第5話
今日は休日である。
休日というからにはたくさん休めばいいじゃないかと思われるかもしれないが、実際のところ、平日の仕事の準備をする為の日になってしまうのは、仕方がないことではなかろうか。
今もそう。
王都のとある商店へ、授業で使うものを買い揃えにいく途中だ。
ああ、しまった。物思いに耽りすぎていた。
今は同行者がいるのだ。
立ち止まる。
わずかばかりに振り返り、その同行者へと声をかける。
「ご婦人、申し訳ない。少し速すぎましたね」
そこにいるのは老いた女性だ。腰が曲がっており、歩幅も短い。
俺との距離が少し開いてしまっていた。失敬。
「いえいえ、〈復生体〉様にご一緒いただいているだけで、恐れ入ります」
ご婦人は杖を突きつつ、少し息を切らせながら歩いてくる。
疲れているのかと心配になったが、どうやら違うらしい。少し興奮しているようだ。
しかし、どことなく所作に品がある。
「気にされる様なことは何も、道中お困りだったようなので」
俺は両手に抱えた紙袋を少しだけ上げて示す。
商店へと向かう途中なのに、何故すでに大荷物なのかというと、理由は明白、単純明快。こちらのご婦人の荷物だ。
曰く、買い物を終えた直後に使用人からおずおずと、今日が使用人の妻の出産予定日であることを告げられたらしい。ご婦人にも夫がおり、今は孫娘もいる身。大事な時に夫に傍にいてほしい妻の気持ちがわかる。もっと早く言いなさいと、ご婦人は使用人を叱りつけて妻の元へと向かわせた。
「そこまでは良いのですが、その荷物にほとほと困り果てておりました」
そこに俺が通りかかったという訳。
「〈復生体〉様のご用事のお邪魔をしてしまい申し訳ありません」
ご婦人が隣まで来たのを確認して、俺は歩みを再開させる。
今度はもう少しゆっくり歩くこと意識しながら。
「こちらの用事は急用という訳ではありませんから、気にしないでください」
「たしか、商店へと向かう途中だったとお聞きしましたが、失礼ですが、何をお求めになるのか伺ってもよろしいですか?」
「はい。なんてことない物ですよ。地図です。知り合いの商人から取り寄せようと思って」
「地図?」
「そうです」
「それなら商人から取り寄せる程のものではないのでは?」
「いや、えーっと。欲しいのが七百年前の世界地図でして、既に出回っているものをいくつか見てはみたのですが、記憶と少しばかり差異があり……どうせなら商人から取り寄せてもらおうと」
「差異ですか、興味深いですね」
ご婦人がふむふむと首肯した。
「長く生きると細かい事が気になっていけませんね」
「いえ、〈復生体〉様が長生きでいらっしゃることはもちろん存じおりましたが、会話の中でこういった話が出てきたこと、なぜだか嬉しく思います」
有名人万歳。
尊敬の眼差しに少しばかり浮かれてしまう。仕方ない。俺はわかりやすく俗物的なのだ。
「そう言ってもらえると嬉しいですね。ところで、ご婦人は今まで何をされていたのですか?」
言ってから少し後悔する。漠然とした質問を投げてしまった。
一緒に歩くこの人の人生に興味を持ってしまい、後先考えずについ口走ってしまったのだ。
「今まで何を、ですか。〈復生体〉様にお伝えするには少々浅い人生経験にはなりますが——」
ご婦人は遠い目をした。何かを思い出すような、懐かしむような。そんな目だ。
それでも俺にとっては少し近い思い出なのだろう。
「へぇ。踊り子をしていたのですね。ん? その時期にあの劇場で踊っていたということは……もしかして?」
「ご存じいただけて光栄です。その、マリアに御座います」
知り合いくらいだと思っていたがまさか本人だったとは。
マリア・トマは世紀の大スターだ。
「当時新聞で読みました。貴族平民問わず求婚を受けていたとか。チケットを取るのに貴族でも苦労したとか。一目その舞を見たいと他国から皇族がやってきたとか」
「昔の話です」
ご婦人が照れる様に口元を緩ませた。
こちらとしては有名人に会えてぶち上がりそうになるテンションを抑えるのに必死だ。
「俺も一度は婉然の舞を視界に収めてみたかったです」
高潔な踊り子。婉然の舞。当時の彼女を彩る呼び名は多い。
踊り子が全てそういうわけではないが、専業で食べていくのが難しいという理由から体を売るといったこともしばしばあるという。
しかし、マリア・トマは貴族からも求婚されている。つまり、その抜群の舞の才と美貌でそれ一本で食べていける程の実力の持ち主だったというわけだ。もちろん、当時の世間の評価はそれ以上だった。
「お見せしたいところではありますが、私も歳を重ねました。もうおばあちゃんです」
ご婦人が空いた手で自らの腰を摩った。
そこには腰が曲がった老婆がいた。
しかし、あらゆる所作に今でも美しさが宿っている。当時多くの者を魅了した舞は、今でも彼女の中に生きているのだ。
「もう踊る事は難しいかもしませんが、ご婦人は今でもお綺麗ですよ」
「まぁ、なんと。口がお上手でいらっしゃいますね。この歳で胸をときめかせることになるなんて思ってもいませんでした。ああ、そうです。今は孫娘のメアリがあの劇場におります。一目見てあげてはいただけませんか?」
「よろこんで。高潔な踊り子の孫娘さんの舞でしたら、きっと一生の思い出になるでしょうね」
「でしたら……〈復生体〉様は今どこでお役目を? チケットを手配させていただきます」
「今は縁あって王宮で王女の歴史の先生をしています」
「そうなのですね。それでしたら、夫に直接お渡しさせていただきます」
直接、妙だな……。
先ほど自分が口にしたことを思い出す。目の前のご婦人は貴族からの求婚も受けていた。
王宮にいる俺に直接ということは、夫は貴族だろう。
となれば、知り合い?
「それにしてもありがたい事です。今の私にとっては遠い過去のことでも、憶えいてくださる方が確かに存在する。これはとても嬉しい」
ご婦人の言葉を聞いた俺が上の空でその内容をしっかりと認識できないまま——悲鳴が聞こえた。
「まずい——退いてくれ!」
最初に聞こえたのは道端からの女性の悲鳴。
次に聞こえたのは張り裂けんばかりの男性の叫び。
こちらに馬車が突っ込んでくる。
そうかろうじて認識できた。
咄嗟に馬を受け止めようと手を伸ばす。——駄目だ。馬は止められても、荷台の慣性までは止められない。
俺はご婦人の前に立ち背中で彼女を庇う。
大きな音が聞こえた。
衝撃に飲み込まれる。その衝撃を決して腕の中の女性へと届かせないように歯を食いしばった。
目を開けて、自らの体の下にご婦人がいることを確認した。
よかった息がある。怪我も……ほとんどしていない。気を失っている様だが、当然のことで驚いただけだろう。
俺の体は痛むが、問題ない。犠牲者はいない。
耳元で液体が滴る音が聞こえた。
液体。さらりとした、それほど粘度が高くはなさそうな音だ。
見ると、荷台にあった金属の箱から漏れ出ているようだ。
その液体が辺りに飛び散っている。
匂いはしない。
背中が寒い。この液体を被ってしまったようだ。
周囲を見渡すと、煙草を咥えた男性が呆然とこちらを見ているところだった。
男性は目の前で起きた事故に呆気に取られている。
だから当然、煙草を咥えた口元も弛くなる。——煙草が落ちる。その男の足元にも液体の水たまりが広がっていた。煙草の火が、地面を濡らす液体へと向かっていく。
急速に駆け巡る悪寒。
なぜかはわからない。しかし嫌な予感がするといった生優しいぼんやりとした感覚では決してない。
俺はそれに従うように体の下で気を失っているご婦人を投げた。
俺にできたのはそれだけ。
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目が覚める。
先ほどグレースと来たばかりの王城の最上階だ。
どうやら死んだらしい。
俺にとっては三年ぶりだ。
すぐ側に畳まれた衣服がしまってある棚がある。メイドさんたちがこの様な時の為に用意してくれている物だ。俺はそれを着て、いつも通りの足取りで階段を下って行く。
後から聞いた話によると、俺はカーで使用する可燃性の液体を運搬していた馬車の事故に巻き込まれたらしい。おそらく馬が鋭い小石でも踏んでしまったのだろう。
何も憶えていない。
それと側にいたという老婆は無事とのことだ。
これも何も憶えていないが、どうやらかの有名な婉然の舞と知り合っていたらしい。
老婆の夫という顔見知りの貴族から涙ながらにお礼を言われた。
俺は、何も憶えていない。




