第7話 体力作りのために!
翌日。
リリアナは、動きやすい乗馬着に着替えていた。馬に乗る予定など全くないのだが、実家から持参した衣装の中で、激しい運動――つまり『体力作り』に耐えうる服がこれしかなかったのだ。
さて、今日からシュテファン様のご期待に応えるべく、逞しい身体を手に入れるわ!
気合十分に部屋を飛び出したリリアナが真っ先に向かったのは、フレースヴェイク公爵家が誇る私兵騎士団の修練場であった。
そこは、筋骨隆々の騎士たちが日々厳しい鍛錬を行い、血と汗を流す熱苦しい場所である。本来ならば、深窓の令嬢であり、次期公爵夫人であるリリアナが足を踏み入れるような場所では決してない。しかし、そんな一般常識など、敬愛するシュテファンの指令を前にしたリリアナには微塵も通用しなかった。
「ふふっ、皆様、朝から精が出ますわね!」
場違いなほど優雅な足取りでリリアナが修練場に足を踏み入れた瞬間、凄まじい気迫で剣を振るっていた騎士たちの間に、サァッと波打つようなどよめきが走った。
皆、一様に目を見開き、信じられないものを見るような顔で動きを止める。その異変にいち早く気づき、騎士団長のダンテが慌てた様子でリリアナの前にすっ飛んできた。
「若奥様……っ!このようなむさ苦しい場所に、一体何のご用ですか!?」
大柄で歴戦の猛者といった風貌のダンテが、ひどく狼狽えながら尋ねてくる。無理もない。ここは砂埃と汗の匂いが充満する戦場のような場所であり、いくら乗馬着とはいえ、普段は美しい絹のドレスを着飾るような貴婦人が来る場所ではないからだ。
しかし、団長の言葉に、リリアナはえっへんと自慢げに胸を張って答えた。
「私、この通り貧相な身体でしょう?騎士の皆様には到底及ばないと思いますが、少しでも逞しくなりたいのです!ですから、今日からここで、皆様と一緒に走り込もうかと思いまして!」
「た、逞しく……ですか?」
「ええ!シュテファン様から、体力をつけるようにと仰せつかったのですわ!」
自信満々に放たれたその言葉に、ダンテは「はあ……?」と間抜けな声を漏らし、心底不可解そうに首を傾げた。
ダンテは、シュテファンの数少ない腹心であり、気心の知れた仲である。
主であるシュテファンは冷酷だと言われることが多いが、ダンテから言わせれば、彼は言葉数が極端に少ないだけで、ひどく真面目で不器用な堅物の男だ。
その彼が、卒業パーティーの数日前から、少し……いや、劇的に変わったのだ。
目の前のリリアナに会う日は、あろうことかあのシュテファンが自ら長い時間をかけて身支度を整え、会える日を指折り数えて待つようになっていた。そしてようやく彼女をこの公爵邸へ迎え入れた日のシュテファンの表情は、いつもの『氷の貴公子』の仮面が剥がれ落ちそうになるほど、僅かに喜びに踊っていたのだ。
さらに、初夜での出来事。何があったのかは詳しく聞いていないが、リリアナを傷つけてしまったのだと、シュテファンは執務室で一人、本気で頭を抱え、身を引き裂かれるように苦しんでいたのをダンテは側で見てきた。
だからこそ、主であるシュテファンが、この美しく可憐な妻を『どれほど過保護に、腫れ物に触れるように大切にしたいと思っているか』を、ダンテは誰よりもよく知っていた。
そんな彼が、大事な妻に向かって『騎士の修練場で走って体力をつけろ』などと言うだろうか?いや、絶対に言うはずがない。万が一にもあり得ない。
「ええ!ですから、私もご期待に応えるべく、今日からここで心身を鍛え上げますわ!」
団長のダンテが抱いた深い困惑など露知らず、リリアナはやる気に満ちた緑色の瞳をキラキラと輝かせ、両方の拳をぎゅっと胸の前で握りしめた。その姿は、これから過酷な戦場に向かう新兵のように生気に満ちている。
ダンテはこめかみを押さえ、深く息を吐き出した。長年シュテファンに仕えてきた彼には、主がこの華奢で愛らしい妻に修練場での鍛錬を強いるなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだと断言できる。
「若奥様。……ひとまず、こちらに」
これ以上、血気盛んな騎士たちの熱気と砂埃の中に若奥様を立たせておくわけにはいかない。ダンテは、修練場の中でも比較的清潔感のある、本来は団長である自分が部下たちの鍛錬を監視するために使う椅子へと彼女を丁寧に案内した。
「?……ええ」
リリアナは、むさ苦しい空間には全く似つかわしくない優雅な動作で、促されるままにちょこんと椅子に腰掛けた。そのあまりにも場違いで可愛らしい姿に、周囲の騎士たちがざわめきながらもチラチラと視線を送ってくる。
「……何か、行き違いがあるのかもしれません。少々お待ちください」
「行き違い……?何のことかしら?」
キョトンと小首を傾げるリリアナの無邪気な様子に、ダンテは頭痛を覚えながら一礼する。そして、部下たちに『若奥様に失礼のないように』と目で牽制すると、足早にシュテファンのいる執務室へと向かった。
「おい!シュテファン!!」
バァン!と、重厚な執務室のドアが無遠慮に開け放たれた。
「……何だ。騒々しいな」
書類仕事に没頭していたシュテファンは、万年筆を持つ手を止め、不快そうに眉を顰めてダンテに冷ややかな視線を送る。
「何だ、じゃねえよ!お前、若奥様に何を言ったんだ!?」
「……何のことだ」
「いいから来い!騎士団の修練場に、若奥様が来てるんだよ!」
「……は?」
その言葉に、シュテファンの完璧な無表情がピシッと崩れた。
「お前に鍛えろと言われて来たんだと。口数の少ないお前が、勘違いさせたんだろ?早く行って誤解を解いてやれ!」
「……ああ」
シュテファンは、万年筆を机に置きながら、昨日執事長から報告された言葉を思い出した。
『私、必ずや心身ともに逞しくなり、ご期待に添える立派な妻になってみせますわ! ですので決して見捨てないでくださいませ!』
そのひどく困惑した執事長の報告に、シュテファンも首を傾げたのだ。
何かの冗談だと、思っていたのだが。彼女は本当に、逞しくなろうとしているらしい。
あのむさ苦しい砂埃の舞う修練場で?屈強な男たちに混ざって?
彼女の、あの磁器のように滑らかで白い肌に傷が付いてしまうかもしれない。少しでも転べば、あの細い足に泥が跳ねるだろう。
想像しただけで、シュテファンの胸がズキリと痛んだ。
「……行くぞ」
シュテファンはダンテに促されるまま席を立ち、足早に修練場へと向かうのだった。
つづく




