第5話
グレースは下唇を噛みながらリベルを見つめた。
血が止まらない。自らの上着を傷口にきつく巻いているが、これが正しいやり方なのかも分からない。〈神能〉に頼り切りが故に、それを用いない技術を、グレースは持っていなかった。
「どうすれば……」
答える声は無論ない。
せめてもとコートをリベルへかける。壁と天井も作ってあげたいが、目隠し状態での飛行は危険すぎる。
ヴァシリオス王は、〈神能〉を使ってなんでもできたと言う。同じ〈神能〉をグレースは持っている。そのはずなのに、これ以上なにもできない自分に腹が立つ。
どうして。なぜこうも違うの?
わたしは彼の子孫で、同じ〈神能〉がある。同じことができるはずなのに。
「……そうだ!」
脳裏を駆け巡ったのは、ある一つの妙案だった。もしかしたらこれは、単なる賭けなのかもしれないけれど。やる価値はある。
決意は一瞬だった。
慎重に止血していたリベルのお腹から自分の上着を外す、ナイフで服を切り、その患部を露わにする。
そして、そのナイフでグレースは自らの手首を切りつけた。血が溢れ出し、滴る。
昔、リベルから聞いたことがある、初代国王が血液を操ったという話を。
正確にはその中にある鉄分なのだろうが、同じことだ。
できる。きっとできる。
グレースは念じた。イメージするのは、空中を血液が移動している光景だ。
すると、滴りそうになっていた血が動きを止め、重力に逆らうように浮き上がった。
「やった!」
あとはこれを、リベルの患部に少しずつ流し込めばいい。血液を一本の管のように操作して、リベルの患部へとくっつける。
温かいわたしの血が、少しでもリベルを温めてくれることを願った。
血液型も大丈夫。わたしとリベルは同じ血液型だ。前にメイドが血液型でできる相性占いがあると教えてくれて、リベルに訊いたことがある。
リベルとの会話が、思い出が、わたしに活路を見出してくれたのだ。
思い出を失いたくない。
グレースはそのままずっとリベルの手を握っていた。
遥か遠くから何かがこちらに向かってきている。それをグレースは細めた目で捉えた。
「あれは」
金属光沢。王族の誰かだろうか? 怪訝に思い、手元にあった双眼鏡を覗いた。
「リカードお兄様⁉︎」
間違いない。でもなんで?
「あれは……レイチェル! それにマーガレットも!」
ミノリにレミナス、アミョーテもいる。他のメイドたちも。
グレースの中で全てが繋がった。意識を失う前に、リベルはレイチェルとの連絡に成功していたのだ。それじゃあ——あの棺は!
「間に合った!」
歓喜で体が震えたのをグレースは自覚した。
大きな声を出そうとして——今まで感じたことのない怠さにグレースは気が付いた。なぜだろう、体がだるい。ああ、そうか。血をあげ過ぎたのだ。
でももう少しで、思い出を守れる。
その為なら、多少の怠さなんて苦にもならない。
幸いリカードもグレースもお互いに向けて進んでいるのだ。本当にもう少し。
そう思っていた矢先、双眼鏡の中のリカードが乗る金属魂が揺れた。見間違いかと思ってもう一度目を凝らす。異常はないようだ。
違う。先ほどはいなかった人物が乗っている。その後ろ姿には見覚えがあった。
あの男は、先ほど塹壕から飛び立っていった奴だ。どうやってあそこに登ったのだ? まさか、跳躍したわけではないだろう。そんなことできるはずがない。
レミナスが突然の闖入者へ、〈神能〉で起こした突風を叩きつける。
アミョーテが即座に起こした火花も、電気を操る〈神能〉だ。
二人は踏鞴を踏んだ男にへと飛びかかり、自分たちごとその男を金属塊から突き落とした。それに続くように、ミノリも金属塊から飛び降りる。その手には巨大な戦斧が掲げられていた。
「うそ⁉︎ そんな!」
衝撃的な光景にグレースは双眼鏡を取り落としそうになる。それと同時に気づく、あの男の狙いを。
あの男は〈歴史あるウィリアム〉を狙っている。
「グレースさま!」「良くぞご無事で!」
「レイチェル! マーガレット!」
やがてお互いの距離が近づき、レイチェルがグレースの方の金属塊に飛び乗ってくる。レイチェルは高いところが平気なタイプなのだろうな。マーガレットはおっかなびっくりだ。これが普通の反応だろう。
「レミナスたちは大丈夫なの?」
「彼女たちには、時間稼ぎをお願いしています。〈復生体〉さまが目覚めるまで」
そこで突然、グレースとリベルを繋いていた血が途切れる。
「輸血はそこまでにしておけ。それ以上やるとお前が死ぬことになる。それを〈復生体〉殿は良しとしない」
リカードの厳しい視線を受け止める。
「流石ね、リカードお兄様。復生体オタク……」
「後半も聞こえているぞ。早く、〈復生体〉殿を起こして差し上げろ」
そうだ。
「リベル、起きて」
リベルの冷たい頬に手を置き呼びかける。
リカードが棺を〈神能〉で操作してリベルの側まで運んでくれた。棺の天板をレイチェルが開ける。あとは、リベルが起きるだけ。
「起きて。リベル」
閉じた瞼がわずかに動いた。ゆっくりと右目が開かれる。目の焦点はあっていない。
けれどその瞳はグレースを映していた。
「みんな、ありがとう……。グレース、目を覚ましたら、君に伝えたいことがある」
「……うん。わかった」
その一言をくれただけで、グレースは何も要らなかった。
リベルが緩慢な動作でウィリアムの方を向く。抱き止めていたグレースの手を離れて、右手をゆっくりと伸ばす。体勢を変えるだけでも辛そうなのに、グレースは、どうしてか手を貸そうとは思えなかった。他の者も同様だろう。
これは七百年繰り返されてきた神聖な儀式そのものだ。七百年間生き続けた、彼ら二人だけの。
リベルがほぼ手探りの様子でウィリアムへと近づき、やがてウィリアムの胸に置かれた右腕に、リベルの右腕が重なる。
言葉はなかった。ただ、リベルがウィリアムの方に目をやり微笑む。
突如リベルから力が抜けた。グレースは急いでその体を抱き止めた。
するとすぐにリベルの体から、光の粒が漏れ出していく。
ああ。こんなに早く。リベルはもう限界だったのだろう。光の粒は一つたりとも間違えることなく、ウィリアムの下へと帰っていく。
グレースは愛する人の体が完全になくなるまで、ずっと抱きしめていた。
「無事に、記憶は保存できたのでしょうか?」
「分からん。私は下に降りたメイドたちの加勢にいく。貴様ら三人は〈復生体〉殿の傍にいるといい」
リカードが、自らが乗っている金属塊を急降下させて視界から消えた。
グレースはその時を待つ。一秒が無限に感じられる時間の中、今か今かと。
何を思ったのか、一つだけ漂ったままの光の粒を指先でつつく。
「あなたは、なんでリベルをこの世界に縛りつけるの?」
グレースは、自分が〈歴史あるウィリアム〉に向かって喋っていることに、自分でも最初気が付かなかった。
自分で言葉の意味を咀嚼してみて思う。なんと的を射ない問いだろう。
そもそも、ウィリアムがいなければ、自分はリベルと出会うことすらできなかったのだ。知らず俯いていた顔を前に向ける。
そこにいたのは、金色の髪をなびかせた青年だった。中に浮いて、こちらを見ている。
——やあ、かな? それとも、どうも?
え、と——声を発そうとして気が付く、その声は耳ではなく脳へと直接響いていた。
敵か。
横目でレイチェルとマーガレットを見た。
二人とも目の前の青年に気付いた様子はない。目線も、〈歴史あるウィリアム〉が納められた棺に釘付けだ。
つまり、わたしにしか見えていない。
まさか、血が足りなくて幻覚を見ているのではないか。
青年はやけに気さくだ。グレースは、青年が〈歴史あるウィリアム〉と同じ容姿をしていることに気が付いた。
——初めまして、じゃないな。こんにちは、グレースさん。
——あなたは? ウィリアム……さん?
——それでいいよ。
心の中で答えると、優しい声が頭に響いた。鼓膜で聞くのと全く違う感覚にグレースは少し戸惑う。
——それでさっきの質問だけど……僕はリベルに幸せになって欲しいんだ。長く生きていれば、人が、場所が、リベルを天国へと連れていってくれるからね。
——天国って、死後の世界にあるものじゃないの?
——それはもちろん。でも、今のこの世界にも、人それぞれの天国は必ずある。僕はそう信じてる。
言い切られてしまった。しかし、そうなのだろう。その人ごとにある幸せな居場所。それを天国だと言うのなら、間違いではないし、そうあってはならない。
——それでわたしに何を?
——いや、なにも。気まぐれで話してみたかっただけさ。自由にやるといい。……そろそろかな。
それだけを言い残して金髪の青年が目の前から消えた。
その代わりかのように、いつの間にかグレースはリベルの体を抱き止めていた。
訳がわからない。
「お召し物を」
レイチェルの言葉ではっとする。
裸のリベルに抱きついていた。こんな時なのに顔から火が出そうだ。
どうやら慣れるにはまだ時間がかかるらしい。
レイチェルがリベルに服を着せてしばらくして、リベルの体が僅かに震えた。目を覚ます予兆だ。
怖い。もし忘れていて、また一からだったら。
怖い。もしかしたらこのまま、わたしが死ぬまでリベルとの思い出を重ねていけなかったら。
やがて、リベルの両目が開いた。
グレースはすがるような視線でその瞳を覗き込む。
ボヤけていた視界が次第に象を結んでいく。瞬き数回の後、グレースと目が合う。
開口一番。
「大丈夫。全部覚えてるよ。だからグレース、そんな顔しないで」
激情が心を優しく焼いて。救われたと、グレースは思った。




