第8話
議会が終わり、夜のこと。
俺は赤いソファの前で立ち尽くしていた。
「ねぇ、本当に行くの?」
この部屋に来てから何度目だろう。
ソファにしがみついたグレースにそう問われるのは。
「行くよ。明日の朝には出発する」
「はやい」
「遅いくらいだよ」
「でも……」
赤いソファには涙で滲みができていた。議会が終わってから、グレースはここに来てずっと泣いていたらしい。
グレースの今の状態を子供っぽいと笑うことなど俺にはできない。
「グレース様……」
俺を呼びに来たマーガレットとレイチェルさんが顔を見合わせる。
マーガレットが躊躇いがちに言う。
「……必要なこと、なのでしょうか?」
「はい。これ以上のものはおそらく無いかと、未知の兵器に対抗する手段として、〈復生体〉の数の力が必要なのです」
俺のはっきりとした答えに、やはりマーガレットの表情は優れない。
無理もない。主人がこの状態だ。俺の答えにびくりと頭を震わせて、また泣きそうになっている。
「グレース、安心して。約束はちゃんと守るから。戦争が終わったら、一緒にたくさんの場所へ出かけよう」
「どこに行くの?」
「え? そうだな……まずは王都を回ろう。近くだけど自由に行くことはないから、きっと楽しいよ」
「いついくの?」
「戦争が終わったら」
「いつ戦争は終わるの?」
戦争が終わる、とはどんな状態なのか。
正確には、〈復生体〉が前線から離れることができるようになっている状態である。
隣国の未知の脅威を目の当たりにして、それに対する警戒を解いても良いという判断ができる状態。
それはきっと、果てしなく長い時間がかかるだろう。
もしかしたら、グレースがおばあちゃんになっても事態は変わらないかもしれない。
議会に出席していたほとんどの人物がそれを理解しているはずだ。
きっとグレースもそれがわかっている。
儚い希望に満ちた、潤んだその瞳に俺は何を言ってあげられるのだろう。
わからない、という言葉をすんでのところで飲み込んで、
「俺たちが上手く任務をこなせたら、その分早く終わるよ。だから、任せて」
できるだけ元気に聞こえるように俺は代わりの言葉を口にした。
耳障りだけはいい。空虚な言葉だ。
「……わかった。早く終わらせよう。わたしも、街をミサイルから守るから」
グレースは何度か小さく頷いた後、涙で湿った顔と声でそう言ってくれた。
「うん。早く日常を取り戻そう」
俺は立っていた一人のメイドさんへと振り返る。
「レイチェルさん、みんなを頼みます。特にマーガレットさんのことは気にかけてくれると助かります。マーガレットさん、来て早々、こんなことになってすみません」
「そんな、あたしは大丈夫です!」
空元気なのは明白だ。だが少し救われた気分で、俺とレイチェルさんはお互いを見やった。
そしてレイチェルさんがはっきりと答える。
「承知しました。全て——お任せください」
俺とグレースがこの場所にいないとなれば、彼女たちに冷たい風が吹くことは想像に難く無い。
様々な手続きや環境の変化が彼女たちを襲うだろう。
離れ離れになってしまうかもしれない。
「もし、メイドの皆さんが離れ離れになっても必ず迎えに行きますから」
「約束ですよ。ずっと、お帰りを待たせていただきますからね」
レイチェルさんがいたずらっ子みたいにそう言った後、「あっ」と声を漏らした。
「夕食にしましょう。今日はシチューに、グレース様が先ほど食べたいと言っていたデザートも用意してあります」
「……あー」
グレースが気の抜けたような声を漏らした。
ぐずりながら食べたいものは口にしていたらしい。
グレースは事態に気が付いたのか、ソファに顔を埋めて嘘泣きを始めている。
「ほらぐずってないでみんなで食べよう」
「ぐずってない!」
嘘泣きしておいて、この評価は嫌らしい。
難しいな。
グレースの広い部屋で、メイドさんたちも含めたみんなと一緒に夕食を食べた。
シチューはびっくりするくらい美味しくて、最後の晩餐はこれにしようと思った。
「これは何?」
「最近王都で流行ってるパフェってスイーツだよ。しらないの?」
大きなグラスに色々なものが敷き詰められていて、一番上にアイスやらフルーツやらが乗っている。
メイドさんの一人が大きな口で、掬ったパフェに齧り付いた。
「何これ美味しい!」
「うまいっすね 美味っす」
周りを見ると、他のメイドさんたちも頬を綻ばせている。
俺もとパフェを口に含むと、甘さと冷たさが口に広がった。
「美味しいね」
グレースと目が合う。
「そうでしょ? 気になってたんだ。また一緒に食べようね」
「うん」
それは何気ない日常の約束で、普段なら気にも止めないようなものかもしれない。
けれど、グレースのその笑顔を見て、絶対にそうしようと心に決めた。
翌日、王都の門はこれまでにないに喧騒に包まれていた。
事態を未だ知らない住民たちが野次馬となって集まっている。早朝だからこの規模で済んでいるが、時間帯によっては出発に支障が出たかもしれない。
周りにいるのは、年齢に少し差異があるだけの同じ人間たち。
その表情からいち早く事態を飲み込んでこの場に来ているのがわかる。
俺もきっと同じ顔をしているのだろう。
前線へはリカードが送ってくれるらしい。大きなコンテナで空を飛んで、〈復生体〉を大量出荷というわけだ。
視界の端で、人混みからフードを目深に被った人物を見つける。フードの脇からチャコールグレーの髪が一束漏れていた。
服装から、王城から抜け出してきたのだと察して近づくと、キョロキョロしていたグレースの視線もこちらで止まった。
「グレース、どうしたの?」
目立たないように小声だ。
グレースは何も言わなかった。
「もしかしてお見送りしに来てくれたの?」
何も言わないことを変に思いながら首を傾げると、グレースの顔が近づいてきて。
唇に、微かな温もりと柔らかさ。
そのまま数秒。
グレースが体を離す。顔が真っ赤だ。
「じゃ、頑張ってきてね。そ、それじゃ!」
そう言ったきり、グレースは走って人混みの中に消えてしまった。
——……どういうこと?
俺は唇に手の甲を当てて、夢じゃないよなと確かめた。
どうやら考えることは山積みのようだ。
様々な感情に揉まれながら、俺は前線へと出発した。




