二十ノ怪
紅い月の光が差し込む部屋の中。
白い骨の色をした格子に囲まれて、目の前の鬼女に目を見開く。
「みっ……あ……時雨、ちゃん……?」
黒い河の前で見て以来、直に会うことが無かった美しい鬼。
長くて流れるような黒い髪。凛と伸ばした背筋。透き通る声と白い肌。そして小さな顔に艶っぽい目と口元。
昔の、わたしの、鬼になってしまったかつての親友。
その彼女が、今目の前に佇んでいる。
「久しぶり」
微笑んだ顔は慈愛に満ちていてとても柔らかい。夢で見たのと同じ。甘くて妖しい香りが、黄色い菊模様の着物に包まれた彼女から香る。
「ほ、本当に時雨ちゃんなの?」
「やっと会えたね。鈴音ちゃん」
信じられないという気持ちでまじまじと彼女を凝視するわたしに、ふふっと品良く彼女が笑う。
「驚いた? 突然のことだものね。……元気そうで良かった」
今見ている姿が昔の、本当の彼女のものではないと分かっているんだけれど。
彼女が笑って、微笑んで。嬉しそうな顔をしているのを見て、わたしは思わず彼女に抱きついた。
柔らかい感覚に包まれると、ふわりと辺りにあの妖しい香りが立ち上る。
「良かった……! 良かった。会いたかった! 会いたかったよ!」
「うん。私も会いたかったよ……鈴音ちゃん」
優しい手つきで背中に柔らかいものが回される。
ぎゅっと抱きしめるのにどこか不安定な感触。スカスカする低反発枕を触っているような、ふわふわとした空気の塊を触っているような、とにかく不思議な感じ。
あれ? でもどうしていきなり時雨ちゃんが現れたんだろう。
紫さんが消えて、というよりいきなり膨らんで、前が見えなくなったら時雨ちゃんがいて……
「え? どういうこと? 紫さんは、時雨ちゃんだったってこと?」
彼女から離れ置かれている水色の香炉に目をやると、今は何も立ち上っておらず、紫さんの姿は見えない。
ただ薄ら、時雨ちゃんの周りに霧が浮かびあがったり消えたりを繰り返している。
「ううん。紫に憑依しているだけ。私のこの姿は実体ではないし、今彼は意識が無い状態だわ。紫は貪欲の鬼様の配下だけれど、わたしに恩があるから『一度きりだけなら』と協力してくれたの」
またふふっと笑うと、ぱっちりとした目を細くさせた。
「鈴音ちゃんがわたしの仕掛けに気づいてくれて良かった。気づいてくれなかったら会える機会を完全に無くしていたもの」
「仕掛けってあの光る花のこと? やっぱり、あの花は時雨ちゃんだったの?」
「そう。鈴音ちゃんが常闇に戻ってきた時から造って育てたの。きっと貪欲の鬼様は、私に鈴音ちゃんを会わせてくれないと思っていたから。だから前もって、こうして鈴音ちゃんにしか分からない香の花を作って、いつチャンスが巡ってきても良いようにしていたの。上手くいって良かった」
優しく微笑まれても、いきなりの状況に頭が混乱する。
えっと、いま目の前にいる時雨ちゃんは紫さんに憑依していて、紫さんはそれを了承しているってことよね。それであの常闇の花は時雨ちゃんが作ったものだったっていうことで良いのよね。
あれ? でも今、わたしにしか分からない香りって……
「いま香っている香りって、わたしにしか分からないの?」
「うん。妖怪には嗅ぎとれない特別な香なの。仮に出来たとしても、とても微弱だから気づかれにくいわ」
「じゃあ鬼さんにはあの花の香りが分からないのね」
だからわたしが紫陽花のお香を手に入れても、鬼さんは気付かなかったんだ。
今思えばあの鬼遊びの時もあれだけ強い香りだったんだから、鬼さんが気づいてもおかしくはなかったのに、他の妖怪も同じように何も言っていなかった。思い返せば不自然だ。
「ねえ鈴音ちゃん」
呼び声に顔を上げればどこか寂しげにこちらを見る時雨ちゃん。
「鈴音ちゃんは鬼様が嫌いなの?」
わたしは言われた言葉と投げられた表情に、一瞬何を言われたのか分からなかった。まるでわたしと鬼さんが深い関係にならないことを嘆いているかのように聞こえるけれど……。
「それは……どういう意味なの?」
「鬼様を憎んでいるのかなって」
「だって、鬼さんが時雨ちゃんを騙したりしなければこんなことにならなかったんだよ! 時雨ちゃんの弱味に付け込んであの時――」
言いかけて、口が不意に止まる。
――あの時ってどの時だっけ?
確かに悲しいことがあった。悔しいことも、焦ったことも、悔しいと思ったことも。
けれども具体的に思いだせない。誰が、いつ、どこで、なにを?
思いだせない。一つも。
そこだけすっぽり、記憶が抜け落ちている。……いつの間に?
じわりと寒いものが背中を撫でる。これも鬼さんと何か関係があるのかしら。
「昔のことはもう良いから。今のことを考えましょう?」
労る様に蒼くなっているであろうわたしの顔を、綺麗な顔が覗き込む。
「鈴音ちゃんは鬼様と上手くいってないみたいだけれど……この先貪欲の鬼様と暮らしていくのでしょう?」
一瞬にして忘れていた事実を思い出し、ざっと青ざめる。
そして吐き気も。
そう、だ。わたし、言っちゃったんだ。帰りたいって。気を付けていたはずなのに。つい、気が緩んで……。
思わずよろけてその場にしゃがみ込む。
「わ、わたし……嫌……」
また霞み始めた視界に血の気が引いた手足が映る。体も思い出したかのようにブルブル震えだす。
「わたしは嫌……鬼さんと……」
言いかけて、首を左右に振る。
言葉に出すのも嫌だ。
「でも鈴音ちゃんは鬼様と約束したんでしょう? 常闇に残るって。そんなに怖がらなくても大丈夫よ。鬼様も鈴音ちゃんに手を上げたりはしないでしょうし、怪我だって」
「ち、違うの……それだけじゃ、ない、の」
「え?」
形の良い眉が寄せられる。
わたしはとてもじゃないけれど、口で説明するだなんて出来なかった。ただ怖くて怖くて。ガタガタその場で震えるしか出来なかった。
鬼さんとは多少言い返したりしたこともあったし、助けてもらうこともあったけれども……それとこれとは全然違う。今までなんとか接してこれたのも、まだ身を守れる確かなものがあったからだ。
常闇に連れ戻された時に這わされた手や舌を思い出すだけで、あの時の恐怖感が戻ってくる。
絶対に敵わない力の強さ。押しつぶしてくる屈強な肉体。自由を奪われていく身体。弄ってくる舌と声。狂喜に光る妖しい紅。
思い出せば思い出すほど恐怖に駆られていく。体の震えも増していく。
なにかを察してか、時雨ちゃんは何も訪ねなかった。とても軽い手がわたしの背中をさすっていた。
「時雨ちゃん……わたし怖いよ」
「うん」
「約束したけれど、怖くて仕方ないよ」
「そうだね」
「出来るなら逃げだしたい……怖いよ……帰りたいよ」
またぼろぼろと涙が出てきて鼻をすする。
常闇にきてから、鬼さんに囲われてから、もしかしたらこんな風に誰かに泣いて縋ったのは初めてかもしれない。
背中を撫でる手は暖かくはないけれどとても優しく感じられて、わたしはまた別の意味で泣きたくなって彼女の不安定な身体に強く抱きついた。
「鈴音ちゃん」
顔を上げると、時雨ちゃんが労りに満ちた顔をしてわたしを見ていた。
「ねぇ鈴音ちゃん。私の所へ来ない?」
「え?」
驚きのあまり目を見開く。
一瞬、こんな状況なのに冗談かなにかかと思ってしまったけれども、彼女の目はいたって真剣だった。
「常闇からは出してあげられないけれど、貪欲の鬼様のお屋敷からなら、逃がしてあげられるから」
「そんなこと……出来るの?」
信じられないと見詰めると、綺麗な目元が和らいだ。
「もちろん。じゃなきゃこんなこと、嘘でも言わないわ」
絶望のどん底から一筋の光が射したことに、頬に熱が戻っていくのを感じる。
鬼さんから逃げられる。鬼さんに嬲られなくて済む。毎日毎日機嫌を伺わなくて良くなる。
唯一の逃げ道に気持ちも昂揚していく。自由になれるんだ!
あ……でも……
喜んだけれど、わたしはあることに気がついて肩を落とした。
いきなり意気消沈したわたしを不思議そうに見つめる時雨ちゃんにゆるく顔を横へ振る。
「……だめよ時雨ちゃん。わたし、鬼さんに呪いを掛けられているんだった」
「呪い?」
「わたしが逃げたらこの首輪に掛けられている呪いが働いてしまうみたい。そして逃がそうとした人にも呪いが掛かるって鬼さんが言っていたわ」
希望が風船のように萎んでいく。
やっぱり……無理なのよ。鬼さんから逃げるなんて。
もともと自分のミスでこんな事態になっているんだから、潔く諦めるしかない。
それに、やっと幸せになれた時雨ちゃんを巻き込むわけにいかないもの。わざわざ鬼さんの反感をかう真似なんて、させられない。
「時雨ちゃんありがとう。こうして話が出来るだけでも、わたし嬉しかった。もしまた会うことが出来たら、その時は時雨ちゃんのこともっと聞かせてね。そろそろ鬼さんが戻ってきちゃうから、もう帰った方が良いよ……」
無理やり笑顔を作って時雨ちゃんを送り出そう顔を上げかけるけれど、どうしても涙が滲んできてしまう。
項垂れたわたしに、時雨ちゃんがふわりと香をまとわせながら。わたしの手を握った。
「私に考えがあるの。任せてくれない?」
「考え?」
艶やかな桜色の唇が笑む。
そしてそれをわたしの耳元へそっと寄せた。
「あのね――」
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さわさわと温い風が二人の間を通り抜ける。
一通り話し終えた時雨ちゃんは、わたしに『がんばって』と両手を包んだ。
心細さに、思わず白魚の手を握り返す。
「そろそろ、行くね」
「……うん」
「そんな不安そうな顔しないで。私の言う通りにすれば大丈夫だから。辛いかもしれないけれど、少しの間辛抱して」
「ありがとう……時雨ちゃんも、気を付けて」
時雨ちゃんは静かに頷くとその姿を透き通らせ、滲んだかと思えば霧のように惜しむ間もなく消えてしまった。
一人残され部屋の静寂に囲まれていると、まるで今起こっていたことが全て夢だったかのように感じる。
けれど、彼女がわたしに伝えた言葉が何度も反芻されると、ひやりとしたものが横顔をなぞった。
手のひらを開ければ、あの常闇の花弁が詰め込まれた小瓶。
蓋を緩めるだけであの甘い香りがあふれてくる。
小瓶を帯の間に仕舞い込む。
部屋の外も中も異様に静かで、水色の香炉からは音も無く何も香ってなんてこない。
ただ妖しい残り香が、部屋とわたしを包んでいた。




