08 俺の婚約者が世界で一番可愛い
「……あの、ザイン様」
がっくりと肩を落としたテオドルス殿下がすごすごと帰ったあと、私は隣に座るザイン様の顔をおずおずと見上げた。
「……さっきの話、なのですが……」
「さっきの話? どれのこと?」
「……ザ、ザイン様が、わりと最初から、その、私のことを――」
「ああ、メロメロだったって話?」
ザイン様は悪戯っぽく笑ったかと思うと、有無を言わさず私との距離を詰める。
「もちろん、本当のことだよ」
「さ、最初って、いつでしょう……?」
「さすがに、君がテオドルスと婚約していたときからそんなふうに見ていたわけじゃないけどね。俺の言う『最初』っていうのは、君からテオドルスの浮気の話を初めて聞かされたときだよ」
言いながら、ザイン様は私の頬にそっと手を伸ばす。
「テオドルスの浮気を知って嘆き悲しんでいるのかと思いきや、すっかり冷めただのもはや嫌悪感しかないだの、挙句の果てには逃げ出して平民になるなんて突拍子もないことを言い出す君に、なんていうかこう、心を鷲掴みにされたというかさ」
「……鷲掴み?」
「俺の調査でテオドルスの不貞行為が繰り返されていたことがわかっても、まったく動じないどころか平気な顔で俺に婚約を持ちかけて、しかも婚約してくれなかったら平民になりますなんて堂々と脅してくるような令嬢、黙って見過ごせるわけがないだろう? これは今捕まえておかないときっと一生後悔する、と思ったんだよ。俺の直感は当たるからな」
「……婚約を了承したのは、無茶で無謀な私のことがただ単に心配で、放っておけなかったからでは……?」
「それだけで婚約を了承すると思うか?」
甘く微笑んだザイン様は、私の頬をすりすりと撫でる。
「君も知っての通り、俺の母親は王城のメイドでね。身分の低さを理由に俺たちは離宮に追いやられ、誰にも顧みられない生活が長く続いたんだ。王族だというのに見下され、存在すら無視され続けるような状況に、何度ここから逃げ出そうと思ったかわからない」
「え……」
「でも、俺はたまたま勉強が好きだったから、成長するにつれて自分の能力を見せつける機会に恵まれたんだ。そのうち、俺の頭脳に価値を見出し始めた陛下や宰相や国の重鎮たちが、俺のことを高く評価して重用するようになってね。力さえあれば、俺という存在を認めさせることができるんだと初めて知ったよ」
「それは、その、悔しくはなかったのですか? これまで自分を見下してきた相手が、手のひらを返したように擦り寄ってくるというのは……」
「そりゃ、ムカつくなあと思うこともあったけど、俺のほうが有能なのは明らかだったしさ。最終的にはこの国の民のためになるんだから、別にいいかなと思って」
あっけらかんと話すザイン様に、なんだか胸が絞めつけられる。
私の頬を撫でるザイン様の手に思わず触れたら、ザイン様がくすりと笑った。
「そんなとき、ラウラからテオドルスの浮気の話をされて、おまけに婚約してほしいとまで言われてさ。驚いたけど、素直にうれしかったんだ。俺の頭脳とか能力とかだけを求めてくるやつはたくさんいたけど、俺自身がいいと言われたのは初めてだった。まあ、テオドルスとの婚約を解消に持ち込みたい君にとっては、苦肉の策だったんだろうけど」
「あ、いや、それは……」
「だから俺は、どうしても俺がいいと言ってくれた君に全力で応えようと決めたんだ。無茶で無謀で破天荒な君に、最初から惹かれていたわけだしさ」
「……それ、褒めてませんよね……?」
「何言ってるんだ? 最高の褒め言葉だろ」
そう言ったザイン様は、するりと腕を伸ばして私の腰を引き寄せる。
そして、甘くとろけるような目をしながら私の顔を覗き込んだ。
「ラウラは軽い気持ちで俺に婚約を持ちかけたんだろうけど、俺はもう、ラウラじゃないと嫌だからな」
「……え?」
「ラウラでいい、とかラウラがいい、じゃなくて、ラウラじゃないと嫌だ。ラウラだけがほしい。ラウラ以外は、もういらない」
「へっ!?」
「知ってるか? 王族ってのは一様に、愛が重いんだよ」
「……そ、それは、つまり――?」
「好きだよ、ラウラ。もう逃がさないから、覚悟して?」
鼻先が触れ合うような距離で次々と繰り出される殺し文句に、私は息も絶え絶えになりながら、ただこくこくと首を縦に振ることしかできなかったのである。
◇・◇・◇
それから、数か月が経った。
「王太子妃殿下がご懐妊ですか?」
私が聞き返すと、王城から帰ってきたザイン様がうれしそうに顔を綻ばせる。
「そうらしい。もう少しで安定期に入るそうだ」
「それは喜ばしいことですね」
王太子セルギウス殿下と妃殿下クラウディア様は、ともに現在二十二歳。ザイン様とは、三つしか年が離れていない。
それもあってか、幼い頃からセルギウス殿下だけは王族の中で唯一ザイン様を見下すことなく、対等に接してくれていたという。
むしろザイン様を兄のように慕っているということを、私もつい最近知ったくらいである。
「ただ、陛下が『懐妊を大々的に発表する場を設けたい』って言って聞かないんだよ」
「それは、夜会とかパーティーとかを開いて、ということですか?」
「そういうこと。不祥事の火消しのためには、お祝い事を発表するのが一番手っ取り早いだろ?」
「……あー、そういうことですか」
私たちは顔を見合わせ、お互いに小さなため息をつく。
数か月前、私は婚約解消に納得していないテオドルス殿下に面と向かって対峙して、ビシッとバシッと最後通牒を突きつけた。
完膚なきまでに、叩きのめしたつもりだった。
さすがのテオドルス殿下も、これできっちり諦めてくれるはず。と思った私は甘かった。そうは問屋が卸さなかったのだ。
驚くべきことに、テオドルス殿下はなおも私のことを諦めず、再婚約を求めて派手に動き始めたのだから、さあ大変。
予想とは真逆の展開である。
殿下は陛下や宰相、私のお父様であるファルクス侯爵に対して再婚約を認めるよう公然と訴え始め、相手にされないとわかると国の重鎮たちの力を借りようと声をかけ、それも無視されると今度はかつての浮気相手の令嬢たちを次々に呼び出して、不貞行為に関する証言を撤回するよう脅迫したらしい。
常軌を逸したその行動は社交界にも知れ渡ることになり、浮気相手の令嬢たちは殿下との関係が白日の下にさらされて、婚約が破談になったり離縁させられたりと騒動は日を追うごとに大きくなっていった。
そんなことにはならないよう、ザイン様の配慮で浮気相手の令嬢たちの身元は一切明かされていなかったというのに。
結局、テオドルス殿下の行動は強く非難され、責任を追及され、現在彼は自室での謹慎を命じられている。さもありなん、である。
一方、テオドルス殿下の暴走に危機感を覚えたザイン様は、婚姻前ではあるものの、このファルクス侯爵邸に居を移そうと決意した。今は、ここから王城に通って、公務関連の引き継ぎ作業に追われているらしい。
「まあ、陛下の思惑はともかく、君に俺好みのドレスを贈ることができるのはうれしいけどね」
そう言って、ザイン様は私の額にちゅ、と軽く口づける。
同じ屋敷で一緒に暮らすようになってからというもの、ザイン様の溺愛ぶりはとどまることを知らず、すでに限界突破の様相を呈している。
食事は常に一緒だし、王城から帰ってくるとまっすぐ私の顔を見にくるし、隙あらばすぐに抱き寄せられるし、気がつけば愛おしげな視線を私に向けながら「可愛い」とか「好きだよ」とか「俺の婚約者が世界で一番可愛い」とか甘々な台詞を遠慮なく、ストレートに、これでもかというほどささやく。
婚姻前だから寝室はさすがにまだ別だけど、なんというかまあ、それだっていつどうなるかわからない。ザイン様が虎視眈々と、なし崩し的に、そういう雰囲気に持っていこうとするのを、どうにかこうにか回避している日々なのだ。
ただ、一番の問題は、そうなったらそうなったでまあいいかな、なんて思ってしまっている自分がいること。
前世でも今世でも裏切られたことに気落ちして、もう恋愛なんてどうでもいいやとか思っていたのに、気がついたらこれだもの。
でも毎日毎日トップギアで愛をささやかれ続けたら、絆されるのも仕方なくない!? と自分自身に全力で言い訳している。
「夜会にしろパーティーにしろ、テオドルスは参加させないことになっているからね。安心していいよ」
「すみません。その件に関しては、端からまったく心配していなかったのですが」
私の言葉にザイン様はなぜか上機嫌になって、「そうかそうか」とか言いながら、またふわりと私を抱きしめたのだけど。
そうは問屋が卸さないということを、私は身をもって知ることになる――――。




