第1話
この場所に来てから、一ヶ月が経った。
正確には、この地には一年ほど前から何度も来ている。でもその記憶を失ってしまった俺からすると、一ヶ月だ。
過酷な戦場、その最前線。なんとかやっている方ではないだろうか。
俺には死ねない理由がある。それには二人の存在がいる。
グレースとヘンリクだ。
ヘンリクは俺の友人だ。王国の臣民でありながら、従軍してしまった変わり者。そして熱い心を持った青年だ。
グレースは王国のお姫様。俺を追って最前線まで来てしまったお騒がせプリンセス。そしてなんと、死ぬ前の俺は、彼女の恋人だったらしい。
どういうことでしょう。
もちろん記憶にございません。
この一ヶ月、記憶にはない関係性に戸惑い、揶揄われ、そして時には押し切られそうになりながら、それでもやっぱり真摯な気持ちで受け入れたいという感情に心を動かされながら、色々大変な生活を送っている。
いや、なにこれ?
ちなみに、今日も一緒に朝食を摂った。グレースお手製の朝食だ。戦場だから物資に限りがあるが、それでも美味しかった。
いつの間に料理もできるようになったなんて……。
え、何で一緒に朝食を食べてるかって?
それは昨日の夜も一緒に寝たからだ。いつもの添い寝だね。
俺の一日はグレースを寝かしつけるまで終わらないのさ。
いつもの添い寝ってのがもう不純だな。誓って何もしてないけど。
「どうした?」
「いや、ここに来てちょうど一ヶ月くらい経つし、振り返っておこうかなって、考え事」
「へえ。どうだ? 姫さんとは」
「うん?」
がたりと車両が揺れる。今は、最前線の塹壕へと向かっている最中だ。
時刻は深夜。そのため車両の動きは遅い。
「誤魔化すんじゃねぇよ。お前が唸っている時は、大体姫さんの事を考えてる時だろうが」
「え、まぁ普通。ぼちぼちと言いますか……」
唸っていたのか。少し恥ずかしいな。
「どうするつもりなんだ?」
ヘンリクの表情は真剣だ。揶揄ってやろうという意思は感じない。
それで逆に居心地が悪い。
「また恋人になる。それが一番の正解なのはわかっているんだ。でも……」
「姫さんのことは好きなのか?」
「好きだよ。断言できる」
「それなら——」
「でも、恋人になりたいという意味ではないんだ」
グレースは魅力的な女性だ。それは認めざるを得ない。実際にグレースのアプローチにドキドキしてしまっているから。
でも、それだけだと違う気がする。
「色男も大変だな」
ヘンリクはそう言って自らの背嚢からある物を取り出した。それは本だった。少し角の装丁が禿げている。あまり良い管理の仕方はしていないらしい。
差し出され、受け取る。
「これは?」
「日記だ」
「ヘンリクの?」
「違う。お前のだ。任務の度に渡されて、お前が無事に帰って来れたら返す。それを繰り返してた。安心しろ、中は見ちゃいねぇ」
「ありがとう。だったら、今渡すのはまずいんじゃない?」
「悩んでるみてぇだったからな。それに返す機会も最近無かった。本当なら初日に返すべきだったかもしれねぇけど、混乱させるのは悪かったしな、やめておいた。〈神能〉は解除してんだろう? 今読んでみろ」
「……そうだね。ここに答えが書いてありそうだ」
冴えた視界は、月明かりだけでも文字を読むのに労を要しない。
「でも、少しだけ、怖いな。俺は、グレースをどう思ってたんだろう?」
「お前はそんなんでビビるような小さい男なのか?」
ヘンリクの鋭い瞳に思わず目を逸らす。
ああ、本当は弱い奴なんだよ。
「大丈夫だよ。読んでみる。まだ塹壕には着かないだろうし、ちょうど静かな夜だ」
「そうしろ。俺は寝る」
そう言ってヘンリクが毛布を被って荷台で寝転がる。
なんとなくその様子を見届けてから、俺は日記を開いた。
今日、ヘンリクがここに来てしまった。なんて事だろう。彼は復生体ではないのに。聞くと掲示板に志願兵の張り紙があったそうだ。あの議会の場で志願兵の募集に反対しなかったのが惜しい。それに彼に怒ってしまった。死にに来たのかと、強い口調で。俺が言えたことではない。ヘンリクが生き残る確率が上がるように、できるだけたくさんのことを教えよう。そうだ。グレースに手紙を出して、ここからヘンリクを引き取ってくれるようにお願いしよう。ついでに今日から日記を書くことにする。あまりマメではないから、毎日は無理だろうけど、何かあった時にだけ。
ヘンリクからこの日記を渡された。死ぬ前の俺が渡しておいた物らしい。読んでみると、欠けている記憶を大方補完することができた。死ぬ前の俺は、グレースへ手紙を出したのだろうか? 手紙を出す機会はなさそうだから、まだ出せてはいないのかもしれない。機会を探ろう。前までの俺がしていた通り、ヘンリクに生き残り方を教えるのは続けることにする。最近鹵獲したジェロン軍の鉄砲の性能は凄まじい。まずはあれの扱い方から、いや、撤退判断のやり方から教えた方がいいのか? どうすればヘンリクが無事にこの場所から生き延びられるか、慎重にならなくては。
グレースがここに来てしまった。復生体が押されているという戦況かららしい。グレースでなくても良かった気がするけど。でもおかげで大分戦いが楽になった。やはり相性の問題だろうな。それよりも気になることがある。グレースの様子がおかしい。挙動不審だ。
グレースから好きだと言われた。薄々勘付いてはいたけど、戸惑う。真剣に向き合わないといけない。グレースに、自分の事をどう思っているのか訊かれた。どうって……。可愛いと思うと伝えた。みんな言ってるから。でも、そういうことではないのはわかる。何を言えば良かったのか。てきとうに誤魔化してしまった。
ヘンリクが頬に傷を負った。弾丸が掠めたのだ。致命傷にはならなかったけど、消えない傷だ。ヘンリクが朝、鏡を見る度に戦争の事を思い出してしまうのではないか。それが心配だ。
ヘンリクからこの日記を渡された。何を書こうか? とりあえず後で読んでみよう。
日記を読んだ。グレースの様子がおかしい原因がわかった。とりあえず、明日、ちゃんと話をしようと思う。この事をヘンリクに話したら、おせぇよって笑われた。
グレースと話をした。照れ臭いけど、どうして俺の事を好きなのかを訊いた。実感はわかない。けれど話の流れで、俺たちの唯一性についての議論になった。その時のグレースの言葉を、今も反芻している。グレースは言ってくれた。
別にリベルがいないなら、私は天国に行かなくてもいいよって。嬉しかった。俺はそれが、七百年間誰かに言って欲しかった言葉なんだと気付いた。
俺はグレースのことが好きになってしまったみたいだ。いや、気づいていないだけで、もっと前から好きだったのかも。七百年も記憶を繋いでいるのに、そんなこともわからないなんて。俺は恥ずかしい人間だ。日記に書くのも、少しだけ照れくさい。
グレースに気持ちを伝えた。大切にすると言った。グレースは喜んでくれて、飛び跳ねた後に俺を抱きしめてくれた。俺も抱きしめることができた。この日の晩はグレースと一緒に過ごした。明日は任務で塹壕に行く。生きて帰らないと。絶対に。
ヘンリクにこの日記を渡された。俺の読み方がおかしくない限り、俺とグレースは愛し合っていたらしい。グレースが酷く落ち込んでいた理由がわかった。
俺に記憶はないが、グレースに気持ちを伝えた。悩んだけれど、グレースの為にそうした。何日か悩んだ末の結論だ。グレースは俺が伝えた時、嬉しそうだったけれど、同時に酷く悲しそうで、大粒の涙を流していた。俺は何かを失敗したのだろうか。もう死なないようにしよう。
俺は日記を閉じた。
まだ続きはあるし、読み飛ばした箇所も多いが。限界だった。
冷たい空気を思いっきり吸い込んで、脳を冷静にさせたかった。
これが一年間で俺からこぼれ落ちてしまったもの。その欠片だけでこれなのだ。グレースとヘンリクの痛みを推し量ることはできない。
車両は進んでいく。夜明けまでには塹壕に着くだろう。
少しだけ眠っておこうか。少しでも頭をはっきりさせて、生きて帰ってくる為に。
俺は日記を背嚢にしまい、毛布にくるまった。
しばらくして、はたと思い直す。これだけ。
日記を開いて、新しいページに鉛筆で記していく。
書きながら、俺の頭は別のことでいっぱいだった。
——グレース、その一言はずるいよ。そんな事を言われたら、好きなってしまう。
あとがき。
アクセスを見てみたところ、午前3時から5時頃にかけて少しだけ読んでくださる方がいるようなので、その方に届く様にこの時間に投稿させていただきます。たまたまかもしれませんが。




