第9話 深まるすれ違い
剣の打ち合う乾いた音や、むさ苦しい土埃、そして騎士たちの熱気が渦巻く修練場。シュテファンは、そんな男たちの空間から愛らしい妻を隔離するように優しく腰を抱き寄せると、少し離れた後ろを侍女たちに追従させながら、二人で静かな庭園へと歩みを進めた。
彼の大きな手から伝わる心地よい温もりと、鼻腔をくすぐる清潔な香木の香りに包まれながら、リリアナはおとなしく彼のエスコートに身を委ねていた。
屋敷の裏手に広がるその庭園に足を踏み入れた途端、空気がふわりと清浄なものに変わった。
リリアナの視界に飛び込んできたのは、見渡す限りに咲き誇る『青い薔薇』の群生である。
ああ……っ!まるで、シュテファン様の深い青色の瞳が、そのまま花弁に宿ったかのように美しいわ……!
この世のものとは思えないほど神秘的で、気高い青。それは、公爵夫人であるシュテファンの母親がこよなく愛した花であった。優秀な庭師たちの手によって隅々まで完璧に手入れされたその庭園は、一枚の絵画のように美しく、微かに吹く風が青い花びらを揺らすたびに、甘く芳醇な香りがふわりと舞い上がる。
シュテファンは庭園の中央に設置された、繊細な意匠が施された白亜のテーブルセットへとリリアナを導いた。彼がスッと自然な所作で椅子を引き、リリアナが腰を下ろすのを見届けてから、自身も向かいの席へと静かに腰を落とす。
私が至らないせいで呆れさせてしまったというのに、椅子を引くエスコートまでしてくださるなんて……!なんて慈悲深く、完璧な紳士でいらっしゃるの……っ!
先ほどまでのショックですっかり萎れていたリリアナだったが、彼のあまりにも美しい所作を間近で見せつけられ、内心では感動に打ち震えていた。
「……紅茶を」
シュテファンが短く声をかけると、控えていた侍女たちが音もなく歩み寄り、手際よくテーブルの準備を始めた。
白磁のティーカップに、黄金色に透き通る香り高い紅茶が注がれ、銀のスタンドには宝石のように色とりどりの美しい焼き菓子が並べられる。しかし、これから『神からの説教——あるいは見限りの宣告——』が始まると覚悟を決めているリリアナに、それらを味わう余裕などあるはずもなかった。
「……下がれ」
準備が整うと、シュテファンは静かに、しかし絶対的な威厳を含んだ声で短く命じた。侍女たちは深く一礼し、足音ひとつ立てずに速やかに庭園から姿を消す。
鳥のさえずりと、風が葉を揺らす微かな音だけが響く静寂の中。青い薔薇に囲まれた空間に、ついに二人きり。
シュテファンは伏せていた長い睫毛を上げ、深い青色の瞳で真っ直ぐにリリアナを見据えた。
「……リリアナ嬢。まずは、私の口から正式に謝罪させてほしい」
「しゃ、謝罪、でございますか……?」
神の口から出た信じられない言葉に、リリアナは目を丸くした。
「ああ。昨晩、君に贈った品々のことだ。あれは決して『夜の務めに向けた体力作りをしろ』などという強要ではない。……初夜の晩、私が獣のように理性を失い、君をひどく怯えさせてしまったことへの、私なりの不器用な謝罪だったんだ」
シュテファンは苦渋に満ちた表情で、テーブルの上でギュッと両手を握りしめた。己の身勝手な嫉妬で妻を傷つけてしまった罪悪感が、彼の声に重く滲んでいる。しかし、リリアナの脳内フィルターを通すと、その言葉は全く別の意味に変換された。
あああっ!シュテファン様は、ご自身の手を煩わせてしまった『私の不甲斐なさ』を責めるどころか、ご自分の非として被ってくださるおつもりなのね!なんて慈悲深く、自己犠牲に満ちたお言葉……っ!
「そ、そんな!シュテファン様が謝られる必要など微塵もございませんわ!全ては私の至らなさが招いた結果なのですから!」
「違う!君は何も悪くない!」
珍しく声を荒げたシュテファンに、リリアナはビクッと肩を跳ねさせた。怯えたような彼女の反応に、彼は深く息を吸い込み、己の感情を落ち着かせるようにゆっくりと吐き出す。
「……君に、過酷な鍛錬などしてほしくない。私はただ、君がこの屋敷で心安らかに、ただ笑って過ごしてくれればそれでいいと思っている。その……白磁のように美しい肌に、傷や泥をつけてほしくない」
「っ……!」
シュテファンは、絞り出すような低い声でそう告げた。彼としては、『君に辛い思いはさせない。何もせずとも、私が君を過保護に守り抜く』という、不器用ながらも精一杯の溺愛と誓いの言葉であった。普通のご令嬢であれば、その過保護なまでの溺愛の言葉に頬を染め、愛の深さに感動して涙を流す場面だろう。
だが、リリアナは違った。彼女の顔は、みるみるうちに絶望で真っ青になっていく。
『体力などつけなくていい』『心安らかに過ごせ』『傷や泥をつけるな』……つまり、それは……!
リリアナの思考が、凄まじいスピードで最悪の結論へと到達する。
私の身体は、鍛え直す価値すらもないほどに見限られてしまったということ!?妻としての役割を剥奪され、ただ屋敷に飾られるだけの『美しい観葉植物』になれという、残酷な宣告……っ!
そんなことになれば、完璧な妻として抱かれ、最後には彼の手で美しく処刑されるという至高のエンディングが永遠に訪れなくなってしまう。
あまりのショックと悲しみに、リリアナの翠緑の瞳からポロリと大粒の涙が零れ落ちた。
「……っ」
リリアナはガタッと音を立てて椅子から立ち上がると、一直線にシュテファンの元へと歩み寄った。そして、ドレスの裾が庭園の石畳に汚れることも厭わず、椅子に腰掛ける彼の足元に跪く。驚きに見開かれた彼の視線を受け止めながら、リリアナは膝の上にあった彼の大きな手を、自らの両手でギュッと力強く握りしめた。
「嫌ですわ、シュテファン様……っ!私を、ただのお飾りとして見捨てないでくださいませ……っ!」
懇願するように彼を見上げ、ポロポロと涙をこぼすリリアナ。その痛切な姿に、シュテファンは弾かれたように息を呑んだ。
なぜ……私が大切にしたいと願うほど、君はそんなにも悲痛な顔で泣くんだ……!
自分のような男の妻になるという『義務』を果たすため、誇り高き伯爵令嬢であるはずの彼女が、こうして泥に膝をついてまで自分に縋り付いている。その健気さと痛ましさが、シュテファンの胸をギリギリと締め付けた。
「……リリアナ嬢」
シュテファンは苦しげに眉間に皺を寄せると、足元にいる彼女を覆うように深く身を屈めた。そして、リリアナに握りしめられていない方の手をそっと伸ばすと、下から彼を見上げている彼女の滑らかな頬を、壊れ物に触れるように優しく包み込む。
「泣かないでくれ。……頼むから」
切実な響きを帯びた低い声が落ちる。シュテファンの親指の腹が、リリアナの目尻からこぼれ落ちる涙の雫を、掬い取るように何度も、ひどく丁寧に拭い去っていった。普段の『氷の貴公子』からは想像もつかないほど、その手つきは甘く、熱を帯びている。
あああっ!わざわざ屈み込んで涙を拭ってくださるなんて……!私のあまりの惨めさに、神様が哀れみをかけてくださっているのね……!
至近距離で触れる彼の手の温もりと、甘やかな香木のような匂い。リリアナは、頬に添えられた彼の手のひらにすり寄るように目を細めると、さらに彼の手を握る手に力を込めた。
「……見捨てるわけがないだろう。君は私の、たった一人の大切な妻だ」
これ以上彼女が突飛な方向に暴走しないよう、シュテファンは言葉を選びながら、静かに、ひどく甘い声で囁いた。
「君がそこまで言うのなら……鍛錬ではなく、『美しさを磨く』ことだけを許可しよう。だが、無理だけは絶対にしないと誓ってくれ。……私は、君が苦しむ姿を見たくないんだ」
「シュテファン、さま……っ!」
私が無茶をして命を落とし、ご自身の手で処刑する楽しみが奪われることを危惧していらっしゃるのね!なんて徹底された美学……っ!
シュテファンの深い愛情からの譲歩を、見事なまでに猟奇的なファンサービスとして受け取ったリリアナの顔に、再びパッと鮮やかな生気が戻る。
「はいっ!私、シュテファン様が思わず触れたくなるような、最高の淑女になってみせますわ!」
「……っ」
嬉しそうに花が綻ぶような笑みを向けるリリアナ。
その『触れたくなるような』という無自覚で破壊力抜群の言葉に、シュテファンはカッと耳の先まで赤く染め、たまらず口元を覆って視線を逸らした。
……ああ。もう、どうとでもなれ。
彼女の思考回路がどうであれ、自分に向けられる真っ直ぐな瞳と笑顔に、己の心がどうしようもなく救われている事実だけは否定できなかった。
青い薔薇が咲き誇る庭園で、絶対に殺されたい狂信者の妻と、絶対に殺すまいと誓った不器用な夫の、絶望的で甘美なすれ違いはさらに深く、強固なものとなっていくのだった。
つづく




