第3話
ヘンリクは走った。足を動かす度に、背中からの激痛が左足へと駆け巡る。だから全力疾走はできていない。それがもどかしくて、ヘンリクの顔が歪んだ。
「くそっ、くそっ!」
また助けられた。理解できた状況はそれだけ。その自分自身に対する屈辱すらも、奥歯を噛み締めることで今は堪えた。
走る。できるだけ遠いところへ。
——あいつは、リベルはどうなる?
わからない。ただ、あいつは塹壕を出ろといった。ジェロン群の脅威が定かではない現状でそう言ったのは、あの男の存在がそれよりも危険だからだろう。
顔はよく見えなかったが、あの男の持つ身体能力は異常だ。
息が切れる。立ち止まるともう走れないような気がして、ヘンリクは走り続ける。
ヘンリクはこの場所に来てから、リベルから学んだことがある。
一つ、体力を付けること。
二つ、周りをよく見ること。
三つ、劣勢だと感じたら逃げること。
四つ、逃げないなら、踏み込みつつも引き際を見誤らないこと。
それと、もう一つ。
全てで五つの基礎的なことに加えて、あとは闘い方を一通りだ。
ただの商人だった自分にしては、まぁモノにはなってるんじゃないだろうかと感じたこともある。全部リベルのおかげだ。今生きているのだって、この前だって、リベルに助けられたから、今の自分がある。
「まだ、何も返せてねぇ!」
ヘンリクは立ち止まった。針葉樹林を超えて、視界が開けた。一面の銀世界。
背負っていた背嚢を乱暴に降ろして、中にある目当ての物を探す。
これはリベルの背嚢だ。ふと指に固い感触がした。手に取ると、それは昨夜リベルに返した日記だった。
「くそっ!」
居た堪れない気持ちになって、ヘンリクは日記を雑に入れ直す。
きっとこの日記には、ヘンリクのことも書いてあるのだろう。
「あった!」
信号弾。〈復生体〉同士であれば、馬鹿げた聴力で意思の疎通が可能である。これはヘンリクとグレースが発煙筒と一緒にリベル個人に持たせている装備だ。
ヘンリクはそれを空へと向けた。
ぼしゅぅと音がして赤い光が空へと伸びる。
「頼む! 姫さん! あいつを助けてやってくれ!」
ヘンリクは力の限り叫んだ。背中が痛むが構うことはない。
情けない。何も持たない凡人には、これくらいのことしかできない。
五つめは、全力でやり切ること。
全力とは、あの場所に戻ってリベルを救う為に、成功率ゼロの戦いを仕掛けることではない。この場合の全力とは、リベルを救う為に足掻くことだ。
この先にヘンリクたちが拠点とする基地がある。もしかしたら、グレースが残っているかもしれない。
この光が、見えるかもしれない。
「頼む! 来てくれぇぇえ!」
〈復生体〉を殺せるようなあの男からヘンリクの親友を助け出してくれるのは、もうグレースしかいない。
ヘンリクは叫ぶ。全力をもって親友を救い出す為に。
******
嫌な予感がする。
先ほどから各戦線を回っているが、ジェロン軍がほとんど抵抗してこない。グレースの姿を確認すると、仕事は終わりだとばかりに引き返していく。深追いすることができないことがもどかしく、グレースは歯噛みする思いだった。
同時に、誰かの手のひらの上で踊らされているかのような嫌な予感が脳裏を掠める。
視界の端で何かが光ったことに気が付く。金色の光の粒が漂っている。光の粒たちは、一つの方向を目指すように、風に飛ばされるように大空を舞っていた。
その金色は、リベルと一緒に見た〈歴史あるウィリアム〉の髪の色によく似ていた。
綺麗だと思った、まるで命の煌めきのようだ——。
「まさか」
グレースは小耳に挟んだことがあった。〈復生体〉は死ぬと、光の粒となって消えてなくなってしまうと。
「そんな!」
失う恐怖で、グレースの顔が凍りついた。光の粒が漂ってきた方向を見つめる。
あそこにも、塹壕がある。
「リベル!」
あの場所で何かが起こっている。
グレースは空を全力で駆ける。
怖かった。今だけは失う恐怖が〈神能〉を動かす原動力だ。
無事でいて欲しかった。闘い続けて、誰かの為に働いて、そんな彼にはもう何も失って欲しくはない。自分との思い出だってそうだ。痛い思いだってして欲しくはない。
風で体が冷えるのもお構いなしでグレースは早朝の寒空を駆け——それを見つけた。
赤い信号弾。万が一の為に、ヘンリクとグレースがリベルに持たせていたもの。
「リベル!」
「姫さん! 来てくれたのか!」
ヘンリクが足を引きずりながらこちらへとやってくる。グレースが彼の前に降りると、彼は必死の形相だった。ただ事ではない。
「ヘンリク⁉︎ どうしたの⁉︎」
「話は後だ! あっちで招待不明の〈神能者〉が暴れている! 頼む! あいつを助けてやってくれ!」
灰色の瞳がグレースを射抜く。
「……わかった!」
それだけ言って、グレースは再び飛び立った。
「ありがとう。すまない……」
微かに聞こえたヘンリクの声を置き去りにしながら、グレースはここからそう遠くない塹壕へと〈神能〉を走らせる。
塹壕は不思議な有様だった。雪を染める血の跡があるのに、死体はほとんどない。主人を失った衣服と装備品があるのみだ。その残った死体すらもしばらくすれば消えてしまうのだろう。
「リベル、どこにいるの?」
これだけの惨状だ。リベルもとっくに。なんて言葉が過りそうになるのを、グレースは必死に堪えた。
空の上からリベルを探す。——ダメだ。みんな同じ顔だ。
愛する人を見つけることもできない自分に、強い怒りと吐き気が沸く。
その時、何かが塹壕の中から飛び立ち、針葉樹林向こうに消えていくのが見えた。凄まじい速度だったが、辛うじて人間であることだけはわかった。
その人物は、光の粒たちが飛んでいく方向へ行ったようだ。
あれが、ヘンリクの言っていた〈神能者〉なのか? 考えを巡らせかけたグレースは、ついいつもの癖で下を向いた。
だから、気付くことができた。〈復生体〉の一人が、横たわりながらこちらを見ていることに。その眼差しから、それが愛する人だということに。
「リベル!」
すぐさま降り立って、その姿にグレースは愕然とした。
酷い傷だ。右手は潰れて、全身血塗れ。口からは泡のように血が出ている。左目は閉じたままだ。
「死なないで!」
血が付くことも厭わず、その体をグレースは抱き抱える。
「グレース、おはよう。あんまり動かされると、痛いかも」
耳元に口がこないと聞こえないような小さい声。でもまだ生きている。よかったとグレースは安堵の息を漏らしそうになるのを堪えながら、真剣な瞳でリベルを見据えた。
「治療しよう! そうすればきっと」
「ごめん……多分もう、無理」
「無理じゃない!」
無理じゃないって? リベルはもう瀕死だ。今も血が流れている。顔だって辛そうだ。
どうせ復生するのなら、今すぐにでも楽にしてあげるべきなのではないか?
でもそれだと思い出が。グレースは分からなくなって、瞳が潤んできてしまう。
「違う。諦めたわけではないんだ……俺を、ウィリアムのところに連れて行ってほしい」
掠れた声で、苦しそうにリベルが言葉を紡いだ。目の焦点が合っていない。もう、目は見えていないのかもしれない。
「……聴いてるよ」
「……死ぬ前に、記憶を保存したいんだ。大切な記憶だから……」
「うん」
「だから……俺を、ウィルのところまで……」
「……わかった。でも——」
間に合うだろうか。その言葉をすんでのところで飲み込む。あまりにも弱気だ。
「大丈夫。レイチェルさんに、お願いするから……急に頼み事なんて、怒られるかな……」
グレースは思い出した。レイチェルには、生物の心を読む〈神能〉がある事を。
リベルを、操作して形を変えた金属板の上で寝かせる。そのわずかな時間で、リベルは眠ってしまったようだ。レイチェルと話すことはできたのだろうか? グレースに確かめる術はなかった。
リベルの口元に手をかざした。呼吸はある。だが、微かだ。リズムも一定ではない。
時間がない。
グレースは頭を支配しそうになるマイナスな感情を掻き消すように、横たわるリベルを抱きしめた。
大空へ舞い、王都へと全速力で飛行する。




