわたしを見ている気がした。

次の瞬間、黒い騎士の体は、霧に溶けるようにして消えた。

あとには、枯れ果てた生け垣と、崩れた石像だけが残っていた。


◇ ◇ ◇


「動かないでください」


わたしは医療バッグを開き、アルベルトさまの前にひざをついた。

左手の甲から、手首にかけて、赤い線が走っている。傷は深くないけれど、血が止まらない。


「たいした傷ではない」


「たいした傷かどうかは、わたしが決めます」


アルベルトさまが、少しだけ目を見開いた。

わたしは消毒液をしみこませた布で、傷口をそっとぬぐった。

血が拭きとられ、手の甲の肌が見えてくる。


そして、わたしは、息をのんだ。


何も、なかった。

数字が、なかった。

この世界の人なら、誰の左手の甲にも刻まれているはずの、寿命の数字。

生まれたばかりの赤ちゃんにも、百歳を超えた貴族にも、あの寿命市場の「残り3日」の老人にもあった、あの淡い光が。

アルベルトさまの手には、どこにもなかった。


「団長、手が……血が……」


セシリアが、震える声で駆け寄ってきた。


「でも、だいじょうぶよね。団長の数字は、四十年もあるもの。お父さまが言ってたわ」


わたしは、王女さまの顔を見た。

セシリアは、アルベルトさまの手の甲を見つめて、ほっとしたようにうなずいている。


(王女さまには……見えてるの? 数字が?)


もう一度、手の甲を見る。

やっぱり、何もない。


(わたしにだけ、見えてない)


アルベルトさまが、静かに手を引いた。

わたしの手から、包帯がすべり落ちる。

彼は、カイルさんが差し出した新しい手袋を受け取り、傷の上から、ためらいなくはめた。

それから、わたしにだけ聞こえる声で、低く言った。


「見なかったことにしてくれ」


灰色の瞳が、まっすぐにわたしを見ていた。

責めるような目ではなかった。

頼むような、ひどく疲れた目だった。


≪記録しました、エリアさん。騎士団長の左手に、数字は確認できません≫


ルカの声が、髪の下で静かに響いた。


(ルカにも、見えてない)


わたしは、ゆっくりと包帯を拾い上げた。

霧が、少しずつ晴れはじめていた。


◇ ◇ ◇


その日の午後、わたしは騎士団の詰所に呼ばれた。

石の壁に、剣や槍がずらりと掛けられた部屋。鉄と油と、汗のにおいがした。

アルベルトさまは、新しい包帯の上に手袋をはめて、窓辺に立っていた。カイルさんが、机の上に地図を広げている。


「庭の東の門の番兵が、二人とも眠らされていました。外傷はなし。目を覚ましたら、二人とも十も老けこんだような顔をしていましたよ」


カイルさんの声には、いつもの陽気さがなかった。


「あの騎士は、何をしに来たんですか」


わたしが聞くと、アルベルトさまは、窓の外を見たまま答えた。


「君を、さらいに来たんだ」


「わたしを……?」


「剣は私に向けていた。だが、あの騎士は、最初から最後まで、君から目を離さなかった。殺すつもりなら、最初の一撃で、殿下もろとも斬ることができたはずだ。あれは、君を連れ去るための剣だった」


背中が、冷たくなった。


「王女殿下の数字が増えたことは、もう宮廷じゅうの噂になっている。数字を変える娘を、手に入れたい者がいる。命を売り買いするこの国で、それがどれほどの値打ちを持つか、わかるだろう」


(数字を増やす力が、命の値段になる)

(だから、わたしは「宝石」なんだ)


わたしは、王都に着いた日の、あの銀色の髪の男の微笑みを思い出した。


「あの黒い騎士を、わたしはリーフェ村で見ました。寿命を買いに来た、ノクス公爵家の馬車のそばに立っていたんです」


カイルさんが、はっと顔を上げた。

アルベルトさまは、しばらく黙っていた。


「……そうか」


それから、ゆっくりと振り向いた。


「だが、証拠はない。公爵は、この国でいちばん力を持つ貴族だ。うかつにその名を口にすれば、危うくなるのは君のほうだ。今のことは、ここにいる三人だけの話にしておけ」


「……はい」


「今日から、殿下の散歩には騎士を三人つける。君の部屋の前にもだ」


アルベルトさまは、手袋をはめた左手を、そっと握りしめた。


「あの騎士の足もとで、草が枯れるのを見た。……私は、あれを、ずっと昔にも見たことがある」


その声は、ひどく遠いところから聞こえてくるようだった。


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