第5話 歪な生活の始まり
『妻として、必ずや次はシュテファン様にご満足いただけるよう、全身全霊で精進いたしますわ!』
シュテファンは朝にリリアナが発した言葉を幾度となく反芻させていた。
私の気も知らないで、君は本当に酷い人だ。
意気込む彼女の首筋には、昨晩己の付けた独占欲が赤々と晒されていた。無垢な彼女には似つかわしくないその生々しい印を見ると、罪悪感とは裏腹に、仄暗く満たされた気分にもなる。執務室の重厚な椅子に深く背中を預け、シュテファンは長いため息を吐き出した。
昨晩の出来事が、脳裏にこびりついて離れない。恐怖に怯えるリリアナを無理やり押し倒し、理性を失った獣のように振る舞ってしまった己の浅ましさ。『前回』の初夜、彼女はシュテファンを待たずに寝てしまっていた。しかし当時の彼は、それに安堵すらしていたのだ。まだ愛情を抱いていなかった彼女に、欲など抱くことは無かったのだから。それが今や、この有様だった。彼女が他の男に触れられたかもしれないと想像しただけで怒りを露わにし、理性を失ってしまったのだ。
……そう。シュテファンもまた、リリアナと同様に死に戻りを経験し、この時間に生還していたのだ。『前回』とは違う行動を取ったリリアナに驚き、そしてまたしても嫉妬のあまり彼女に牙をむいてしまった。『前回』の人生の最期。シュテファンは嫉妬に狂い、よく手入れされた剣で愛するリリアナの背を突き刺した。血に染まり動かなくなった彼女を見て、シュテファンは絶望のあまり自らの胸にも刃を突き立てたのだ。
けれど、シュテファンは初めから狂っていたわけではなかった。リリアナを婚約者に選んだのも、都合が良かったからだ。周囲の人間が彼を『氷の貴公子』と恐れて避ける中、彼女だけが常に熱烈な瞳で見つめてくる、ただ一人の『信者』だった。彼女の学園での成績に問題はなく、寝る間も惜しんで努力する人間であることも知っていた。彼女ならば、自分の邪魔はしないだろうと思った。ただ、それだけだった。
婚約者となり結婚してからも、当初、シュテファンはリリアナを愛することはなかった。彼女が仕事中に紅茶を差し入れてくるのも面倒だと思っていたし、熱烈な瞳で重すぎる言葉を捧げられるのも煩わしかった。シュテファンがどんなに冷たく返答をしても、彼女はいつも優しく、熱に浮かされたような言葉を惜しまなかった。だが、共に過ごすうちに次第にシュテファンは彼女の存在を受け入れるようになっていた。乾いた土が水を受け、植物が光を浴びて成長するように、彼の好意は緩やかに、しかし確実に育まれていたのだ。
しかし、愛が深まるにつれ、シュテファンは強い違和感を覚えるようになっていった。リリアナは、自分を見ているようで、決して自分を見てはいない。彼女の瞳に映っているのは、ありのままのシュテファンではなく、自分を通した『何か』――手の届かない完璧な偶像でしかなかった。
私は君を深く愛してしまったのに、君は私を見ていない。
熱のある言葉を言いながらも、本当の自分を見てはいないのだ。そう考えると、胸にポッカリと穴の開いたような心地がした。その穴は日を追うごとにどんどん広がり、自分自身がひどく空虚であるような錯覚に襲われ続けた。
そして迎えた、あの日。リリアナは市街へ買い物へと出かけていた。仕事を早く切り上げ、自ら彼女を迎えに行ったシュテファンがそこで見たのは、彼女が『元婚約者』と楽しそうに会話をしながら歩いている姿だった。彼女が市街へ出かけるのは、決して珍しいことではなかった。
……まさか、これを口実に、ずっと逢瀬を重ねていたのか?
そう考えると、いてもたってもいられなかった。胸の奥の空虚な穴を、どす黒い嫉妬と絶望が埋め尽くした。そして彼は理性を失い、よく手入れされた剣を愛する彼女に突き刺してしまったのだ。
しかし、昨晩の営みは、シュテファンのその『確信』を見事に打ち砕いた。彼女は誰にも触れられてなどいなかった。あの元婚約者と、深い仲に陥ってなどいなかったのだ。
私は、何という取り返しのつかない罪を犯してしまったんだ……!
彼女は裏切ってなどいなかった。己の勝手な嫉妬と空虚さから、ただ己の務めを果たそうと健気に尽くしてくれていた彼女を、あんなにも惨たらしく殺してしまったのだ。激しい自己嫌悪と罪悪感に苛まれるシュテファンの耳に、今朝の彼女の言葉が再び蘇る。
『ですから、どうか私を見捨てず、いつか……いつか必ず、また夜のお務めのお声がけをくださいませ!』
あんな恐ろしい思いをさせたというのに、彼女は自分を拒絶するどころか、さらに身を捧げようとしている。その健気すぎる姿勢が、シュテファンの心をズタズタに抉り、同時にどうしようもないほどの愛おしさと執着を掻き立てる。シュテファンは震える両手で顔を覆い、誰にも聞こえない声で、ただ一人深く呻き声を上げるのだった。
もう、嫉妬に狂って君の命を奪うことは絶対にしない。君の献身に私も全力で応えよう。
こうして、絶対に殺されたい女と絶対に殺さない男の歪な生活が始まったのだった。
つづく




