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死ねない彼らに天国はない  作者: 曇天海月
【第三章「現在」ようこそ、戦場へ】
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第8話

 え。

 呆気に取られた俺を、グレースの綺麗な碧い瞳が覗き込む。

 薄暗い室内においても、俺の視力はその瞳の中に映る間抜け顔を映し出す。

 鼓動が聞こえる。グレースの心臓の鼓動が。

 脈は早い。けどこの音の感じは——


「ねぇ。嘘ならわかるんでしょ?」


 グレースの碧い瞳が潤んでいる。まるで波打つ海原のような煌めきで、油断していると吸い込まれそうだ。


「……そう、なんだ……そっか」


 俺には昔死に別れた最愛の妻がいるとか、記憶にないとか、グレースのことは小さい頃から知っているから、とか。

 そんな言葉が出そうになって、その全てが引っ込んだ。

 その言い訳は、今聞こえてくる音を否定するには足りていない。

 今聞こえてくる想いを否定する理由には、なりはしない。


「……わかったよ」


 俺はもう、落ち着いていた。

 グレースの瞳を見つめる。

 お互いの唇が、いつでも触れられそうな距離。きっと、俺が知らない一年の間にたくさんこの距離で話をしたのだろう。


「……うん」


 グレースが俺の胸に額を乗せてくる。まるで心臓を探り当てるかのようにグレースの頭が胸をなぞる。

 やがてしっくりきたのか。俺の左胸に左耳を当てた姿勢でグレースが動きを止めた。

 グレースの細い腕が背中に回ってくる。抱きしめられた。

 抱きしめてくれた。

 大切な記憶を何もかも失った、すっからかんの大馬鹿者を。


「本当は、抱き締め返した方がいい、んだよね?」


 俺は両腕の居場所に迷い、情けなくソファに手を置き直す。


「いいよ。今は」

「うん」

「もう、死なないでね」

「ごめん」

「もう、忘れないでね」

「全力を尽くすよ」

「……そればっかり」


 拗ねたような口調になってしまった。


「本当に、ごめんね」


 何もかもを忘れた俺には、涙ぐんだグレースの声を、気持ちを、正確に理解することなんかできなくて。

 ああ、本当に罪深いことをしたのだなって。そう思うことしかできなかった。


「じゃあ……」


 グレースの唇が近づく。今にも俺の唇と触れそうになる。

 反射的に身を引いてしまった。


「え……」


 呆気に取られる。

 どういうこと?


「気持ちが通じ合ったということで」


 なるほど。納得はできる。けど……


「……ごめんだけど、そういうのはまだ早いんじゃないかな?」

「えー、意気地なし」

「……違うと思うな」


 ちょっと考えてそう答えた。違う、はずだ。決してビビってるわけではない。

 でもそれをしたら、確定してしまう。色々と。


「とりあえず、気持ちは伝わったよ。伝えてくれてありがとう。記憶を飛ばしてもここまでしてもらえるなんて、俺は幸せものだなぁ」

「当然だよ。約束したもん」


 グレースが照れるようにそう言った後、俺の顔を見て一瞬だけ表情を強張らせた。

 その反応は当然だった。

 その約束を、俺は覚えていないのだから。


 微かな困惑が出てしまった己の表情筋を呪う。

 グレースをこれ以上傷つけてはいけない。

 向き合わなくてはならない。いや、向き合いたい。

 そう思ったからだろう。

 俺は流れを変える為に、そして俺が知らない二人の関係を知る為に、ある質問をした。


「俺さ、もしかして、チョロかった?」


 友人、教師と生徒。親しい間柄ではあったが、ここまで親密な関係になっているとは思っても見なかった。

 それもたった一年未満で。

 すると、グレースがブンブンと首を振った。表情が厳しいものへと変わっている。


「もう全然! 苦労したんだから!」

「そうなんだ?」

「そう!」

「具体的には?」

「わたしがアプローチかけたらすぐ歳の差持ち出してくるし! いや見た目はそんなに変わらないでしょって!」


 おっと。ヒートアップしてきた。


「あ〜、それ俺言いそう〜」

「ね! それに俺はたくさん居るから、一人しかいな普通の男性から選んだ方がいいよ、とか」

「それも言いそう」


 不覚にも少し笑ってしまう。

 俺の記憶にはない話なのに、その時の光景がありありとイメージできてしまう。

 少しずつだが自覚する。俺は、グレースと……その……恋人だったのだと。


「いやいやいやいや! あなたは一人しかいないから!」

「え?」


 グレースの言葉は俺の思いもしない言葉だった。意味がわからなかった。

 言葉自体はもちろんわかる。しかし、あまりにも認識の外の概念で。

 言葉はわかるのに、意味がよく理解できない。


「どういう意味?」

「え、その議論またするの? 喧嘩?」

「好戦的すぎない? あと、その対戦は初めてだよ。えっと、俺は復生体だから、一人しかいないってのは、違うんじゃないかな?」


 俺の言葉を聞き終わった後、グレースがにんまりと笑った。

 非常に子供っぽい笑みだ。勝ちを確信したようなガキ笑い。


「ふ〜ん。復生体はそれぞれ記憶が違うんだよね?」

「そうだね。保存して受け継ぐ記憶がそれぞれ違う。共通してるのは最初——ウィリアムの〈神能スキル〉を初めて使うまでの記憶と。その後なら増えた時だけだね」


 俺はすらすらと〈神能スキル〉の説明をした。

 つまり、ある程度までなら、同じ記憶を持った自分が二人以上いることになる。


「それならさ。今わたしと話してるリベルは何人いるの?」

「それは、一人、だね。今の俺しかいない」

「だよね。この経験をしているのはリベル一人だけ。それならさ、リベルは一人しかいないってことにならない?」

「それでも死んだら復生した俺に記憶を受け継ぐから、二人、もっと死んだらそれ以上の俺が居たことにならないかな?」

「そうだけど。リベルが死んだ後に、その記憶が誰のリベルのものだったか〈神能スキル〉が間違えることはないでしょ?」

「……そうだね」


 確かに。

 復生体の記憶は、その復生体の記憶の続きとして保存され、死んだ際にもその記憶をもって復生される。

 そのシステムに矛盾が生じたことは、七百年間ただの一度として皆無だ。

 ウィリアムは間違えない。


「だから、今を生きているリベルは一人だけなんだよ」

「……本当にそうだね。納得できたかも」


 不思議な感覚だった。

 本当に不思議な。


「だから……だからさ。リベルが死んだ時、本当に悲しかったんだよ?」


 非難するような瞳だ。

 その泣きそうな瞳に、俺は動揺してしまう。

 目線を合わせているわけでもないのに。


「……ごめん」

「リベルは一人しかいないのに……思い出は一つしかないのに」


 同じ体験は、ただの一度として存在しない。その時の感情まで含めるのであれば、本当に一度きり。


 俺はそれを、何度もグレースから奪ったのだろう。

 耳に入ってくるグレースの鼓動が、息づかいが、俺の胸を締め付ける。

 同時に、なぜだか充足感のようなものがあった。


 それはきっと、グレースが俺を一人の人間として認めてくれているからだろう。

 それに気付くことができたからだろう。

 言葉にしてもらって初めてわかることもある。

 それはその事を嬉しいと思う自分の感情でも同じだった。

 気付くことができこと、それ自体も嬉しかった。


「そう言えば、初体験の時——」「ちょっとちょっと!」


 俺は思考をぶつ切りにして反射的に〈神能スキル〉を起動させた。

 危な。


「あ、勝手に〈神能スキル〉使うのやめて!」

「いや、無理だって」

「意気地なし」

「そう言ってもらっても構いませんよ!」

「開き直るな!」


 さすがに、それは……聞けないよ。


「というか、いつまでその格好なの?」

「うん? 湯冷めしちゃうし、そろそろ服着ようかな」

「そうした方がいいよ、じゃあ、俺はこれで——」「あっち向いてて、見たらだめだよ」


 退散しようとしたらとんでもない言葉が返ってきた。

 え。帰る流れじゃないの? 拙者これにて失礼の流れでは?


「ちょっとごめん」


 グレースの左手がソファにかけてあったバスローブへと伸びる。

 目の前にグレースの体がくる。努めて気にしないようにしていたのに。

 バスローブとグレースを挟んで俺がいるから、グレースが身を乗り出す体勢になった。

 するとそこで、グレースが片手で自身の体を包んだタオルに手をかけ——。


「え、ちょっと。ここで着替えるの? 俺向こうの部屋行くよ?」


 急いで目を閉じる。わけがわからない。


「だめ。ここにいて」

「でも……」

「あ、少しくらいなら見てもいいよ」

「見ないよ!」

「あ、もしかして着ないで欲しかった?」


 視界を絶った暗闇の中、おかしそうに笑うグレースの声が聞こえる。


「どうぞ早く着ていただけますと幸いです」


 どうにか早口でその言葉を絞りだす。

 諦めたような口調になってしまったのは、さもありなん。


「おかしいんだぁ」


 バスローブを着るまでの短い間。グレースは大層ご満悦だった。

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