第6話 斜め上の努力
どうすれば、もう一度シュテファン様に夜のお部屋へ来ていただけるのかしら……。
初夜の失敗から数日が経過した。
歴代のフレースヴェイク公爵夫人が代々使用してきた、重厚で格式高い設えの自室。リリアナは、その部屋の片隅に置かれた等身大の大きな姿見の前に立ち、ひどく深刻な面持ちで鏡越しの自分を見つめていた。
脳裏に蘇るのは、数日前の夜の出来事だ。
激しく求められ、ついに結ばれるのだと覚悟を決めたあの瞬間。しかし、シュテファンはリリアナが誰にも触れられたことのない純潔の身であることに気づいた途端、ひどく痛ましげな顔をして部屋を出て行ってしまったのだ。
普通のご令嬢であれば『私を大切に思って踏み止まってくださったのね』と安堵する場面かもしれない。だが、思考回路がシュテファンへの狂信で構成されているリリアナの解釈は全く違った。
きっと、私の身体が公爵夫人としてあまりにも貧相で、魅力がなかったからだわ……!
あるいは、初めてのことに緊張しすぎて、木石のように強張っていた自分に愛想を尽かしたのに違いない。『抱く価値すらない』と、呆れ果ててしまったのだ。
リリアナは鏡に映る自分を、食い入るようにじっと見つめる。艶やかな茶色の髪も、それなりに整った容姿も、彼という絶対神の隣に立つにはあまりにも平凡に思えてならない。
「……やっぱり、大人の色気が全く足りないのね……」
ぽつりと零した声には、深い絶望が滲んでいた。思えば、『前回』の人生においても、二人が肌を重ねる営みは片手で数えるほどしかなかった。その数少ない営みの中で、シュテファンはいつもリリアナの身体を気遣い、まるで壊れ物を扱うように優しく、慎重に触れていた。
『前回』の人生では、その不器用な優しさに密かに幸せを感じていた。けれど、自らの『魅力不足』を確信してしまった今のリリアナにとっては、あの過去の記憶すらも致命的な不甲斐なさの証明へと変換されてしまう。
あれは優しさなんかじゃないわ。当時の私が、壊れそうなほど貧相で色気がなかったから……女性として魅力を感じるどころか、ただ可哀想に思って、気を遣って扱わざるを得なかっただけなのだわ!
なんという失態。なんという無様。
こんな色気のない身体のままでは、完璧な妻として抱かれ、そして美しく殺される日など永遠にやってこない。
「アニー!」
リリアナは、藁にもすがる思いで専属メイドを呼びつけた。
「はい、お嬢様……いえ、奥様!いかがなさいましたか?」
慌てた様子で部屋に駆け込んできたアニーに、リリアナは真剣そのものの眼差しを向ける。
「私、もっと大人の色気が欲しいわ。シュテファン様を夢中にさせるような、妖艶な公爵夫人に……!」
その悲壮なまでの決意を帯びた言葉に、アニーは目を真ん丸くして固まった。
「ええっ!?い、今のままでも十分お美しいですし、旦那様も奥様をとても大切になさっていると思いますが……」
「全然足りないわ!このままでは、私……いつまで経っても『お飾り』のままで終わってしまう!」
そして、永遠にシュテファン様の手で美しく見限られて殺していただけないわ!
声に出せない切実な思いを胸に秘め、リリアナは両手をぎゅっと握りしめて悲痛な叫びを上げた。そのあまりにも思い詰めた主人の姿に、アニーは何かを盛大に勘違いしたように、ほろりと涙ぐんだ。
「奥様……旦那様との初夜がうまくいかず、お一人で深く思い悩んでおられたのですね。わかりました、このアニーにすべてお任せください!」
アニーは、涙を拭いながら頼もしく胸を叩いた。
「最高級の香油と、旦那様の理性を吹き飛ばすような素晴らしい寝間着を手配いたします!」
その日の午後。
リリアナが『妖艶な妻』への特訓に励んでいると、コンコンと控えめなノックの音が響いた。アニーがどこからか仕入れてきた、怪しげな色仕掛けの指南書を真剣な顔で熟読していたリリアナは、慌てて本を隠し「どうぞ」と声を張る。
重厚な扉が開いて現れたのは、初老の執事長であった。そして彼の背後には、何人もの使用人たちが恭しく銀の盆を捧げ持ち、ずらりと整列している。
「リリアナ様。旦那様より、お贈り物が届いております」
「え……?シュテファン様から?」
予想外の言葉に、リリアナは目を丸くした。
執事長の合図とともに、次々と部屋に運び込まれていく品々。肌触りの良さそうな最高級の絹織物、目も眩むような美しい宝石の数々。さらには、滋養強壮に良いとされる希少な東方の茶葉の詰め合わせや、体を優しく包み込んでくれそうなふかふかのクッションまである。どれも一級品ばかりで、テーブルの上があっという間に宝の山と化した。
「旦那様は、『不甲斐ない自分を許してほしい。これからは君が心安らかに過ごせるよう、全力を尽くす』と仰っておりました」
執事長が恭しく頭を下げて伝えたその伝言を聞き、リリアナは雷に打たれたような衝撃を受けた。
不甲斐ない……?心安らかに過ごせるよう……?
リリアナの脳内で、凄まじいスピードで情報が独自の解釈へと変換されていく。
あああっ……!シュテファン様は、初夜での私の身体があまりにも貧弱で体力がないと見抜き、『まずはこの茶葉で滋養をつけ、クッションで体を休めて体力をつけなさい』と仰っているのね!その上で、ご自分が手を出さなかったのに『不甲斐ない』だなんて、ご自身を責めるような美しい言葉で私の未熟さを包み込んでくださるなんて……!
シュテファンとしては、初夜に嫉妬から無理やり襲いかかってしまったことへの深い謝罪と、今後は絶対に傷つけず、過保護なまでに溺愛するという決意からの贈り物であった。しかし、シュテファンを神格化しすぎているリリアナには、それが『夜の務めに耐えうる体力をつけろという厳しい試練と叱咤激励』にしか受け取れないのだ。
「……なんて慈悲深く、そして厳しいお方なのかしら!」
リリアナは感激のあまり震える手で、ふかふかのクッションをぎゅっと抱きしめた。神様からの試練。これほど誉れ高いことがあるだろうか。
「執事長!シュテファン様にこうお伝えしてちょうだい。『私、必ずや心身ともに逞しくなり、ご期待に添える立派な妻になってみせますわ!ですので決して見捨てないでくださいませ!』と!」
意気揚々と告げられたリリアナの返答に、執事長は「逞しく……?」とひどく困惑したように首を傾げた。公爵夫人に対して使うには、いささか不釣り合いな言葉だったからだ。しかし、主人の言葉を否定するわけにもいかず、彼は深く一礼して部屋を下がっていった。
扉が閉まった途端、リリアナは指南書を放り投げ、目を輝かせてアニーを振り返った。
「アニー!色気も必要だけど、まずは体力作りよ!妖艶な寝間着を着こなすためにも、明日から庭園を走るわ!」
「ええええ!?奥様、方向性が変わっておりますよ!?」
驚愕するアニーをよそに、リリアナはやる気に満ち溢れた表情で力強く拳を握りしめる。こうして、シュテファンからの『不器用で過保護な謝罪と溺愛』を『夜の営みに向けた体力作りへの指令』と完全に勘違いしたリリアナの、新たな斜め上の努力が幕を開けるのだった。
つづく




