第8話
え。
呆気に取られた俺を、グレースの綺麗な碧い瞳が覗き込む。
薄暗い室内においても、俺の視力はその瞳の中に映る間抜け顔を映し出す。
鼓動が聞こえる。グレースの心臓の鼓動が。
脈は早い。けどこの音の感じは——
「ねぇ。嘘ならわかるんでしょ?」
グレースの碧い瞳が潤んでいる。まるで波打つ海原のような煌めきで、油断していると吸い込まれそうだ。
「……そう、なんだ……そっか」
俺には昔死に別れた最愛の妻がいるとか、記憶にないとか、グレースのことは小さい頃から知っているから、とか。
そんな言葉が出そうになって、その全てが引っ込んだ。
その言い訳は、今聞こえてくる音を否定するには足りていない。
今聞こえてくる想いを否定する理由には、なりはしない。
「……わかったよ」
俺はもう、落ち着いていた。
グレースの瞳を見つめる。
お互いの唇が、いつでも触れられそうな距離。きっと、俺が知らない一年の間にたくさんこの距離で話をしたのだろう。
「……うん」
グレースが俺の胸に額を乗せてくる。まるで心臓を探り当てるかのようにグレースの頭が胸をなぞる。
やがてしっくりきたのか。俺の左胸に左耳を当てた姿勢でグレースが動きを止めた。
グレースの細い腕が背中に回ってくる。抱きしめられた。
抱きしめてくれた。
大切な記憶を何もかも失った、すっからかんの大馬鹿者を。
「本当は、抱き締め返した方がいい、んだよね?」
俺は両腕の居場所に迷い、情けなくソファに手を置き直す。
「いいよ。今は」
「うん」
「もう、死なないでね」
「ごめん」
「もう、忘れないでね」
「全力を尽くすよ」
「……そればっかり」
拗ねたような口調になってしまった。
「本当に、ごめんね」
何もかもを忘れた俺には、涙ぐんだグレースの声を、気持ちを、正確に理解することなんかできなくて。
ああ、本当に罪深いことをしたのだなって。そう思うことしかできなかった。
「じゃあ……」
グレースの唇が近づく。今にも俺の唇と触れそうになる。
反射的に身を引いてしまった。
「え……」
呆気に取られる。
どういうこと?
「気持ちが通じ合ったということで」
なるほど。納得はできる。けど……
「……ごめんだけど、そういうのはまだ早いんじゃないかな?」
「えー、意気地なし」
「……違うと思うな」
ちょっと考えてそう答えた。違う、はずだ。決してビビってるわけではない。
でもそれをしたら、確定してしまう。色々と。
「とりあえず、気持ちは伝わったよ。伝えてくれてありがとう。記憶を飛ばしてもここまでしてもらえるなんて、俺は幸せものだなぁ」
「当然だよ。約束したもん」
グレースが照れるようにそう言った後、俺の顔を見て一瞬だけ表情を強張らせた。
その反応は当然だった。
その約束を、俺は覚えていないのだから。
微かな困惑が出てしまった己の表情筋を呪う。
グレースをこれ以上傷つけてはいけない。
向き合わなくてはならない。いや、向き合いたい。
そう思ったからだろう。
俺は流れを変える為に、そして俺が知らない二人の関係を知る為に、ある質問をした。
「俺さ、もしかして、チョロかった?」
友人、教師と生徒。親しい間柄ではあったが、ここまで親密な関係になっているとは思っても見なかった。
それもたった一年未満で。
すると、グレースがブンブンと首を振った。表情が厳しいものへと変わっている。
「もう全然! 苦労したんだから!」
「そうなんだ?」
「そう!」
「具体的には?」
「わたしがアプローチかけたらすぐ歳の差持ち出してくるし! いや見た目はそんなに変わらないでしょって!」
おっと。ヒートアップしてきた。
「あ〜、それ俺言いそう〜」
「ね! それに俺はたくさん居るから、一人しかいな普通の男性から選んだ方がいいよ、とか」
「それも言いそう」
不覚にも少し笑ってしまう。
俺の記憶にはない話なのに、その時の光景がありありとイメージできてしまう。
少しずつだが自覚する。俺は、グレースと……その……恋人だったのだと。
「いやいやいやいや! あなたは一人しかいないから!」
「え?」
グレースの言葉は俺の思いもしない言葉だった。意味がわからなかった。
言葉自体はもちろんわかる。しかし、あまりにも認識の外の概念で。
言葉はわかるのに、意味がよく理解できない。
「どういう意味?」
「え、その議論またするの? 喧嘩?」
「好戦的すぎない? あと、その対戦は初めてだよ。えっと、俺は復生体だから、一人しかいないってのは、違うんじゃないかな?」
俺の言葉を聞き終わった後、グレースがにんまりと笑った。
非常に子供っぽい笑みだ。勝ちを確信したようなガキ笑い。
「ふ〜ん。復生体はそれぞれ記憶が違うんだよね?」
「そうだね。保存して受け継ぐ記憶がそれぞれ違う。共通してるのは最初——ウィリアムの〈神能〉を初めて使うまでの記憶と。その後なら増えた時だけだね」
俺はすらすらと〈神能〉の説明をした。
つまり、ある程度までなら、同じ記憶を持った自分が二人以上いることになる。
「それならさ。今わたしと話してるリベルは何人いるの?」
「それは、一人、だね。今の俺しかいない」
「だよね。この経験をしているのはリベル一人だけ。それならさ、リベルは一人しかいないってことにならない?」
「それでも死んだら復生した俺に記憶を受け継ぐから、二人、もっと死んだらそれ以上の俺が居たことにならないかな?」
「そうだけど。リベルが死んだ後に、その記憶が誰のリベルのものだったか〈神能〉が間違えることはないでしょ?」
「……そうだね」
確かに。
復生体の記憶は、その復生体の記憶の続きとして保存され、死んだ際にもその記憶をもって復生される。
そのシステムに矛盾が生じたことは、七百年間ただの一度として皆無だ。
ウィリアムは間違えない。
「だから、今を生きているリベルは一人だけなんだよ」
「……本当にそうだね。納得できたかも」
不思議な感覚だった。
本当に不思議な。
「だから……だからさ。リベルが死んだ時、本当に悲しかったんだよ?」
非難するような瞳だ。
その泣きそうな瞳に、俺は動揺してしまう。
目線を合わせているわけでもないのに。
「……ごめん」
「リベルは一人しかいないのに……思い出は一つしかないのに」
同じ体験は、ただの一度として存在しない。その時の感情まで含めるのであれば、本当に一度きり。
俺はそれを、何度もグレースから奪ったのだろう。
耳に入ってくるグレースの鼓動が、息づかいが、俺の胸を締め付ける。
同時に、なぜだか充足感のようなものがあった。
それはきっと、グレースが俺を一人の人間として認めてくれているからだろう。
それに気付くことができたからだろう。
言葉にしてもらって初めてわかることもある。
それはその事を嬉しいと思う自分の感情でも同じだった。
気付くことができこと、それ自体も嬉しかった。
「そう言えば、初体験の時——」「ちょっとちょっと!」
俺は思考をぶつ切りにして反射的に〈神能〉を起動させた。
危な。
「あ、勝手に〈神能〉使うのやめて!」
「いや、無理だって」
「意気地なし」
「そう言ってもらっても構いませんよ!」
「開き直るな!」
さすがに、それは……聞けないよ。
「というか、いつまでその格好なの?」
「うん? 湯冷めしちゃうし、そろそろ服着ようかな」
「そうした方がいいよ、じゃあ、俺はこれで——」「あっち向いてて、見たらだめだよ」
退散しようとしたらとんでもない言葉が返ってきた。
え。帰る流れじゃないの? 拙者これにて失礼の流れでは?
「ちょっとごめん」
グレースの左手がソファにかけてあったバスローブへと伸びる。
目の前にグレースの体がくる。努めて気にしないようにしていたのに。
バスローブとグレースを挟んで俺がいるから、グレースが身を乗り出す体勢になった。
するとそこで、グレースが片手で自身の体を包んだタオルに手をかけ——。
「え、ちょっと。ここで着替えるの? 俺向こうの部屋行くよ?」
急いで目を閉じる。わけがわからない。
「だめ。ここにいて」
「でも……」
「あ、少しくらいなら見てもいいよ」
「見ないよ!」
「あ、もしかして着ないで欲しかった?」
視界を絶った暗闇の中、おかしそうに笑うグレースの声が聞こえる。
「どうぞ早く着ていただけますと幸いです」
どうにか早口でその言葉を絞りだす。
諦めたような口調になってしまったのは、さもありなん。
「おかしいんだぁ」
バスローブを着るまでの短い間。グレースは大層ご満悦だった。




