第6話
グレースは余程不安そうな顔をしていたようだ。仕方ない。瞳が潤むくらいには不安だったのだから。
でも一安心だ。
リベルは記憶を繋いでくれた。
だからもう、大丈夫。
「それで、わたしに何を伝えてくれるの?」
「うん、そうだったね。君が好きだ」
「え?」
今度こそ幻覚だろう。グレースは耳を疑って訊き返す。
「君を好きと言った」
「え?」
リベルはグレースから瞳を逸らさない。表情だって、柔らかく微笑んではいるが真剣そのもの。
これは幻覚か? こんなに都合の良いことがあっていいのだろうか。
頬を抓りたい気持ちを堪えて、グレースはリベルを見つめた。
好き。
その意味を咀嚼して。顔が熱くなるのを感じる。同時に、なぜだろう。潤んでいた瞳から、今度こそ涙が溢れ出した。
その涙で、グレースはこれが現実だと自覚した。
その言葉とその眼差しが、ずっと欲しかった。
「泣かないで」
リベルの指先がグレースの涙を掬い上げる。頬を触れられたことが照れ臭くて、細くて綺麗な手をしているんだよね、なんて、どうでもいいことを一瞬考える。
「好き。わたしも。ずっと好きだった。今も好き」
「ありがとう」
リベルは微笑んでくれた。目尻が下がる。誰よりも優しいその表情が、幼い頃からグレースの頭を離れない。
好きです。
「でも、どうして?」
当然の疑問だった。都合が良すぎる。
「うーん。色々理由はあると思う。前の俺が書いていた日記を読んだとか。グレースからのアプローチとか、本当に色々。……でもそれは結果論なんだよね」
「どういう意味?」
「つまり、君が好きだってこと。愛してる、グレース。この答えが出発点なら、きっとどんなことも理由になる」
「そう。そっか」
そんなまっすぐな瞳で言われてしまったら。
もうどうにでもなれだ。
リベルの端正な顔が近づいてくる。
あ、これ。
グレースは目を閉じた。
急だとは思わなかった。だってずっと望んでいたから。シミュレーションはばっちりだ。
湧き上がる思いを、今この瞬間だけは押さえ込む。
唇に感触がした時は、流石に肩が跳ねたけれど。
やがて温もりが離れ、グレースは目を開けた。
リベルの瞳は真っ赤に染まっていた。
「リベル、その目、どうしたの?」
リベルの目線が動くたびに、陽炎のように、赤い瞳の残像が揺らめいている。
「ん? 〈神能〉を解放させた」
「解放……」
グレースも噂として聞いたことがある。〈神能〉には解放という次の段階が存在すると。でも、それには条件があるはずだ。
「どうやって?」
「それは、まだ秘密。少し恥ずかしいから」
リベルがいたずらっ子のようにはにかむ。
なんかよくわからないけど、〈神能〉の解放条件に利用されてしまったらしい。
弄ばれてる気分だ。
悪くないかも。
というか、普段が優しいから、こういうギャップが良く見えるのかもしれない。
「よいしょ。あいつは?」
端的な言葉だが、誰を指しているかすぐにわかった。
「下で、ミノリたちが戦ってる……あなたも戦うの?」
立ち上がったリベルを見上げる。心配だった。
もういいんじゃないか。
あとはみんなで撤退しよう。
今ミノリたちが戦っているあの男と、少なくともリベルが戦う必要はない。
体勢を立て直してからみんなで戦おう。
喉元まで出かかった言葉を堪えるのに苦労した。
「戦う? 少し……違うな。救いに行くんだ」
リベルの優しくも儚げな表情と言葉の意味を、完全に理解できたか自信はない。
でも、リベルにとってとても大切な想いで発せられたことはわかった。
「……わかった。気をつけてね」
だったら、グレースの言葉はこれしかないはずだ。
「行ってくる。愛してるよ、グレース。終わったらデートに行こう」
その言葉を残して、リベルは金属塊から飛び降りた。
******
自由落下に身を任せる。
ちょうど下に、リカードが操る金属塊が来たので飛び乗った。
「〈復生体〉殿、調子はどうかな?」
見ると、リカードは傷を負っていた。
「ごめん。無理をさせたみたいだ」
「慰めはいりません。わかっていたことです。四人がかりでこれとは少し想定外ですが」
「〈復生体〉の威信は回復できそうかな?」
「言葉にする必要もありませんな。凄まじい、その一言です」
「それならよかった。下の様子は?」
「まだもっているほうですが、じきに崩れるでしょう。電撃に対応されてきています」
電撃。アミョーテも来てくれたのか。
「わかった。俺はこのまま飛び降りるから、隙を見て回収してあげて」
「承知しました。それとその瞳、あの男と同じもの」
リカードが俺の目を見ていた。
「これかい? いい気分だよ」
素直な感想だけを残して、俺は飛び降りる。
地面が近づく。
轟音を鳴らして、俺は着地した。
「〈復生体〉さま!」
レミナスが風を操り、空中を滑るように駆け寄ってくる。
「レミナスさんも来てくれたんですね」
「当然です! ——その目、どうしたんですか?」
「説明は後でします。照れ臭いので」
「そう、ですか。わかりました」
周りを見渡すまでもなく、遠くで戦っているミノリとアミョーテが見える。ミノリの戦斧がひしゃげて、地面に転がっていた。
「俺が戦い始めたら、二人と一緒に、風で上に引いてください。リカードがいます」
「助かります。あの……私たちは、お役に立てたでしょうか?」
レミナスが下を見て、躊躇いがちにそう言葉を漏らした。
「もちろんですよ」
レミナスは怪我をしている。先ほどからしっかりと立つことができていない。
ここからでも、二人が怪我をしているのが見える。
ここまでの働きをしてもらって、役に立てていないと誰が言えるだろうか。
「あとは任せてください」
「承知致しました。〈復生体〉さま、どうかご武運を」
「ええ」
地面を踏み込む。地雷を踏んだかの如き爆音と推進力を持って、俺はリベルへと迫った。音を置き去りにし、彼我の距離が一瞬でゼロになる。それと同時に拳を打ち込む。体よりもさらに加速した拳が、大気を破裂させてリベルへと迫った。
迫る拳に驚愕の目を向けたリベルは、それでも俺の動きを目で追っていた。
「うわっ! 〈復生体〉さま⁉︎」「えっ!」
アミョーテとミノリが驚嘆の声をあげたのが聞こえた。
咄嗟に腕で防御された。だが——甘い。
〈流勁〉。
拳に向けられる反作用ごと、衝撃を全て相手へと伝わらせる。
リベルの体が吹き飛ぶ。地面を数回跳ねた後、偶然あった岩に激突した。
しかし、それで沈黙とはいかない。
激突の直後、リベルがこちらに向かってかっ飛んできたからだ。激突した岩を足場に、こちらへ一直線。そのまま俺の首を刈り取るように蹴りが炸裂する。
それを躱すが、破裂した大気が真空となり、俺の首を切り裂く。
血が滴る。
ここまで1秒未満の出来事だ。
お互いが、お互いの目を見た。言葉はない。
挨拶も、名乗りもいらない。
全く同じ顔の人間が二人。そういえば、外国のおとぎ話にドッペルゲンガーという化け物がいるらしい。自分と同じ人間がこの世には存在して、もし出会ってしまったら殺されてしまうのだとか。
くだらないことを考えた。
〈神能〉を解放して上がった身体能力は、全て目の前の男へ、リベルに対して向けるべきだ。視覚も、聴覚も、嗅覚も、五感全てで感じ取り、五体全てで受け止める。
俺以外に誰がこいつを理解してやれる? あの時の痛みを、虚しさを、怒りを。俺が受け止めなかったら、一体誰が受け止めてくれる?
必ず、その悲しみから救い出してやる。
俺は自然と歯を食いしばっていた。
先に動いたのはリベルだった。揺らめく蜃気楼のように、その場から掻き消える。
武芸百般。
かつてそう言われたことを思いだして俺は喉を鳴らした。
ここまでの技を見るのは久しい。目が追いつかない。見失った。
〈神能〉を解放したことにより向上した身体能力が振るう技術は、それそのものが〈神能〉の領域にある。
反射と経験だけで背後を防御する。
交差させた腕に、リベルの蹴りが減り込む。腕が折れそうになる前に〈流勁〉で衝撃を相手に——流せない。せめてもと、体に留まりそうになった衝撃を足の裏を伝わらせて地面へと流す。直後、踏みしめていた地面が砕け、まるで砂のように霧散した。
リベルの脚は当然だが二本ある。
空中で体を捻ったリベルが、俺の側頭部目掛けて、左脚を振り下ろす。それは実質、見た目だけは刃が付いていない戦斧だ。
直前の蹴りを地面に流したことで、足場が消えている。どこにも衝撃を返せない。
それなら。
頭に蹴りを受ける。凄まじい衝撃が脳を揺らす。刹那で首が千切れ飛ぶその前に、俺は、右拳を相手の横腹に叩きつける。
〈拳撃〉。
かつて、リベル・ダ・ヴェントの振るう拳だけが本物だと、そう言わしめた一撃を、今出せる全力で叩き込んだ。
〈流勁〉。
同時に、頭へかかる衝撃も上乗せしてやった。——だが、全ては流しきれない。
一段低くなった地面へと叩きつけられる。地面がひび割れ、陥没した。
リベルの方も無事ではない。上空に大きく打ち上げられ、血を吐き出しているのが見えた。
俺の口からも、ごぼっと血が溢れ出す。咽そうになって慌てて地面へと吐き出した。
立とうして、足がたたらを踏んだのがわかった。膝を突く。
頭に受けた衝撃のせいで、平衡感覚が機能しない。
相手が地面に落ちるまで、あと数秒、それまでに立ち上がらなくては、次の一撃に反応できない。反応できなければ、死ぬ。
ぼやけ始めた視界の中で、必死に立ち上がるのと、リベルが空中で方向を変えてこちらに向かってきたのはほぼ同時。
大気を強靭な脚力で無理やり足場にしたのだ。
構えが遅れ、鳩尾に一撃を受けてしまう。体が破裂して風穴が開く前に、相手の腕を掴み取って、衝撃を流しながら地面へと叩きつけた。
相手の胸を目掛けて、脚を振り下ろす。
無防備な体勢への必殺の一撃が、リベルの胸へと炸裂した。
〈復生体〉でも原型を止めることができない、至近距離で放たれた砲撃が如き一撃が、土煙と轟音を伴って大地を揺らした。
消滅してもおかしくない威力。
だが——。
土煙の中、リベルが両腕をバネにして即座に身を起こすと、両足を揃えて俺の腹を撃ち抜く。
油断していたわけではない。ダメージレースが過酷すぎて、技術を介入させる体力と精神力が足りなかったのだ。
〈弱者の盾〉が解放した際の性能は、圧倒的な身体能力と、他の追随を許さない耐久力だ。それを証明するようにリベルは身を起こして反撃してみせたのだ。
一瞬、リベルの燃えるような赤い瞳と目があった。全く同じ色の髪を靡かせた、かつての最愛の人が脳裏をよぎる。
こいつの目は俺を見ていない。
全てを取り返そうと必死なのだ。
その気持ち、わかるよ。
吹き飛ばされる。地面に激突し、跳ねて、折れたのがどこの骨か判断できない。きっと足。それに腕も。
それでも俺は立ち上がる。
体を引きずるように、よろめきながら。
呼吸が上手くできない。
リベルの方も限界だ。わかる。さっきの一撃で肺が破裂したのだろう。
勝負が後一呼吸のうちに終わる予感がした。
この息を吐き出し終わった時、立っていた方が勝者だ。
選ぶのはカウンターか。間合いを詰めようとして、俺は自分自身の考えを鼻で笑った。
冗談。
全力で叩きこむ。
満身創痍で構える。同時に地面を蹴り、相手へと疾走する。
小細工はいらない。
先ほどとは違う。構えた状態からの〈拳撃〉をリベルの鳩尾へと打ち込む。
同時に、リベルの拳が俺の腹に減り込んだ。衝撃を〈流勁〉で——だから、余計なことは考えるな!
全て受け切って、勝ち切る。
想いを、全て受け止める。
お互いの体が吹き飛びそうになるのをお互いの腕を掴んで堪える。
腕が千切れそうだ。
堪え切ると待っているのは殴り合いだ。
予感が外れ、限界を超えた。
もうお互い、相手を吹き飛ばすような一撃は繰り出せない。折れた腕で、相手の体を撃ちまくる。
頭を掠めた拳で、意識が一瞬飛ぶ。意識が戻るのは反射的に出した拳に伝わる衝撃から。
それを何回、何十回。もしかしたら何百回も繰り返す。
泥試合。そんな言葉が似合うだろう。
でも、まだ気持ちを受け止めきれていない。想いをぶつけることができていない。
俺は、俺たちは、七百年前《今》の喪失感を、怒りを、悲しみを、その全てを吐き出すように拳を振るい続けた。
でも、それでも、どんな闘いにも終わりがやってくる。
先に限界を迎えたのはどちらだっただろう。
それすらもわからない。
俺たちは互いの肩に頭を預けて、立ち尽くしていた。
腕が上がらない。足が動かないから、座ることもできない。
満身創痍だ。こんなに全力を尽くしたのは、七百年間で初めてかもしれない。
意識が落ちそうだ。耳から入る世界が遠い。
それでも、俺はない力を振り絞った。渾身の力を両腕に込める。
痛みが消えるほどの負傷をしている。本来ならぴくりとも動かない。
しかしそれでも、両腕は俺の意思に答えてくれた。
「は?」
驚愕からか、リベルが声を上げた。
そんなに驚くなよ。
抱きしめただけだ。
「最後におしゃべりをしようぜ」
「おしゃべり? この状況で何を言って……」
「そうだよ。お前の夢が覚める前にさ」
「夢……?」
「そうに決まってるだろ? 夢じゃなかったら、全く知らない場所で目が覚めて、自分とまったく同じ顔の人間と戦ってるなんておかしいじゃないか? そろそろ起きる時間だ」
「でも、この痛みと疲労感は、本物だよ」
「いやに現実的な夢なんだな。……そうだ。起きたらメルサにおはようのキスをするんだろう? そろそろ子供の名前も決めないとな。候補はなんだっけ?」
できるだけ平静に、無い声量を絞り出す。
リベルの息遣いが、俺の耳を優しく撫でる。リベルが、やがて観念したように、口を動かした。
「男の子ならリィロ。女の子ならメリィ。それは俺しか知らない情報だ。本当にこれは夢なんだな……?」
「そう言ってるだろ?」
リベルの声は安心からか、それとも死が近いからか。か細いものへと変わっていく。
「まったく、嫌な夢だったよ。仕事から急いで戻ったら、ヴェント村が、なくなっていたんだ。みんな……メルサが焼け死んでいて、ウイリアムを探していたら、突然知らない場所にいてさ」
「災難だったな。でも安心しろ。これは夢だから。目が覚めたらメルサの笑顔が見られるよ」
「ああ、本当によかった。あの笑顔が大好きなんだ」
口元に血を垂らしながら、リベルはうつろな瞳でそう言った。
「それじゃあ、ひと足先に……おはよう。リベル」
俺は最後に取っておいた力を全て出し切って、拳をリベルの胸へと打ち込んだ。
返事は返ってこなかった。
リベルの力が抜けて倒れ込んでくる。
俺は必死にリベルの体を受け止めた。それでも堪えきれなくて膝を付いてしまった。
俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
「リベル!」
グレースが空から身を投げ出すようにして地面へと着地した。
びっくりして思わず咳き込んでしまう。口の中に血の味が広がった。内臓が傷ついているのだ。
「よかった。勝ったんだね……」
グレースが泣きそうな顔で笑った。
ああ。俺は勝った。七百年前の呪いに打ち勝ったんだ。
だから俺は、覚めない夢の続きを生きるよ。
そう思わせてくれた人を視界に収めて、俺の意識は落ちた。




