表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追っかけ令嬢は死に戻っても殺されたい  作者: 柊原 ゆず


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

第3話 新たな生活の始まり


 すっかり遠ざかってしまった馬車を見送った後も、リリアナは両手で自らの火照った頬を包み込み、その場に立ち尽くしていた。

 ああ……。まだ手の甲に、シュテファン様の唇の感触が残っているわ……。

 キスの余韻が、甘い痺れとなって全身を駆け巡っていく。数日後には、あの気高く美しい彼の領域――フレースヴェイク公爵家での生活が始まるのだ。彼と同じ屋根の下で眠りにつき、同じ空気を吸い、彼のために用意された食事を共にする。これから始まる夢のような日々へと思いを馳せると、胸が期待で張り裂けそうだった。ふらふらと夢見心地のまま自室へと戻り、ふかふかのベッドに身を沈めたリリアナは、天井の天蓋を見つめながら、ふと『前の人生』の最期について思考を巡らせた。

 ――それにしても。なぜ、あの方は私を殺してくださったのかしら。

 背中を貫いた鋭い痛み。ドクドクと流れ出る自らの血の熱さ。そして、命の灯火が消えゆく間際に見た、氷のように冷たい彼の眼差し。薄れゆく記憶の中で、彼が最後に紡いだ言葉を思い出す。


『……きみは……どうして……』


 ……きっと、「どうしてきみは、公爵夫人としてこれほどまでに無能なんだ」と、呆れていらっしゃったのね……。

 リリアナは、申し訳なさそうに目を伏せた。シュテファン・フレースヴェイクという男は己に厳しく、そして部下にも非常に厳しいことで有名だ。仕事において一切の妥協を許さず、無能な者は冷徹に切り捨てる。だからこそ、妻である彼女にも当然、公爵夫人としての高い水準を求めていたのだろう。前世の彼女は必死に努力したつもりだったが、神のように完璧な彼のレベルには全く達していなかったのだ。

 ああ……。私は至らない妻として見限られ、あの美しい手で処罰されてしまったのね!

 普通であれば、夫に殺されたとなれば恐怖と憎悪の対象でしかない。しかし、リリアナにとってそれは『愛する彼から下された、極上のご褒美』であり、『至高の終焉』に他ならなかった。無能な妻を他人に処分させるのではなく、わざわざあのように美しいご自身の手を汚してくださったのだ。これ以上の幸福があるだろうか。

 もう一度……もう一度、あの方に殺されたいわ!

 リリアナはベッドの上でガバッと上体を起こし、力強く両手を握りしめた。その緑色の瞳には、ギラギラとしたやる気と情熱が満ち溢れている。彼女の目的はあくまで『もう一度、彼から与えられた最高に美しい幕引きを迎えること』だ。

 前回と同じように過ごしていれば、いつかは私の至らなさが露呈して、あの方に見限られる日が来るはず。その時、もう一度あの冷たい瞳で見下ろされながら、この命を刈り取っていただくのよ!

 それまでの間、自分は精一杯彼に尽くし、公爵夫人として『いつものように』生きるだけだ。そうすれば必ず、彼の手にかかって死ぬことができる。

『至らない妻として立派に見限られ、最高に美しく処刑される』という見当違いにもほどがある決意を胸に固め、リリアナは数日後に控えた公爵家への輿入れに向けて、猛烈に気合いを入れ直すのだった。






 数日後。

 リリアナはついに、フレースヴェイク公爵家の敷地へと足を踏み入れた。馬車から降り立つと、そこには威風堂々とした石造りの豪奢な屋敷がそびえ立っていた。無駄な装飾を削ぎ落とした、洗練された美しさを持つその佇まいは、まさに主であるシュテファンそのものを体現しているかのようだ。

 ああ……空気が美味しいわ。敷地内の空気すべてが、シュテファン様の肺を通ったものだと思えば、呼吸をするだけで胸がいっぱいになるわね!

 リリアナが肺の奥底まで公爵家の空気を吸い込み、一人でうっとりと打ち震えていると、屋敷の大きな扉が開いた。出迎えてくれたのは、隙なく整列した大勢の使用人たちと初老の執事長だった。


「よくぞお越しくださいました、リリアナ様。旦那様がお待ちです」


 執事長の恭しい案内に従い、磨き上げられた大理石のエントランスへと足を踏み入れる。すると、正面の豪奢な大階段の上から、コツ、コツと規則正しい革靴の音が響いてきた。リリアナは息を呑んで顔を上げる。

 そこに立っていたのは、艶やかな黒髪をすっきりと立ち上げた、見目麗しい婚約者――シュテファンだった。深い青色の瞳が、階段の上から静かにリリアナを見下ろしている。まるで冷ややかな彫像のような、一切の感情を排した美しい顔立ち。

 ……っ! ああ、今日もなんて気高く、恐ろしいほどお美しいの……!

 リリアナは高鳴る心臓を押さえつけながら、優雅にドレスの裾をつまみ、完璧な角度で淑女のカーテシーを披露した。


「シュテファン様。本日からよろしくお願いいたしますわ」

「……ああ。長旅で疲れただろう。部屋に案内させる」


 ただ業務連絡のような簡潔すぎる一言だけを落とし、シュテファンは静かに階段を降りてきた。

 長旅と言っても、マリュス伯爵邸から公爵邸までは馬車で数時間程度の距離である。それにもかかわらず労いの言葉を口にするのは、彼なりの配慮なのだろう。気の利いた歓迎の言葉も、愛の囁きもない。しかし、リリアナにとっては、その言葉の少なさこそが『至高』なのだ。

 ああ……っ! なんてストイックで、無駄のないお気遣いなのかしら! ご多忙な次期当主様であるにもかかわらず、わざわざ私なんかのために玄関まで足を運んでくださるなんて……!

 リリアナの脳内フィルターを通せば、ただの無愛想な挨拶も、神からの慈悲深い福音へと変換される。シュテファンがリリアナの目の前まで歩み寄る。冷たい空気に溶ける高貴な香木のような、澄み切った香りがふわりと鼻腔をくすぐった。


「……荷解きが終わったら、少し休むといい。夜は、共に食事を」


 シュテファンはリリアナの緑色の瞳をじっと見つめたまま、低く平坦な声でそう告げた。その言葉に、リリアナはパッと顔を輝かせる。


「ご一緒によろしいのですか?……光栄の極みですわ。夜までには必ず、次期公爵夫人として恥ずかしくないよう身支度を整えてまいります」


 いつか見限られて殺されるその日までは、精一杯完璧な妻を目指し彼に尽くしたい。リリアナは張り切ってそう宣言し、春の花が咲くような愛らしい微笑みを向けた。

 ――あなたの隣に立つための『務め』を、完璧にこなしてみせます。

 そんな意気込みを込めたリリアナの言葉を聞いた途端、シュテファンの長い睫毛が微かに揺れ、その美しい顔にほんの一瞬だけ、苦しげな影が差したように見えた。

 ……え?今、シュテファン様の眉がピクリと動いたような……?

 不思議に思って瞬きをした時には、彼の表情はすでに元の『氷の貴公子』へと戻っていた。シュテファンはスッと目を伏せると、何も言わずに静かに背を向け、自らの執務室へと歩き去っていく。その後ろ姿は、どこか酷く冷え切っているように見えた。

 ……なるほど。すでに私の立ち振る舞いを審査していらっしゃるのね! 張り切る私を見て、『少し空回りしているな』と呆れられたのかもしれないわ。ああ、なんて厳しいお方……素敵!

 彼の背中が見えなくなるまで恭しく頭を下げながら、リリアナは熱い吐息を漏らす。こうして、前世と同じく『いつか彼の手で殺される日』を夢見ながら完璧な妻を目指すリリアナの、二度目の公爵家での生活が幕を開けたのだった。






 シュテファンが執務室へと姿を消した後、リリアナは執事長の案内に従って屋敷の奥へと進んでいった。


「こちらが、リリアナ様の私室でございます」


 重厚な扉が開かれ、リリアナは通された部屋へと足を踏み入れた。南向きの大きな窓から柔らかな光が差し込むその部屋は、歴代のフレースヴェイク公爵夫人が使用してきた、最も格式高い『夫人室』だ。婚約期間中からこの部屋を与えられるのは異例のことだが、それもまた、フレースヴェイク公爵家からマリュス伯爵家への『末永い結びつきを望む』という強い意思表示の表れなのだろう。


「ありがとうございます。とても素晴らしいお部屋ですわね」


 リリアナは執事長に向けて完璧な淑女の笑みを浮かべたが、内心では胸が締め付けられるほどの感情が渦巻いていた。豪奢な調度品の配置も、上質な絨毯の感触も、窓から見える手入れの行き届いた庭園の景色も、リリアナにとっては全てが『深く知っているもの』だった。

 ああ……懐かしいわ……。

 執事長が一礼して退室すると、リリアナは一人、部屋の中央でぐるりと見回し、深く目を細めた。死ぬ前に、公爵夫人としての幸せな日々を過ごしたこの部屋。美しい彼が歩いた廊下。彼の愛読する本が並ぶ図書室。彼が静かに紅茶を嗜んでいた庭園。その全てを、自分はもう一度味わうことができるのだ。

 またここで、シュテファン様と同じ空気を吸って、思い出を重ねることができるのね……!

 その事実を噛み締めるだけで、歓喜のあまり震えが止まらなくなりそうだった。リリアナは自らの腕を抱きしめ、うっとりと熱い吐息を漏らす。


「そうと決まれば、休んでいる暇なんてないわ!」


 シュテファンに『至らない妻』として見限られ、最高に美しく処刑されるその日まで、彼に完璧な妻の姿を披露し続けなければならない。リリアナはすぐさま専属メイドのアニーを呼び寄せると、今夜の食事会に向けて、公爵夫人として恥ずかしくない完璧な身支度を整えるよう指示を出した。

 ――そして、夜。

 豪奢なシャンデリアが照らし出すダイニングルーム。長大なテーブルの端と端。そこには、上質な室内着へと着替えたシュテファンが、静かに座っていた。


「お待たせいたしました、シュテファン様」


 リリアナが優雅な足取りでダイニングルームへと足を踏み入れると、シュテファンはゆっくりと顔を上げた。今夜のリリアナが身に纏っているのは、彼の瞳の色を思わせる、深く落ち着いたブルーのドレスだ。派手すぎず、しかし次期公爵夫人としての品格に満ちた装いである。シュテファンはリリアナの姿を一瞥すると、無言のまま短く顎を引き、席に着くよう促した。


「感謝いたしますわ」


 リリアナは恭しく礼をすると、彼から遥か遠く離れた、テーブルの反対側の席へと着いた。

 ああ……今日もなんて美しいお姿。遠く離れていても、その神々しさは全く損なわれないわ……!

 これから始まる、愛しい人との至高のディナータイム。リリアナは熱っぽい視線を彼へと向けながら、静かに食前酒のグラスを手に取るのだった。食前酒のグラスを静かに見つめながら、リリアナはふと『前回』の記憶を思い返していた 。

 思えば……この食前酒が、私の大失敗の始まりだったのよね 。

 この日 。敬愛するシュテファンと初めて食卓を囲むという緊張と、同じ屋根の下にいるという高揚感から、リリアナはあろうことか食前酒を一気に喉に流し込んでしまったのだ 。口当たりの良い、アルコール度数の低い食前酒ではあったものの、元々お酒に弱い体質であった彼女は、瞬く間に嘔気とめまいに襲われた 。どうにか倒れることだけは避けたものの、食事中の会話の記憶はほとんどない 。

 そして、あろうことか食後に彼と床を共にするはずだったにもかかわらず、酔いと疲労のあまり、シュテファンが部屋へ来るのを待たず深い眠りに落ちてしまったのだ 。

 次期公爵夫人として、これ以上ないほどの失態だわ……っ!

 思い出すだけで顔から火が出そうになる 。今回は絶対にあのような無礼を働きたくない 。けれど、彼女の目的は『前回と同じように見限られて、美しく殺されること』だ 。前回と同じ行動をとらなければ、あの至高のエンディングに辿り着けなくなってしまうのではないか……?

 でも、シュテファン様をお待たせしたまま寝落ちするだなんて、シュテファン様に対する冒涜にもほどがあるわ! どうしよう、飲むべきか、飲まざるべきか……

 グラスを見つめたまま深刻な顔で葛藤していると、不意に、静寂を破る低い声が鼓膜を揺らした 。


「……口に合わないか 」


 ハッと顔を上げると、長大なテーブルの向こう側で、シュテファンが微かに眉を寄せてこちらを見ていた 。彼からすれば、出された食事に一切手をつけず、青ざめた顔でグラスを睨みつけているように見えたのだろう 。


「め、滅相もございませんわ! 」


 慌てて首を横に振り、リリアナは目の前に並べられた料理へと視線を落とした 。そして、息を呑む 。色鮮やかな前菜、丁寧に裏ごしされたポタージュ、極めつけにメインの肉料理 。そこにあるのは、どれもこれもリリアナの『大好物』ばかりだったのだ 。

 ……あれ? 私、自分の好物をシュテファン様にお教えしたことなんてあったかしら……?

 前回の人生では酔いで目を回していたため、全く気付くことができなかった事実 。政略結婚の相手であり、これまでまともに言葉を交わしたこともない自分の好みを、彼が知っているはずがない 。だというのに、見事なまでに彼女の好きなものだけで構成された完璧なメニューが並んでいる 。

 まさか……ご多忙な次期当主であるシュテファン様が、私のためにわざわざマリュス伯爵家まで好みを調査してくださったというの……!?

 その事実に行き当たった瞬間、リリアナは恐れ多さに身震いした 。

 ああ、なんて烏滸がましい! 神にも等しいあの方の、あの美しく完璧な頭脳のほんの片隅に、私の好みなどという下らない情報を置かせてしまっただなんて……っ! 申し訳なさで死んでしまいそう!

 本来であれば、夫の細やかな気遣いにときめく場面である 。しかし、シュテファンを絶対神として崇めるリリアナにとっては、神の思考リソースを無駄遣いさせてしまったという罪悪感に変換されてしまうのだ 。


「……食べられないのなら、無理はしなくていい 」


 リリアナがわなわなと震え始めたのを見て、シュテファンが再び声を落とす 。その声色は相変わらず平坦だが、どこか痛みを堪えるような響きが混じっていた 。


「いいえ!とんでもないことでございます!」


 リリアナは弾かれたように姿勢を正すと、カトラリーを手に取った 。前回と同じ失敗(泥酔)を繰り返して彼との初夜を台無しにするわけにはいかない 。そして何より、彼が用意してくれたこの尊い料理を残すなどという大罪は犯せない 。


「シュテファン様が私めのためにご用意してくださったなんて……。胸がいっぱいで、もったいないほどですわ。心からの感謝と共に、頂戴いたしますね 」


 リリアナは食前酒にはほんの少し口をつけるだけに留め、きらきらと熱を帯びた瞳で料理を口に運び始めた 。絶品の料理を味わいながら、「美味しい」という幸福感と、「こんな贅沢をして本当にいつか殺していただけるのかしら」という一抹の不安を抱えつつも、リリアナは結局、二度目の人生における初めてのディナーを心ゆくまで楽しんでしまうのだった 。

 一方のシュテファンは、嬉しそうに料理を食べるリリアナの姿を遠くから見つめながら、手元のグラスを静かに傾ける。美しい唇からが、安堵とも切なさともつかない微かな吐息を零していた 。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ