二十二ノ怪
肌触りの良い青い浴衣には、赤い柘榴の花が咲き誇る。
その上を無遠慮に、花の色とは違う、紅い大きな手が這い回る。
「鬼さん、やめてっ……お願いっ」
足を撫でまわしている手を必死で押さえ込み、甘噛みされている耳をもう片方の手で庇う。逃げ出したくても逞しい腕がしっかりお腹に回されて身動きがとれない。
「ナゼ嫌がる? 撫でてやっているダケじゃないカ」
さも面白そうに、声に笑みを含めながら話す鬼。
腕に力が込められたら、息も苦しくなり、自然と自分の眉と口が歪む。
「嫌なんですっ……離して下さい!」
叫んで喝を入れると同時に、腰と足に力を入れて立ち上がろうとするが、どうしても鎖みたいに体に巻きついている腕から逃げられない。
「そう暴れるナ。別に喰おうとしているわけじゃあナイだろう? それとも焦らしているのカナ?」
鬼さんの言葉と吐息から逃れるように首をぶんぶん横へ振る。
以前からこうした嫌がらせはちょくちょくあったけれど、今回は過去を優に超えている。
まるで常闇に連れ戻された時の再現。いや、それ以上だった。
あの時は衣服の上から弄られただけで、直に肌に触ろうとはしなかった。けれども今は内股をなぞり、今にもその上へと這うような動きを見せている。
鬼さんとの間にあった、ほんの僅かな、細い絆のようなものが解れていく。
少しでも仲良く過ごせるように努力していた自分がなんだかバカみたいで。
でも今は悔しいとか、悲しいという感情はなかった。
妖しい手つきや腕の力強さが、ただただ怖くて堪らなかった。
「鬼さんやめて下さい……お願いです」
再度懇願のために口を開けば、震えた涙声が吐息混じりに零れる。足も手も肩も、全身小刻みに震えて止まらない。
未だに撫でられている足を無理やり自分へと引き戻して、できる限り縮こまる。今のわたしに出来る、少しでも身を守る術はこれしかなかった。
「鈴音ぇ。そんなに強ばらせると肩凝るゾ? 少し力を抜け」
足をしつこく弄る手が肩へと回されて、線に沿うように撫で付けられる。
その触り方がいつもの力強いものではなく、繊細でとても艶めかしいもので、思わずぞわりと背中が粟立った。
も、もう嫌だ……もう嫌だ、もう嫌だ!
感じる感触も、それに反応する自分も、翻弄してくる鬼の手も、それを見て嗤っている鬼も、すべてが嫌だ!
半泣きを通り越してすでにボロボロ泣いたわたしの頬はびっしょり濡れて、俯けば胸のすぐ下に巻き付いている逞しい筋だった腕を濡らしている。
塞いでいない方の耳をなにかが掠める。
また舐められたら堪らないと、思いっきり顔を背けて両手で両方の耳を塞ぐ。きつく目を閉じれば、またボタボタと涙が零れた。
それでも追いかけて、グイグイ口先で隙間を割って入ろうとしてくる鬼の顔。思わず耳を塞いでいた手を、鬼の顔いっぱいに当てて力任せに押し退けた。
途端に押し潰されるような物凄い力で両手を掴み上げられ、拘束される。
「痛っ」
「……それ以上可愛げのナイ雀でいるなら、今ここで貪ってやろうカ?」
耳元で囁かれた威圧感のある低い声。
頭で理解するより早く、折られた膝を無理矢理伸ばされ足と足の間に一閃が走った。
ヒヤリとする足元。真っ二つになる青地の赤い花。そこから覗く、青白くなっている自分の両足。
一瞬足を切られたのかと思った。あまりの恐怖に全身の震えが止まり、手首が解放されているのにも気づかず、呼吸も止まった。
やっと我に返って動けたのは、鬼さんが直に内股を撫でた時だった。
「嫌っ! 嫌ぁ!」
口から半狂乱になった金切り声が飛び出る。
命と、それとはまた別の大切なものが奪われる恐怖から、理性が全身から吹っ飛び錯乱した。
曲げられることの出来ない上半身を、露わになった足を隠そうとして必死に捩り、手で鬼の手を剥がそうと掴む。その間も、足をバタバタ激しく動かし、鬼の行動を少しでも阻止しようと躍起になった。
「あぁ足だけじゃ嫌カ? ならコッチも可愛がってやろうカ」
お腹に巻かれた腕が緩んだかと思ったら、すぐ上にある胸元に伸ばされる。左胸を覆うように掴まれた瞬間、心臓まで鷲掴みにされた錯覚を起こし、ヒッという息を吸い込んだ音が自分の口から鳴った。
「すごいナ鈴音。まるで兎みたいにジタバタ跳ねまわっているゾ」
たぶん心臓の鼓動のことを言っているんだろう。
胸というより喉元から鳴っている音が、内部から伝わって耳に届く。それと一緒に自分の嗚咽まじりの短い吐息も。
金縛りにあったかのように動かなくなる体。
自由を奪われ、動けなくなった代わりにまた体が小刻みに震え出す。
怖い……こんなの嫌だ……このまま奪われ尽くされるなんて嫌だ……
自分の心と体がバラバラになったみたい。自分が今どうなっているのか、どんな状態なのか分からなかった。
頭によぎる三人の同級生。彼らの悪行が霞む視界に蘇ってくる。
なんだかとても悲しかった。言葉では説明出来ないような、どう言って良いのか分からない深い悲しみが、心の底から溢れてきた。
自分の身の上を嘆いているのか、助けたはずの彼らに抱いていた、勝手な希望を裏切られた落胆なのか。
それとも心のどこかで、鬼とでも友好関係を築けると、能天気に期待していたものが今この瞬間に消えようとしているからか。
気づけば静まり返った部屋に、自分のすすり泣く声が響いていた。
相変わらず紅い腕と手は、自分を拘束して離れてはくれない。
「なぜそこまで怖がる鈴音。さっきも言ったが、別に喰ってやろうとはしてイナイだろう? ちょいと可愛がって撫でてやっているダケじゃないカ」
ガクガク震えるわたしを宥める様に、顔の側面に顎を摺り寄せてくる。それからペロリとわたしの目の端を舐めあげた。
「なにか不安なことでもあるのカナ?」
皮肉なことに、鬼のセリフにほんの少しだけ冷静さが戻って来る。
これは確かめているんだ。わたしが『帰りたい』と言ってしまったことを、わたし自身が気づいているか。
ふ、ふ、と口から苦しげな吐息が出る。その時に喉がカラカラになっているのに気づいて、僅かばかりの唾液を呑み込んだ。
「ふ、不安も、なにも。鬼さんは、こんな事、今までしなかったじゃないですか。こんな、ここまで、嫌なこと、しなかったじゃないですか」
未だに震えが止まらない手に再度力を込めて、足に張り付いている鬼の手を掴む。
「嫌なんです。怖いんです。……もう放して下さい」
懇願しているうちに、また涙が溢れて視界がぼやける。骨ばった手を必死に掴んだ両手が滲んでいく。
それでも、紅い手はわたしがいくら離そうとしても微動だにしなかった。
もうこのまま喰われるしか道はないのかな。これ以上抵抗したって、行き着く先は決まっているのかもしれない。
そう思えば暗くて冷たいものが、腹の底から溢れて毒のように自分の体を蝕んでいくのを感じた。自分の体から、力が抜けていく。
もうダメなんだ……
まるでそれが遺言のように思えた。
力が抜けた体が、厚い胸板にぐったりともたれ掛かる。
「……嫌ねぇ。俺としては戯れ程度なんだがナァ」
溜息まじりの声が聞こえたと同時に、足と胸元から熱い手が離れる。
思わぬ鬼の行動に一瞬何が起こったのか分からず固まってしまったけれど、またお腹の上に両腕を回され、再度力が抜けたはずの体が強張る。
「俺はお前を喰いたくて堪らないんだがナァ……」
髪に割って入ってきて首筋にまた鬼の口先が当たる。反射的にびくりと肩が震える。
それをまた宥めるように、うなじに鬼の頬が当たって擦りつけられた。
「……なんで、そんなに、食べたいんですか?」
鬼さんの心底残念そうな声に思わず訊いてしまった。
本当に、わたしのどこが美味しそうなんだろう。
そんな疑問と同時に、別の疑問も沸く。
鬼さんの性格なら、美味しくて堪らないのなら、すぐに食べてしまったとしてもおかしくはないのに。なぜ自分はつい最近まで無事でいられたのだろう。
鬼さんが、わたしが『帰りたい』と言わなければ手を出さないという条件を出したのも、それを破ったわたしをすぐに食べないのも、不思議と言えば不思議だ。
色々自分で憶測したものの、こうも鬼さんが自分で自分におわずけを与えるのも不可解だ。
「さぁなぁ。俺も散々喰い散らかしてきたが、お前は溢れんばかりの、日向の匂いがするからかもしれんナァ」
「日向の?」
「疎ましいハズなんだが。お前だと良い匂いダ……」
鬼さんらしくない、どこか感傷的な口調。
先程までの身勝手な乱暴さとは正反対な、穏やかで優しげな物言い。
いきなり悪鬼の気配を消して、普段の軽薄な鬼さんに戻り、わたしは混乱した。
それこそ荒れ狂う嵐から解放された安堵感よりも、打って変わって静かに抱きすくめる鬼に不可解さと戸惑いを感じて、わたしはただただ困惑して動けないでいた。




