10話 夜の庭の出会い
その夜、わたしは眠れなかった。
与えられた部屋は、村の小屋が五つは入りそうなほど広かった。寝台はふかふかで、絹の掛け布はひんやりと冷たい。
けれど、川の音が聞こえない。
(静かすぎる……)
わたしは寝台を抜け出し、窓を開けた。
月が出ていた。窓の下には、王宮の庭が広がっている。白い砂利の小道、刈りこまれた生け垣、噴水の水音。
≪エリアさん。午前一時十二分です。睡眠をおすすめします≫
「わかってる。少しだけ、歩いてくるね」
≪自分で村の人に言っていたことを、覚えていますか≫
「……眠りは、明日の自分をつくる時間」
≪そのとおりです≫
わたしは小さく笑って、肩掛けをはおった。
◇ ◇ ◇
夜の庭は、昼間とはまるで違う顔をしていた。
月の光が、白い砂利を青く染めている。夜咲きの花の、甘く重たい香りが漂っていた。
噴水の向こうまで歩いたとき、わたしは足を止めた。
誰かが、いた。
月明かりの下に、一人の男が立っていた。
背が高い。黒い騎士服。手には抜き身の剣を持っているが、構えてはいない。ただ、剣先を地面に向けたまま、じっと月を見上げている。
その横顔は、驚くほど整っていた。年は、二十代の後半くらいだろうか。
けれど、その表情には、若さとはまったく違う何かがあった。
(疲れ……? ううん、違う)
(何かを、ずっと昔に置いてきた人の顔だ)
砂利を踏む音に、男がゆっくりと振り向いた。まだ若い。青年といってもいいだろう。その両手には、黒い革の手袋がはめられていた。
月の光を映した灰色の瞳が、まっすぐにわたしを見た。
「……この時間に、なぜ起きている」
低い、静かな声だった。
「あなたこそ」
わたしが言い返すと、青年はわずかに眉を上げた。
「私は、眠らなくていい体なんだ」
「眠らなくていい人なんて、いません」
思わず、口から出ていた。
前世で何百回も言ってきた言葉だった。夜勤明けの看護師に、徹夜続きの受験生の母親に、眠れないと訴える老人に。
青年は、かすかに目を見開いた。
「君は、医者か」
「……医者の手伝いです。リーフェ村から来ました。エリアといいます」
「ああ」
青年は、少しだけ表情をゆるめた。
「数字を変える娘か。カイルが、ずいぶん楽しそうに話していた」
「じゃあ、あなたが……」
「アルベルト。アルベルト・ヴァルハルト。騎士団を預かっている」
(この人が、黒い手袋の騎士団長)
わたしは、思わず彼の手を見た。
アルベルトは、その視線に気づいたのか、剣を鞘に収め、手を背中に回した。
◇ ◇ ◇
「どうして、眠らないんですか」
わたしが聞くと、アルベルトは噴水の縁に腰を下ろした。
「眠り方を、忘れたんだ。ずいぶん昔に」
「忘れた……?」
「目を閉じても、朝まで何も起きない。夢も見ない。だから、起きていることにした。夜の王宮を見回るには、ちょうどいい」
彼の声は淡々としていて、まるで他人のことを話しているようだった。
わたしは、少し迷ってから、噴水の反対側の縁に腰を下ろした。
「わたしの村では、こう言ってるんです。眠りは、明日のあなたをつくる時間だって」
「明日の、自分」
アルベルトは、その言葉を、口の中でゆっくりと転がした。
それから、かすかに笑った。笑ったというより、口の端がほんの少しだけ動いた。
「私には、つくるべき明日がないんだ」
「え……?」
聞き返そうとしたときには、アルベルトはもう立ち上がっていた。
「部屋に戻りなさい、エリア。夜の庭は冷える。明日、王女殿下を診るのだろう」
「……はい」
「殿下を、頼む」
それだけ言うと、アルベルトは月明かりの小道を、音もなく去っていった。
黒い背中が、生け垣の向こうに消える。
噴水の水音だけが、いつまでも耳に残った。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ったわたしは、寝台に腰かけて、いつものようにスマホのメモを開いた。
左手の甲を、画面の明かりに照らす。
そして、手が止まった。
「残り1年37日」
夕方に記録したときは、「残り1年30日」だった。
たった数時間で、七日。
「ルカ……」
≪記録しました。数時間でこれほど増えたのは、初めてです≫
「何が、あったんだろう」
≪この数時間の出来事は、庭を歩いたことと、騎士団長と話したことです≫
わたしは、黙って手の甲の数字を見つめた。
頬が、少しだけ熱かった。
≪原因は、不明です≫
ルカの声が、いつもより少しだけ間をあけて、そう付け加えた。




