第3話
「今日もお疲れさまでした」
パンっと手を叩く。グレースへの授業が終わり、時刻はもう夕方だ。もうしばらくしたら燭台を用意しなくてはならない。
「うん。リベルもお疲れぇ」
グレースがゆらゆらした動きで、勉強机からお気に入りのソファへ腰を下ろした。グレースは授業の直後はいつもこんな感じだ。
「歴史の授業ってなんでこんなに頭使うんだろう」
「暗記だけに絞ればそこまで疲れることはないんだけどね。グレースは王女様だからね、臣民向けの歴史の授業よりも色々考えなくちゃ」
ぶぅーーっと、グレースが頬を膨らませた。
風船みたいなその頬を叩いて空気を一気に吐き出させてみたい。
そんなことを一瞬考えて、やはりやめる。理由は怒らせたくないから。こわい。
「リベルはこの後何かするの?」
「え、んー……」
いきなり問われて思わず唸ってしまう。
「ない? じゃあさ——」「ウィリアムのところに行こうかな。久しぶりに」
華やいだように見えたグレースの表情が一瞬で萎れる。
「あ、ごめん被せちゃった」
「どうぞ……行ってくれば?」
「グレースもどう? ひさしぶりにウィリアムのところに一緒にいかない?」
「えー……」
グレースはソファに座ったまま、両足を両手で捕まえてもぞもぞと動く。変な癖だと思う。かわいいけど色々見えちゃはないかな……。
「わかった」
グレースは意を決したような様子でこくりと頷いた。
「ありがとう。それじゃあ行こっか」
向かう先は王城の最上階だ。グレースの〈神能〉で適当な金属に掴まり、最上階までひとっ飛び——もできるにはできるが、俺とグレースが選んだのは徒歩だった。勉強で酷使した頭には、徒歩とおしゃべりが良いというグレースの提案だ。
石段に何度も足をかけ、途中、グレースの様子を見ながらペースを合わせる。
ただなんとなく俺たちは黙っていた。理由はない。
グレースとのおしゃべりも好きだけど、静かに流れる時間も俺は好きだった。
「ねぇ」
「ん?」
そんなことを考えていたからか、俺はグレースの返事に一瞬遅れた。
「好きな人はいたの?」
それは突然の問いだった。後頭部を重い何かで殴られたような。
「どういうこと?」
意味はわかっていた。長い七百年の月日の中で、愛した人はいたのかという質問だろう。でも俺は聞き返した。あるいはそれは、時間稼ぎの為の質問だったのかもしれない。
「わたしは今のリベルしか知らないから、すこし気になったの」
「なるほど」
「リベルは長い年月生きてるわけでしょ? そういう人いなかったのかなって」
「それは、いわゆる元カノ的な?」
最近覚えた言葉をわざと使って見た。ちなみに元々彼女だった人をそう言うらしい。男の場合は元カレ。なんとなく語感が気に入っていたので使うタイミングがあってよかった。
「元カノって……。なんかリベルが若者言葉を使うの痛々しくて嫌かも」
「なんで⁉︎」
「なんとなく、お年寄りが若者に気に入られようと無理して言ってる感じがあって」
俺は階段を踏み外しそうになった。
「そんな正確に言葉にしなくてもよくない?」
七百年経っても涙は枯れないんだぞ。今ここで俺が泣き出したらどうなることか。
俺は精神が弱いんだ。今ここで泣いたらきっとその涙は大河を創り、それが後世まで語り継がれる伝説となるに違いない。いや違うな。
「先生が優秀だからだね」
「国語の先生ってだれだっけ? ちょっと手を緩めてくれるようにお願いしないと」
菓子折りでも持って挨拶しに行かないといけない。あなたの生徒が俺を傷付けてきますって。言葉は相互理解の為にあるものだ。むやみやたらと相手を傷つけてはいけない。
「それで、いたの?」
「何の話だっけ?」
「もう。好きな人いたのかって話よ」
グレースが頬を膨らませた。昔見た海の生物にこんな感じの魚がいたのを思い出す。
そうだフグだ。あれみたいで可愛い。頬をつついてみたくなる。しないけど。
向けられた碧い瞳から逃げるように俺は石の階段を見上げた。
逃げるように、じゃないか。逃げたのだ。だから視線を逸らした。
「いたよ」
「いたの? 元カノ?」
よく考えたら、グレースはどこで庶民的な言葉を覚えるのだろうか? 俺はグレースのメイドさんたちからだ。ということはグレースもそうなのだろうか。それが少しおかしかった。
「ねぇ。聞いてる?」
「はいはい。あー元カノというよりは元妻?」
現実逃避から呼び戻されて俺は早々に白状した。
「えっ、奥さんがいたの?」
グレースが驚いたみたいで階段から足を踏み外した。転ぶことはなかったけど、「あぶなぁっ」なんて、ひょうきんな声を上げている。ざまーみろ。
でもスカートに足を引っ掛けそうで少しヒヤヒヤした。
「まぁでも……普通よね。七百年も生きてたら、そういったこともあるもの」
胸に手を当てたグレースが落ち着くのをなんとなく黙って眺める。
「どんな人だったの? ていうか覚えているの?」
階段を踏み外したせいで一段下にいるグレースに問い掛けられる。上目遣いだ。
ふと窓を見る。夕日だ。西日に目を焼かれて、眩しくて視線をグレースへと戻した。
「ああ。覚えているよ。とても素敵な人だった」
その一言を、俺はなんとか絞りだした。すらすら言えた自分を褒めてやりたい。
「そう、なんだ」
グレースが少しだけ寂しそうな顔をして、目を伏せた。
「なになに? 嫉妬? ——冗談ですよ、もちろん」
碧眼に睨まれて、俺は即座に自分の言葉を急旋回させる。
おっかねー。七百年の人生経験なんて意味を持たない迫力だった。人殺せるよ。俺が言うんだ間違いない。
「素敵な人だったよ。気が強くて優しくて。俺がこんなんだったからよく怒らせていたし、迷惑もかけたな」
目を逸らした赤い夕日。それと同じくらい真っ赤で綺麗な長髪を思い出す。思い出してしまった。
「そうなんだ」
グレースは先程と同じことを繰り返したけど、茶化す気分にはなれなかった。
「子供とかはいたの?」
グレースが重ねた問いに俺は微笑んだ。
「どうだろうね」
はぐらかしたのにはグレースも気づいているだろう。けれどなにも言ってこなかった。
「というかグレース。ひどいんじゃない?」
「なに? なんで?」
呆気に取られたような顔が面白くて、俺は笑いながら言う。
「だって、もしいたとしも生き別れ確定だろう? 思い出させようなんて罪な人だ」
「え、違っ、ああ、いや……ごめん」
俺はそんなグレースの萎れた態度を横目に再び階段に足をかける。
「いいよいいよ、気にしないで」
背中越しにそう言うと、しばらくして、グレースの足音も聞こえてきた。
〈神能者〉を殺して回ったきっかけが、自分の愛した人と、そのお腹の子供を殺されたことだと知っても、君は今みたいに楽しくおしゃべりしてくれるかな。
問おうとして、ふり向いて。
「ありがとう、久しぶりに懐かしい気持ちになれたよ」
俺の口から出たのは、頭の中とは裏腹の明るい声だった。




