二十一ノ怪
水色の香炉からすぅっと細いが立ち上ると、それと同時に襖が開かれた。
鬼の姿にギクリとしながらも何とか立て直す。
「一刻経ったカナ」
いつものように鬼さんが呼びかけるのに、紫さんから返ってくる返事はない。
「ン? ……どうした紫」
まずい。まさか紫さん、まだ気を失っているんじゃ……
焦って何か言おうとしたその時、細い煙が人の形を成してゆったりと頭を垂れた。
「あぁ失礼しました鬼様。つい転寝をしておりまして」
「転寝? ここでカ?」
「えぇ。御姫さんは私の御話がお気に召さなかったようでしたので、仕方なく香を焚いておりました」
「ほぉ~」
横目で捉えられ、反射的に目を逸らしてしまう。
紫さんは一体どう思っているんだろう。でも気を失っていたことを言わないところをみると、やっぱり時雨ちゃんに協力していたのは本当みたいね。
「まぁ良いカナ。紫を運んでやれ」
いつもと同じように天井裏から子鬼が降りてきて水色の香炉を持つと、紫さんを籠と部屋から運び出す。
最後に声をかけたかったけれど。そんなことをしたらせっかく時雨ちゃんが考えてくれたことが無駄になってしまう。
心の中で「ありがとう」と呟いて、わたしは静かに見送った。
「で? 今日はどうだったカ?」
問われた声に内心飛び上がる。まるで試合開始のゴングのような甲高い音が胸の内で高らかに鳴った。
一呼吸置いて、それこそ高鳴っている心臓に言い聞かせるよう一度自分を落ちつかせる。
「鬼さん、我が儘を聞いてもらっていて申し訳ないのですが、紫さんとのお話はもう結構です」
注がれている視線をそのままに、声が震えないよう気を引き締め腹に力を込める。
……大丈夫。わたしは大丈夫。絶対に上手くいく。
「紫さんはわたしにお話を聞かせるのが好きじゃないみたいで。それだったらわたしも一人のほうが良いです」
「ほぉ~……ソウカ」
上手く言えた。時雨ちゃんに言われた通りに出来たわ。
ひとまず吃音もなく、無事に言いたい事を伝えられてホッとする。
少し前に、時雨ちゃんから言われた言葉。
『まず紫と会うのをやめて。彼はこれ以上協力できないし、この先関わっていたら、紫だって私たちの事を鬼様にお伝えしないわけにいかないでしょうから』
不自然じゃないか不安だけれど、言うならこのタイミングでないとズルズル引き伸ばしてしまいそうで。紫さんがいなくなった後、すぐに言う事にした。
これなら紫さんも巻き込まれないで済むものね。
不意に頬に大きな手が添えられる。
思わず叫び出したくなるのを堪えて、されるがままにする。
「話し相手がいなくなって、お前はどうするんダ?」
「また頂いたお庭でのんびり過ごしたいですし、ここでもお裁縫出来ますから当分は暇を潰せます」
今までなんとか返していた物が、今ではとても緊張した、張り詰めたものへと変わっている。
それだけ鬼さんがわたしをいつでも良い様に出来るという事実が、喉元に刃を当てられているように、自分を恐怖に掻き立てているのだ。
「ソウカ。それより俺の酌をシナ。俺がまた構ってやろうカナ」
溜息、というより深く息を吐きたくなってしまいそうになるがこれも堪える。
こうなった以上鬼さんと接するのは極力避けたかった。いつボロが出るかもわからないし、鬼さんの気が変わって手を出してくるとも限らない。
「ドウシタ鈴音?」
撫でられる頭。
口から心臓が飛び出しそうになるけれど、なんとか飲み込んで頭を下げる。
「あ、いえ。ありがとう、ございます」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大広間でお酌をして大人しく鬼さんの話を聞く。
お酒の話を満足げに語るのを、落ち着かない気持ちで、相槌を打ちながらお酒を注ぐ。
いま自分はどんな顔をしているんだろう。
鬼さんの目を盗んで大広間に行く前に、常闇の花弁が詰まった瓶の中身を嗅いでみた。それで多少恐怖心を鈍らせてみたのは良いけれど。
顔が青くなってないか、目が泳いでないか、頬が引きつっていないか。
以前指摘された愛想笑いにも注意してはいるけれど、こんな精神状態じゃ自信はない。
「ハァ美味いナ。ん? これで終わりカ?」
「そうみたいですね」
わたしから空になった酒瓶を手に取って振ると、鬼さんは鼻を鳴らして床に転がした。
かれこれ十三回目のお酒だけれど。もう用意されたお酒はないみたい。
やっとお開きかしら。ずっと緊張していたから部屋に戻って一息つきたい。
期待しながら手持ち無沙汰なった両手を膝の上に置いて、肴を食べている鬼さんを見上げる。
「そう言やぁ俺の部屋に特上の酒があったナ。たまには俺の部屋で飲むのも良いカ」
「え?」
「鈴音来い。俺の部屋で続きをするゾ」
喉がしまって冷たいものが背筋に抜けて通る。
立ち上がった鬼さんはわたしの腕を掴んで立つよう促してくるけれど、手足が急激に重くなったわたしは立ち上がれなかった。
「何シテル。立て」
「え、で、でも。部屋で飲んだりしたら、汚れてしまうんじゃないですか? 飲むんでしたらお庭の方が良いかと」
恐らく常闇の花弁を嗅いでいなかったら、わたしは露骨に首を振って壁際まで泣いて逃げていたと思う。
鬼さんは眉を寄せてはいるものの、酷く不機嫌ではないみたいで、そこまでわたしが嫌な顔をしていないんだと推測できる。
「別に構わんカナ。酒とっていちいち庭に行くのも面倒だしナ。そら行くゾ」
今度はいくらか乱暴にわたしの腕を引く。力強さに負けて、おぼつかない足取りでわたしは立った。
そして腕を掴まれたまま、大広間の外へ連れ出された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
膝の上に乗せられ、胸にしなだれかかるよう頭を押さえつけられる。
瓶の香りの力を使ってはいるものの、さすがに顔が青くなるのを感じずにはいられない。
こんな時に限ってベタベタされるなんて本当に間が悪い。
もしかしたら本当に、ここで体も何もかも食い尽くされるんじゃ……。
そもそも鬼さんはわたしが言ってしまったのを知っているんだろうし、いつ押し倒されたっておかしくはない状況だ。
すぐ手を出してこないのは鬼さんの性格からして、ただ勿体ぶっているだけなんだろう。
でも、それに飽きればすぐさま覆いかぶさってくるに違いない。
今にも歯がガチガチ鳴りそうなのを食いしばって抑える。
今までの経験から言って、わたしが鬼さんに知られているという事実に気づいていると分かれば、きっとその途端に襲ってくる。
「今日は随分大人しいナ」
耳にかかった髪をかき揚げられ、鋭い指先が肌を掠めるとぞわりと鳥肌が立つ。
「はじめは小煩い生意気で愚かな子雀だと思っていたガ、イマは美味そうに育ったナ。早く喰ってしまいたいカナ」
「――っ、わたしなんて……美味しくないですよ……お腹、壊しちゃいますよ」
平静を装うように冗談っぽく口に出すも、震えたものしか出てこない。
鬼さんが身じろいで乾いた音が聞こえる。そして肌を伝って振動が伝わってきたから、お酒を飲んだのだと分かった。
「お前は本当に馬鹿ダナ。俺が見た限りあの人間三匹はロクな奴じゃ無いゾ。まぁ醜いことダ」
「三人がどうしているか、知っているんですか?」
「見たいカ?」
するりとがたいの良い体が離れて、ホッとすると同時に眉を寄せる。
目で追うと、鬼さんは部屋の飾り棚に飾ってあった鏡を手に取り戻ってくると、わたしの傍らに乱暴に座った。
鬼さんは鏡を何度か手のひらで撫で付けたあと、ふっと息を吹きかけてわたしの前に差し出してきた。
「今のアイツ等の様子だ。見てみナ」
日本史の教科書にでも載っていそうな青銅と思われる金属に縁どられた鏡を手に取り、鬼さんに促されて怖々と覗き込む。
水面にように鏡の表面が揺らめくと、一人の太った若い男性の姿が映し出される。体型は随分変わってしまたけれど、その顔はなんとか同級生の面影があった。名前は確か……
思い出そうとした途端に、彼が何かを蹴飛ばした。それから何かを話して、また何度も何度も面白そうに、わたしからは見えない何かを立て続けに蹴飛ばした。
徐々に周辺の風景が現れて、チカチカと光るネオン街が同級生を取り囲む。そして同級生の足元に倒れる、気弱そうな男の子。
これは……なに……?
同級生は男の子の頭を鷲掴みにすると、彼のポケットに乱暴に手を突っ込み何かを抜き取る。
同級生の手には財布。ニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら中身を抜き取ると、男の子の口の中に財布を押し込んで殴った。
「ひ、酷い……なんて酷いことを……」
思わず自分の口から言葉が漏れる。
倒れ込んだ男の子を放って、街へと消えていく同級生。それに群がる派手な格好をした男の人達。
「ほか二人も同じようなもんカナ。優男のほうは女を取っ替え引っ替え貢がせては豪遊してるし、金がなくなりゃゴミよろしくポイだ。女の方は道を外して派手に着飾り、取り巻きを連れて、今日も一人の気弱な女を鬼婆も真っ青ないびりをして楽しんでいるカナ」
鬼さんが長い指を鏡に向けて薙るように振ると、男女がそれぞれ浮かび上がる。
モデルのような長身の男性のほうは、多分同じクラスだった男子だ。薄らとだけど、やっぱりこっちも面影がある。
彼の足に縋り付いている女の人は知らない。泣いて彼の足を必死に掴んで泣いている顔にはたくさんの痣がある。
これって、この、同級生がやったの?
そう思った途端に彼は彼女の顔を蹴った。
床に転がる彼女。それを汚いものを見るかのように顔を歪める彼。
そしていつの間にか隣にいた別の女性の肩を抱いて部屋と思わしきそこから立ち去っていった。
見えた光景に唖然とする。
こんな、こんなこと……なんで? どうしたらこんな酷いことができるんだろう。
顔を引きつらせているわたしを前に鏡が瞬くと、今度は髪を明るい茶色に染めた、可愛い顔をした女の子が浮かび上がる。
きっとこの子もあの時一緒にいた別のクラスの女子なんだろうけれど、この子は……あまり面影がない。
当時はどちらかというと真面目で目立たないような子で、今映っている派手な彼女とは正反対の印象だった。
長くて細い足を組み、つんと顎を上げて何かを面白そうに眺めている。
その彼女の前には、……墨を頭からかぶって泣いている女の子。ガタガタ震えてとても怯えていた。
かつての同級生はそれをさも可笑しいと笑い、周りを囲んでいた他の女の子達に何かを言うと、皆一斉に泣いている子にバケツで水をかけ始めた。
「やめて……! なんでこんな事するの! 信じられない! 鬼さん早く」
言い終わる前に鏡に映された人々が消える。ただ蒼い、引きつった顔をしたわたしが写っているだけ。
「お前が俺に自らを差し出しているのも知らずに。欲を撒き散らして結構なことダ」
見上げた先に、紅い鬼の顔。その悪鬼の横顔に背筋が寒くなる。
もしわたしが逃げ出せば、三人はこの鬼に連れ去られて散々いいようにされて殺されてしまう。もちろん、見殺しになんかしないけれど。
でも……正直、今は……とても……複雑な気分だわ……。
「ナァ鈴音。お前は稀に見る日向に満ちた人間ダ。ダガ人間皆お前みたいな奴ばかりじゃあナイ。お前は綺麗事ばかり並べるがコレが現実」
知らずに俯いていた顔を顎をすくわれ、視線を合わされる。
「お前はあいつらを見殺しにするカ? 帰りたいカ?」
わたしはぎこちなく、けれども横へ首を振った。
酷いことしているからって、だからって、死んでいいわけがないし、見殺しになんて出来ない。
心の底では首を傾げて抗議している自分がいるのを知らないわけじゃないんだけれど、とにかく今は、首を縦には振れない。
「……本当に鈴音は馬鹿ダナ。まぁだからこそお前に目を付けた甲斐があったというものだがナ」
抱きかかえられて、鬼の手が太ももを撫で上げられてくる。
突然のことに慌ててその手を両手で押さえつけて、強く制止する。
「何するんで」
「お前みたいな日陰知らずのメデタイ馬鹿は絶対に見殺しなんて出来っこないからナ。おかげで俺もじっくり楽しめるというものカナ」
「やっ」
ざらりとした舌がうなじを舐め上げて反射的に声が出る。それから押さえつけている紅い手の親指が、わたしの両手をすり抜けて内股を撫でるように妖しく動いた。
もう、嫌だ。
もう泣き出したかった。
鬼さんを突き飛ばして、この部屋からも屋敷からも逃げ出したかった。
時雨ちゃんは私に任せてくれと言っていたけれど、でも、わたしが逃げたらあの三人は……
鏡に映った醜態。悪人さながらの傲慢な顔つき。そのせいで泣いている人たち。
本当に彼らを見殺しにしてはいけないの? あんな酷いことをしているのに? 自分が鬼に嬲られてまで助ける必要があるの?
頭の中をずっと同じ疑問が繰り返される。
「あの、鬼さん……」
「ン? なんだ?」
「万が一、わたしがいなくなったら、あの三人はどうなるんですか?」
鬼さんの執拗な嫌がらせに喘ぎながら、危険な質問だとは頭ではわかっているんだけれど、不意に自分の口から零れる。
鬼さんは徳利を口で咥え、そのまま直に口で飲み干す。そして徳利をプッと吐きだしニヤリと笑んだ。
「そうだナァ~。丸々太っている奴は脂身が多そうだから火でじっくり炙ってから食いたいカナ。いい悲鳴も聞けるだろうから宴でもひらいて皆の前で焼くのが良い。二枚目の男は女郎蜘蛛にでも遊ばせてやって、その後拷問漬けにしてドコまでもつか余興にしても面白いかもナ」
膝の上に落ちた鏡が瞬くと、例の同級生がクラブのような所で女の子数人を囲って煙草をふかせている。先ほど蹴った女の子の物と思われるお金を、惜しげもなく使ってお酒を頼んでいた。
よく見れば、メンバーの中にイジメをしていた同級生までいる。
「配下にしようかと思ったが、あんな性根の腐ったふやけた奴、ありゃいらんカナ。女も男遊びで体は随分慣れているみたいダナ。だったら飢えている奴らにくれてやって、男も女も太った奴同様、最後は骨まで食ってやるカナ」
鬼さんが息を吹きかければ鏡は彼らを映すのをやめた。
そして鬼さんが鏡を棚の上に放ると、わたしの体に逞しい腕を巻きつけてきた。
「まぁ、鈴音が俺から逃げることなんざナイから、奴らを味わったりは出来んガナ。いや惜しいことしたカナ」
背後から髪越しに鬼さんの吐息が伝わり、背中が粟立つ。首筋に牙が当たった感触がした後、舌先のぬめっとしたものが押し付けられる。
「――ぅっ」
何かを考える間もなく、反射的に腰を浮かすがお腹に回され逞しい腕によって阻まられる。
「ドウシタ鈴音ぇ」
狂喜を含んだ低い笑い声に背筋が凍りついた。
まだ足を撫で付けようと蠢く紅い手を懸命に抑えている両手が震えだし、きつく閉じた口の奥では歯が本格的に鳴り始める。
耳たぶに吐息を感じる。それから軽く牙を立てられると同時に、ついに耐え切れなくなったわたしの目からは、大粒の涙がボロリと零れた。




