救いと代償
「グルルルルルゥ!」
足を痛めた野菊へ――物陰から飛び出した凶屍が牙をむき、襲いかかる!
「――しまった! 敵地で警戒を怠るとは!」
服部半蔵――正重は凶屍を食い止めようと踏み出したが、救援の手はわずかに間に合いそうにない。
凶屍に食いつかれれば待っているのは悲惨な最期――凶屍に成り果てる最悪の未来だけ。
しかし、先ほどの小夜とのいさかいで武器を取り落してしまった野菊に、凶屍に対するすべはなく――、
「……くっ!」
絶望に駆られながらも、野菊は凶屍に果敢に立ち向かおうとした。
これまでの人生の中、襲いかかる過酷な運命に立ち向かってきたように――。
しかし――、
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
野菊にむかい、歯をむき出しに迫る凶屍の姿。
生前、中年男であった凶屍は人としてはありえぬほど、すさまじい速さで駆け寄ってくる。たがの外れた圧倒的な筋力は猛獣にも等しい。
一方、せまる凶屍にそなえ、かまえた野菊の腕は細く、命をつなぐには頼りなく思えた。
それでも野菊は闘志を失わず、凶屍をにらみつける。
最期の瞬間まで、戦いつづけ、忍びでありつづけようとする野菊――儚くも美しいその姿は、まるで燃え尽きる前にひときわ輝く灯火のように思えた。
だが、野菊に凶屍が手をかけようとした瞬間――、
「――させるかッ!」
なんということか。野菊の目の前、凶屍の体が真横に吹き飛んだ。
割って入った小夜が凶屍を体当たりしたのだ。
その身でもって野菊をかばった小夜は、凶屍とともに地面を転がる。
「な、小夜ッ!?」
思いがけぬ人物の救援に驚く野菊。
その目の前で小夜と凶屍は地を転がり、乱戦を繰り広げる。
そして――、
「覇ッ!」
組討術――戦場の闘技をもちいた小夜は気迫の声とともに、凶屍を組み伏せる。
剛力を誇る凶屍も小夜の見せた技巧の前には屈せざるをえない――小夜は現代でいうところのいわゆる関節技をもちいたのだ。
人体の構造を利用した技は熊に匹敵する力を持つ凶屍ですら強引に地に這わせる。
「むぅ……見事なり!」
伊賀衆の頭領である半蔵――正重すら感嘆の声をあげた技量を示す小夜。
だが――、
成功に微笑んだ小夜は忘れていた。凶屍が人外の怪物であることを……。
凶屍の恐ろしさは人の限界を超えた膂力だけではない。痛みにも屈せぬ凶暴さこそ、怪物の怪物たるゆえんなのだ。
「グアアアアアッ!」
もがき、暴れる凶屍――関節を極められていることなどかまわず、背後の小夜へ手をのばす。
――ゴクッ!
「馬鹿なッ!」
その手に伝わったのは関節の外れるにぶい感触。生理的な嫌悪感を刺激する人体が壊れる音がひびく。
自らの腕を犠牲に捕縛から逃れた凶屍――だらりと力を失ったその腕を抱え、小夜は驚き、うめく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「小夜ッ、あぶない! 離れろ!」
腕と引き換えに自由を取りもどした凶屍――呆然とした小夜に正重から声が飛ぶ。
しかし、密着した姿勢からそう簡単に距離を取れるはずもない。
そんな小夜に対し、凶屍はふりむきざま、よだれを垂らして食らいつく!
「ガアアアアアア!」
「――ッ!」
小夜の腕から鮮血がほとばしり、苦悶のうめきがあがる。
しかし小夜はかまわず、己の腕にくらいついた凶屍の首を両手で抱え込んだ。
そして激痛に耐え、肉を食いちぎろうとする凶屍の頭部を一気にひねる。
……ゴグッ!
再び、響いた関節の外れる音――今度は凶屍の頸椎が破壊された音だ。
一声、絶息の吐息を漏らすと凶屍は完全に沈黙する。
「……………………」
「…………………………」
しかし、小夜の勝利に歓声は上がらない。
絶望的な沈黙が場を支配していた。
――それも無理はないだろう。
崩れ落ちた凶屍のとなり、呆然と立つ小夜の腕には深々と凶屍の歯型が刻まれていたからだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
紅く染まり裂けた袖からのぞくのは血にまみれた歯型、それは一つの絶望的な事実を示していた。
「…………小夜」
「……おぬし…………」
小夜はひざから崩れ落ちた。光を失った瞳、生気を亡くした青白い顔が衝撃のほどを告げている。
正重にも野菊にも……かける言葉がない。
「……死ぬのか……このようなところで、わたしは……」
ここまで目にしてきた凶屍にかまれた者の末路――思い返した小夜はうなだれ、つぶやく。
だらりと垂れた腕、凶屍にかまれた傷から血がしたたるが、小夜は手当しようとすらしない。
「……小夜……すまぬ。わたしのせいじゃ……」
絞り出すような声とともに野菊が手を伸ばすが――、
その思いやりを振り払うように、小夜は後ずさった。
そして――自分に言い聞かせるように小夜は言う。
「よいのだ野菊……せめて最後にお前を救えただけでよかった。お前のお父上のご恩に……報いることができた」
「――小夜」
悲痛な面持ちで呼びかける野菊へ小夜は自嘲の笑みを見せた。
「よせ……憐れむな。逆恨みでお前を仇とねらい続けてきた愚かものには似合いの末期だろう?」
「くっ……」
「なにか……なにか、できることはないのか?!」
絶望的な状況にかける言葉のない野菊。
一方、正重は周囲を見回して希望を求める。
――そんな二人に、小夜は覚悟を決めた人間特有の澄み切った表情で言った。
「……もういい。それより最後に頼みがある」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「頼む……わたしの最後の願いをきいてくれ」
――そう言い、すべてをあきらめたように笑った小夜を、正重がどなりつける。
「バカ者! 最後などというな! 縁起でもない!」
「ああ、こればかりは正重の言うとおり……しかし願いとはなんじゃ?」
うなずきつつも野菊が問うと――、
「では…………頼む。わたしはあのような化け物にはなりたくない。だから、そうなる前にいっそ……お前たちの手で……」
小夜はあいかわらず透明な表情で願う。
「なッ! ならぬ!」
「うむ! ダメじゃ! 自棄になるでない!」
自らの殺害を願う小夜の言葉――言い切られる前に正重、野菊が否定した。
金色の目を光らせる亡者――あのような化け物になりたくない気持ちはよくわかる。
が、かといって、ここまで生死をともにしてきた相手をあっさり手にはかけられなかった。
まして野菊にとっては、捨て身で命を救ってくれた相手でもある。
――そんな野菊たちに小夜はためいきをつく。
「やれやれ、やはりか……お前たちは甘いな……わたしがいつあの化け物に変わるかわからんというのに……」
もっとも小夜は野菊たちの返答を予期していたようでもあった。
小夜はさりげなく――目指すものに向かって歩をすすめだす。
「……小夜?」
小夜のしぐさはあまりに自然であり、突然の変事に気が動転していた野菊、正重には意図が理解できなかった。そのすきに小夜は望むものへの一歩を踏み出している。
風魔小夜が求めたもの――野菊と正重が真意に気づかされたのは手遅れになってからだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……小夜? どこへ行くのじゃ?」
そう声をかけ、小夜の向かう先――何の気なしに見やった野菊が顔色を変える。
小夜がふらつく足をすすめた方向には、先ほど正重がはじき飛ばした小太刀――小夜の持ち物であった武器が地に転がっているではないか。
「正重っ! 小夜をいかせては……」
「しまった――待てッ! はやまってはならん!」
野菊の必死の呼びかけに応じ、正重は駆け出して小夜の後を追う。
だが――、
手負いとも思えぬ瞬発力を見せ、小夜は小太刀のもとへたどりついた。
数歩の後れを取った正重が追いつき制止しようとしたところで――ぎくりと立ち止まる。
足を止めた正重の目の前では……小夜がその細い首筋に刃をしっかりと当てていた。
泣きそうな目で正重、野菊を見た小夜は必死の口調で懇願する。
「……頼む。お前たちが殺せぬというなら、せめて己の手で逝かせてくれ。人を襲う化生になりさがり、あの金色のどくろにあやつられるなど――絶対にごめんこうむる」
「おちつけ小夜、死に急ぎをするな……」
うかつに手出しすれば、小夜はすぐさま自らの喉笛を切り裂きかねない。
(……いや、こやつの気性ならば己の首すら刎ね飛ばすやもしれん)
小夜の決意を察した正重はためらう。
――と、そこでようやく野菊が二人のそばについた。
そしてすぐさま、小夜をどなりつける。
だが――、
「短慮はよすのじゃ! まだ打つ手はあるやもしれぬ!」
「――気休めはいい。野菊。もっとはやく話し合い、わかりあっておれば……このような結末にはならなんだかもな。それだけが、かえすがえすも残念だ」
そう小さくつぶやき、かすかに笑った小夜は小太刀を握る手に力をこめる。
白くなるまで握りしめられた手のひらと小さな震えに小夜の覚悟が見えた。
もはやわずかの猶予もないと知った正重、野菊は必死の声を上げたが――、
「ならぬ!」
「小夜っ!」
「……さらばだ」
――そんな二人に別れを告げ、小夜は己の首筋に当てた刃を引こうとした!




