第4話 すれ違い
R-15付けました。ぬるいですが……
至福のディナータイムを終え、リリアナは自室へと戻った。次期公爵夫人として引っ越しを済ませ、これから初夜を迎える。
リリアナは専属メイドのアニーの手を借りてゆったりと湯浴みを済ませていた。湯上がりでほんのりと火照った肌を包むのは、繊細なレースがあしらわれた透けるような薄絹の青いネグリジェだ。初夜を迎えるにあたり、アニーが並々ならぬ気合いで用意したそれは、リリアナの滑らかな白い肌をいやらしくない程度に艶やかに引き立てている。
寝室の明かりを少し落とし、ふかふかのベッドに腰掛けたリリアナは、胸の前で両手を組みながらふと『前回』の記憶を辿った。『前回』、二人が肌を重ねる営みは、片手で数えるほどしかなかった。それは決して互いの愛を甘く確かめ合うようなものではなく、あくまで公爵家の跡継ぎである『子を成すための義務的な営み』でしかなかったのだと、リリアナは理解している。
けれど――たとえそれがただの義務であったとしても、リリアナにとってその時間は、恥ずかしくもこの上なく幸せなひとときであった。無表情で、相変わらず言葉数の少ない彼であったが、リリアナに触れるその大きな手はひどく優しかったのだ。一切の乱暴な振る舞いはなく、彼女の小さな身体を気遣い、壊れ物を扱うように大切にしてくれていることが、彼の指先からはっきりと伝わってきていた。
ああ……。前回は酔い潰れてしまっていたせいで、初夜を台無しにしてしまったわね。今日は絶対に、一瞬たりとも気を失ったりしないわ……!
シーツを握りしめる手に力がこもる。これからあの気高く美しい神様がこの部屋にやってきて、自分に触れてくださるのだ。そう想像しただけで鼓動が早鐘を打ち、期待と緊張で指先が微かに震えた。
その時だった。
ガチャリ、と重厚なドアがゆっくりと音を立てて開かれた。微かに開いた扉の隙間から廊下の仄暗い灯りが差し込み、長身の影が部屋の中へと滑り込んでくる。
入って来たのは――気高く美しい、婚約者のシュテファンだった。
普段の隙のない姿とは少し違う、就寝前特有のリラックスした出で立ち。彫刻のように美しい隆起した筋肉が室内着の胸元から覗く。普段見られない、色気が増した彼のあまりの美しさにリリアナが内心で悲鳴を上げていると、シュテファンの切れ長の目が僅かに見開かれた。
「起きていたのか」
シュテファンはリリアナが眠っていると思っていたようだ。二度と同じ失敗は繰り返さないとばかりに、リリアナは気合十分に背筋を伸ばして宣言する。
「は、はい! シュテファン様の後継者をこの身に宿すことも、妻としての重要な責務ですから!」
シュテファンはゆっくりと歩み寄り、リリアナの隣に腰を下ろした。ギシ、と彼の重みでベッドが微かに悲鳴を上げる。
「……君は、その意味を理解しているのか?」
至近距離から見下ろす彼の声は、どこか探るような、低く静かなものだった。
「も……勿論ですわ!」
力強く頷いたものの、リリアナの脳裏には前世で彼と肌を重ねた記憶――不器用ながらも優しかった彼の指先や、微かな熱――がふいに蘇り、声が不自然に上擦ってしまった。その反応に、シュテファンの端正な眉間に深い皺が刻まれる。
「……君は、既に経験を?」
「……ち、違いますわ!」
行為自体は『前回』の人生で体験済みであったが、『今』のリリアナは間違いなく純白の処女である。だから、決して嘘は言っていない。しかし、頭の中で前世の彼との記憶を巡らせ、返答に一瞬迷ってしまったそのわずかな間は、目の前の彼に致命的な勘違いをさせるには十分すぎる時間であった。
「君の唇を奪った男がいるのか」
「え……?」
リリアナが言葉の意味を理解する間もなく、シュテファンの大きな手が伸び、彼女の顎を強引に――けれど決して痛まない絶妙な力加減で――掴み上げた。彼の親指が、リリアナの震える唇をなぞるように這う。そして次の瞬間、視界が彼の影で覆われ、自らの唇に彼の薄い唇が荒々しく重ねられた。
「っん?! んんんっ……!」
『前回』の義務的で優しかった口付けとは全く違う、ひどく熱を帯びた、貪るような深いキスだった。息をする隙すら与えられず、逃げようとする後頭部をもう片方の手でがっちりと固定される。甘い痺れよりも先に、予想外の荒々しさにリリアナの頭の中は真っ白になった。
え、あ、あれ……っ!? しゅ、シュテファン様……!?
驚きのあまり目を丸くし、リリアナは息も絶え絶えに彼の胸元をきゅっと掴んだ。『前回』の彼は、もっとずっと優しかった。触れる手つきも、口付けも、まるで壊れ物を扱うように慎重で、義務的でありながらも穏やかな時間だったはずだ。それなのに、今の彼はひどく余裕がなく、まるで何かを無理やり暴き出そうとするような激しさだ。一体どうしてしまったのか。あまりの違いに、リリアナは激しく動揺し、戸惑うことしかできない。
「……っ」
しかし、その戸惑いと微かな抵抗が、シュテファンの中では『他の男を想って躊躇っている』というさらなる誤解を生んだ。
「……誰に触れられた過去があろうと構わない。君の全てを、私で上書きする」
唇を離し、荒い息を吐きながらシュテファンが低く唸るように囁く。その声には怒りが滲んでいた。彼の言葉の意味など全く理解できないリリアナは、ただただ目の前の彼の豹変ぶりに目を瞬かせ、肩で息をしていた。
何をおっしゃっているのかわからない……。けれど、このひどく熱っぽく、切羽詰まったような瞳で見つめられると、逆らうことなんてできないわ……!
前回の優しさとは違う、圧倒されるような強い感情をぶつけられ、リリアナは戸惑いながらも小さく頷くことしかできなかった。
「は、はいっ……!私の全ては、シュテファン様のものですわ……!」
震える声で紡がれた言葉に、シュテファンは痛ましげに小さく息を呑んだ。彼はもう一度深く、今度は溶かすような口付けを落としながら、戸惑うリリアナの華奢な体をゆっくりとシーツの上へと押し倒していく。シーツに沈み込む背中。上から覆い被さってくる彼の体温は、前世の記憶にあるものよりもずっと熱く、重かった。
「ひっ……、あ……っ」
首筋に顔を埋められ、チクリとした鋭い痛みが走る。前世では決してつけられることのなかった、独占欲を刻みつけるような赤い痕。
どうしてこんなに激しいの……? 前はもっと、事務的で……でも壊れ物を扱うように優しかったのに……っ!
戸惑いで頭がぐらぐらと揺れる。しかし、リリアナにとって彼の行動はすべて絶対だ。彼が激しく求めるのなら、次期公爵夫人として、そして彼を崇拝する信徒として、すべてを受け入れるのみである。ぎゅっと目を閉じ、シーツを握りしめて痛みに耐えようとした、その時だった。下着の下に手を滑らせたシュテファンの動きがピタリと止まった。
「……」
シュテファン様……?
恐る恐る薄目を開けると、至近距離にある青い瞳が、微かに見開かれていた。指先に伝わる、ピタリと閉じた割れ目。そして生娘のように戸惑うリリアナの姿。彼女が誰にも触れられていないのは明らかだった。彼女の初めてを奪った男など、存在しなかったのだ。
自らの見当違いな暴走に気づいたシュテファンは、ハッと我に返ったように息を呑んだ。そして、怯えたように身を強張らせているリリアナを見て、ひどく後悔に満ちた、痛ましげな表情を浮かべた。
「……すまない。怖がらせた」
耳元に落ちた声は、先ほどの怒気を孕んだものとは別人のように、掠れて震えていた。シュテファンは上体を起こし、リリアナから距離を取った。
「私は、執務室で寝る。眠ってしまって構わない」
シュテファンは短くそう告げると、足早に部屋を去ってしまった。
シュテファン様に、触っていただくことが出来なかった……。
リリアナはショックと悲しみのあまり、瞳から涙が零れ落ちた。そして、激しい口付けと首筋への僅かな痛みにより熱を帯びた身体を抱きしめて、眠るしかなかった。
翌朝。窓から差し込む柔らかな朝陽で目を覚ましたリリアナは、ひんやりと冷たいままの隣のスペースにそっと触れ、小さく息を吐いた。鏡台の前に座ると、泣き腫らした赤い目と、首筋に残る彼がつけてくれた赤い痕だけが、昨夜の熱を帯びた出来事が夢ではなかったと証明している。
ああ……。シュテファン様をひどく失望させてしまったわ……。昨夜、彼はリリアナの下着に手を滑らせた直後、ピタリと動きを止め、ひどく痛ましげな顔をして部屋を出て行ってしまった。普通なら「私が生娘だったから手を出さなかったのかしら」と思い至るところだが、リリアナの脳内では凄まじいスピードで『都合の良い解釈』が構築されていく。
き、きっと……私の身体が、公爵夫人としてあまりにも貧相で魅力がなかったからだわ!あるいは、初夜だというのに私が緊張しすぎて、木石のように強張っていたから……『抱く価値もない』と呆れられてしまったのね!
なんという失態だろう。前回の人生では酔い潰れて寝落ちし、今回は身体の魅力のなさで彼を幻滅させてしまうなんて。こんな至らない妻では、彼が自らの手を下して美しく処刑してくれる日すら遠のいてしまうかもしれない。
「……泣いている暇なんてないわ! 万全の準備をして、次こそはシュテファン様に『抱く価値がある』と認めていただかなくては!」
リリアナは両頬をパンッと叩いて気合いを入れると、アニーを呼び、朝の支度を完璧に整えさせた。
ダイニングルームに向かうと、長大なテーブルの向こう側には、すでにシュテファンが座っていた。彼の目の下には、うっすらと疲労の影が落ちている。徹夜で執務室の硬いソファで過ごしたのだろう。
あああっ!私が至らないせいで、シュテファン様からふかふかのベッドでの安眠を奪ってしまっただなんて……!万死に値するわ!
リリアナは青ざめながら、深く、完璧な角度でカーテシーをした。
「おはようございます、シュテファン様。昨夜は……その、私の不徳の致すところで、誠に申し訳ございませんでしたわ」
その瞬間、シュテファンの肩がビクッと震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、ひどく痛みを堪えるような、後悔に満ちた瞳でリリアナを見つめる。
「……気にするな。君が謝ることではない」
絞り出すようにそう告げる彼の声は、どこまでも重く、沈んでいた。しかし、リリアナの耳にはそれが『お前の未熟さなど気にする価値もない』という冷酷な宣言に聞こえてしまう。
ああ、なんてお優しい……!ではなくて、なんて見事な見切り方なの!これ以上失望されないようにしなくちゃ!
リリアナは胸の前で両手をギュッと握りしめ、熱を帯びた瞳で彼を見つめ返した。
「いいえ! 妻として、必ずや次はシュテファン様にご満足いただけるよう、全身全霊で精進いたしますわ!」
「……っ!?」
その真っ直ぐすぎる言葉に、シュテファンは手にしたコーヒーカップを取り落としそうになった。
「ご満足、いただけるよう……?」
「はい! ですから、どうか私を見捨てず、いつか……いつか必ず、また夜のお務めのお声がけをくださいませ!」
――いつか完璧な妻として抱かれ、そして美しく処刑されるその日まで!
そう固く決意したリリアナの言葉。シュテファンからしてみれば「あんなに恐ろしい思いをさせたのに、公爵夫人としての『義務』を果たすために、まだ自分を受け入れようと無理をしてくれている」という、健気で残酷な宣言にしか聞こえなかった。シュテファンはギリッと奥歯を噛み締め、絶望的な顔でスッと目を伏せた。
「……君は、本当に……」
それ以上言葉を続けることができず、シュテファンは深く、長く息を吐いた。
苦悩に満ちた、伏し目になられたお顔もとても美しいわ! 次こそは絶対に、あのお顔を間近で拝めるように頑張らなくちゃ!
こうして、初夜をすっぽかされた悲しみを『己の魅力不足』に変換して斜め上の努力を決意したリリアナと、彼女の言葉に自己嫌悪を深めてさらに深い沼へと沈んでいくシュテファンの、絶望的にすれ違った朝が始まった。
つづく




