第8話 致命的な誤解
執務室を出たシュテファンは、長い脚に任せて足早に修練場へと向かった。
ダンテから知らされた、『リリアナが修練場に来ている』という信じ難い報告。しかも、彼女は『自分に言われて鍛えに来た』と主張しているという。
……一体、何をどう勘違いすればそうなるのか。
昨日の『心身ともに逞しくなり、ご期待に添える立派な妻になってみせます』という彼女の言葉が脳裏をよぎる。あれは冗談でも比喩でもなく、本気で逞しくなろうとしての言葉だったのだ。彼女の磁器のように白く滑らかな肌に、もし砂埃や泥がつけば。万が一にもかすり傷一つでもつけば。想像しただけで、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛む。
急ぎ修練場の入り口に辿り着いたシュテファンは、そこでピタリと足を止めた。目の前に広がる光景に、唖然として言葉を失ったのだ。
「皆様、お疲れ様ですわ!さあ、冷たいお飲み物をどうぞ!」
修練場の片隅。そこには、剣を置いて休憩している筋骨隆々の騎士たちの輪があり、その中心には、誰よりも美しく可憐な己の妻――リリアナがいた。彼女の傍らでは、公爵家の侍女たちが慌ただしく、大きな銀のトレイからグラスを配って回っている。リリアナ自身もまた、その細く白い指でグラスを一つ一つ手に取り、騎士たちへ直接手渡していたのだ。
「あ、ありがとうございます……っ、若奥様!」
「ふふっ、遠慮なさらないで。皆様の頑張りには、いつも頭が下がりますわ」
花が綻ぶような、あの優雅で愛らしい微笑み。その笑みを至近距離で向けられ、自分たちのために自らグラスを手渡してくれる美しき次期公爵夫人に、血気盛んな騎士たちの頬は一様にポッと赤く染まっている。皆、恐縮しながらもどこかだらしなく頬を緩ませ、嬉しそうにグラスを受け取っていた。
その光景を見た瞬間、シュテファンの頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
……彼女が、他の男に微笑みかけている。自分ではない、別の男たちに。
あのように無防備で愛らしい笑顔を向け、その白い手で飲み物を渡し、甲斐甲斐しく献身している。
ドクン、と心臓がひどく嫌な音を立てた。胸の奥に開いた虚無の穴から、どす黒い泥のような感情が凄まじい勢いで噴き出してくる。
やめろ……。その笑顔を、その手を、他の男に向けるな……!
修練場の砂埃を舞い上げる風すらも忌々しい。 彼女の視界に映るあの男たちを、今すぐ全員この場から消し去ってしまいたい。シュテファンは、革手袋に包まれた両手をギリッと骨が鳴るほど強く握りしめ、修練場の熱気をも一瞬で凍らせるような、ひどく冷たく凍てつく視線を騎士たちに向けていた。己の妻が他の男たちに微笑みかけ、彼らが嬉しそうに頬を染めている。その光景は、シュテファンの胸の奥底にある悍ましい独占欲を刺激するには十分すぎた。今すぐ踏み込み、彼女を腕の中に閉じ込めて連れ去りたい。そんな仄暗い衝動が臨界点に達しようとした、その時。
――凍りついていた彼の視線は、一瞬にして熱を帯び、溶け落ちていく。
「……!シュテファン様!」
入り口の影に立ち尽くすシュテファンの姿を見つけた瞬間、リリアナはまるで太陽を見つけた向日葵のように、パッと花が綻ぶような極上の笑みを浮かべたのだ。そして、周囲の騎士たちなどもう見えなくなったとばかりに、一切の躊躇なくこちらへと駆け寄ってくる。
リリアナは、自分を見つけるだけであんなにも嬉しそうに表情を変えた。今、彼女の美しい翠緑の瞳に映っているのは、間違いなく己のみ。
たったそれだけの事実が、シュテファンの腹の底を満たしていく。どうしようもないほどの甘い優越感が、嫉妬で凍てついた心をあっという間に覆い隠し、甘く溶かしてゆくのを感じていた。
「あっ」
シュテファンの元へ急ぐあまり足元への注意がおろそかになっていたリリアナは、不慣れな場所を急ぐあまり、大きく身体をよろけさせてしまった。
転んでしまうわ……!
咄嗟に受け身も取れず、リリアナはぎゅっ、と強く目を瞑る。だが、いつまで経っても冷たく固い地面の感触が彼女を襲うことはなかった。代わりに、ふにっ、と少し固めの、それでいて温かく包み込まれるような心地よいクッションの感触が、彼女の頬と身体をふわりと受け止めたのだ。おまけに、鼻腔をくすぐるのは土の匂いではなく、冷たくも清廉とした、香木のような香り。
この、神々しさすらもある匂いは……!
恐る恐る彼女が目を開けると、まず視界に飛び込んできたのは、上等な生地で仕立てられた執務服だった。黒を基調とし、差し色として彼女の瞳の色と同じ『エメラルドのような美しい緑色』があしらわれているその服は、間違いなく今朝会った時に見たシュテファンの服装である。
そして、彼女の顔がすっぽりと収まっているその場所は――分厚い布地越しにもわかる、シュテファンの鍛え上げられた逞しい胸元であった。
わ、私、転んだ拍子にシュテファン様の胸元に顔を……!
状況を理解した途端、リリアナの顔がみるみるうちに沸騰したように赤く染まってゆく。
尊き神の身体に、自ら突っ込んでしまったのだ。不敬にもほどがある。
「も、申し訳ございませ……っ!」
慌てて顔を離し、すぐさま距離をとって平伏しようとするリリアナ。だが、それは叶わなかった。彼女が地面に倒れないように、シュテファンの強靭な腕がリリアナの細い腰にしっかりと回され、逃がさないように引き寄せられていたからだ。離れようと力を込めても、腰に回された彼の手はびくともしない。密着した身体越しに、分厚い胸板からシュテファンの規則正しく力強い心音が直接鼓膜を打つように響いてくる。崇拝する神の鼓動を全身で浴びてしまったリリアナの心臓は、今にも爆発しそうなほど激しく跳ね上がった。
「大丈夫か?」
頭上から、簡素でありつつも深い安堵と優しさが窺えるシュテファンの声が降ってくる。リリアナは彼の胸にすっぽりと収まったまま、茹でダコのように頬を赤くして、こくこくと何度も首を縦に振った。
「え、ええ!大丈夫ですわ!受け止めていただき、ありがとうございます……!」
「君に怪我がなくて良かった」
「ひゃ……っ」
屈み込んだ彼の低い声が、耳のすぐ近くで鼓膜を優しく撫でる。その甘く吐息混じりの響きに背筋がゾクゾクと粟立ち、リリアナは思わず上擦った、自分でも驚くような情けない悲鳴を上げてしまった。
「そ、その……っ!もう、大丈夫、ですから……っ!」
「再び転んでしまってはいけない。私が部屋まで送ろう」
離れようとするリリアナの言葉を遮り、シュテファンは有無を言わせぬ力強さで彼女の細い腰に手を添えた。そのまま、愛する妻を他の男たちの視線から一刻も早く遠ざけるように、修練場を後にしようとする。
しかし、強引にエスコートされそうになったリリアナは、ここで本来の目的をハッと思い出し、慌てて声を上げた。
「いけませんわ……!私、ここで鍛錬を重ねて、逞しい身体を手に入れなければなりませんの……!」
その言葉に、シュテファンの足がピタリと止まった。彼は心底理解できないというように、端正な眉間に深い皺を寄せてリリアナを見下ろす。彼は妻を過保護に溺愛し、蝶よ花よと大切に守り抜きたいと願っているのだ。愛らしい妻に『逞しい身体』など微塵も求めていないし、ましてや修練場での過酷な鍛錬など言語道断である。
「……そのことだが。一体君は、私の何を見てそのような勘違いを起こしているんだ?」
呆れと困惑が入り交じったシュテファンの問いに、リリアナは自信満々に胸を張り、きらきらと輝く翠緑の瞳で彼を見上げた。
「……?昨日いただいたプレゼントに隠されたメッセージ、私しかと受け取りましたわ!『まずはこの茶葉で滋養をつけ、クッションで体を休めて体力をつけなさい』と!私の身体が貧相なばかりに、夜のお務めの際にシュテファン様をお待たせしてしまうなんて、妻としてあるまじき失態ですから!」
その言葉を聞いた瞬間、シュテファンは完全に絶句した。
彼が昨日贈ったあの数々のプレゼントは、初夜に嫉妬から理性を失い、獣のように無理やり襲いかかってしまったことへの深い謝罪と、『今後は絶対に傷つけず、君を過保護なまでに溺愛する』という重すぎる決意の表れであったのだ。
だが、どういうことか。目の前の愛らしくも無邪気な、自分を狂信する妻は、その真意を宇宙の果てまで曲解してしまっているらしい。
なぜ、私が贈った謝罪と愛の証が、『夜の営みに向けた体力作りの強要』という過酷な試練に変換されているんだ……?
『自分は貴方様の意図をしっかりと理解している』とでも言うように、自信満々に胸を張るリリアナ。予想の斜め上を暴走するリリアナの思考回路に、シュテファンは言葉を失い、ただ静かに頭痛を堪えるようにそっと額に手をやり、深く、重いため息を吐き出した。
一方のリリアナは、彼のその重苦しい溜め息を聞いた瞬間、内心で盛大に頭を抱えていた。
ああっ!シュテファン様に呆れられ、すっかり失望されてしまいましたわ……!
無理もない。神がわざわざ与えてくださった試練に対し、まだ何一つ結果を出せていないのだから。リリアナは焦りに駆られ、すがるような視線を彼に向けた。
「シュテファン様!どうか待っていてくださいませ!私、血のにじむような鍛錬を重ねて、必ずや夜のお務めに耐えうる逞しき身体になってみせますから……!」
「……リリアナ嬢。君は、致命的な勘違いをしている」
「……え?」
冷ややかな、しかしどこか困惑の混じったシュテファンの声が降ってくる。
「私は君に、『体力づくりの強要』など一切していない。ましてや、君に『逞しい身体』など微塵も求めているわけがないだろう」
「そ、そんな……!」
シュテファンの口から放たれた明確な否定の言葉に、リリアナは雷に打たれたような深いショックを受けた。
私ったら、なんて愚かなの!?尊き神の御言葉を、あろうことか捻じ曲げて解釈してしまっていたなんて……っ!
不敬極まりない大失態だ。今すぐにでもこの場に平伏し、地に額を擦り付けて、己の無礼と読解力のなさを心ゆくまで詫びたい。
「も、申し訳ありません……っ!」
リリアナは慌てて地面にしゃがみ込もうと身を沈めた。けれど、彼女の細い腰に回されたシュテファンの強靭な腕は、しっかりと彼女をホールドしたままで、その拘束を解くことはできなかった。逃がすまいとするような、それでいて壊れ物を扱うような不思議な力加減だ。
「君に謝ってほしいわけでもない。……リリアナ嬢、少し二人で話をしよう」
「え、ええ……分かりましたわ……」
すっかり言葉の調子が落ち、しゅんと萎れた花のようにうつむいてしまったリリアナ。そのひどく落ち込んだ姿に、シュテファンの胸がチクリと痛む。
自分はただ誤解を解きたかっただけなのに、また彼女の笑顔を奪ってしまった。
シュテファンは困ったように端正な眉を下げると、元気が失われてしまった愛しい妻を労わるようにさらに優しく腰を抱き寄せ、むさ苦しい修練場から、二人の話し合いの場となる静かな庭園へとゆっくりエスコートしていくのだった。
つづく




