第2話 卒業パーティー
結局、馬車の中ではほとんど言葉を交わすことなく、二人は王立魔法学校の卒業パーティーの会場へと到着した。シュテファンのエスコートのもと、連れ立って華やかなホールへと足を踏み入れた瞬間――さざ波のように、周囲の空気が大きくざわめいた。
人々の視線を釘付けにしたのは、二人のあまりにも完璧で、そして『美しく呼応する』装いだった。リリアナの身を包むのは、シュテファンの深い青色の瞳を思わせるアクセントがあしらわれたエレガントなドレス。
対するシュテファンの装いは、彼の冷たく整った容貌を引き立てる漆黒の夜会服であったが、その胸元には、リリアナの瞳の色と全く同じ、鮮やかな翠緑色のシルクのクラヴァットが上品に結ばれていた。さらに襟元には緑色の宝石があしらわれたピンブローチが輝き、袖口のカフスボタンに至るまで、見事なまでに彼女を思わせる色で統一されていたのだ。当人たちは一切会話をしていないというのに、互いの色を身に纏い合うその姿は、冷え切った政略結婚という噂を覆すほどの強烈な結びつきを周囲に錯覚させた。
二人が歩みを進めると、あっという間に人々の輪が形成される。公爵家の次期当主であるシュテファンの周りには有力な貴族たちが、そしてリリアナの周りには着飾った令嬢たちが群がってきた。
「ご卒業おめでとうございます、リリアナ様。それにしても……」
扇の陰からチラリとシュテファンの方へ視線をやりながら、一人の令嬢が芝居がかった声で囁いてくる。
「氷の貴公子と呼ばれるフレースヴェイク公爵子息様とのご結婚なんて、息が詰まってしまわないかしら?」
「ええ、本当に。あのように無口で冷たいお方と生涯を共にするだなんて、リリアナ様が心配で……」
同調する令嬢たちだが、彼女たちの瞳の奥に純粋な心配の色など微塵もない。未来の公爵夫人であるリリアナに取り入って強固な繋がりを得たい、あるいはあわよくば公爵家やリリアナの弱みを握って優位に立ちたい――そんな利己的で腹黒い理由が大半であることは、火を見るよりも明らかだった。リリアナは努めて平静を装い、鏡の前で血の滲むような努力をして身につけた『完璧な淑女の笑み』をふわりと浮かべた。
「お気遣い感謝いたしますわ。ですが、息が詰まるなんて、有り得ません。私は己の務めを果たすだけですわ」
毅然とした態度でそう言い切ると、令嬢たちは「まあ、なんて健気な……」と口々に言いながらも、それ以上踏み込んでくることはできなかった。
淑女の仮面の下で、リリアナは内心うんざりしながら深いため息をついた。死に戻る前の『一度目の人生』を含めれば、このやり取りも一体何度目だろうか。社交の場に出るたびに行われる、本心を隠した探り合いの会話。そもそも息が詰まるどころか、尊すぎる神様と同じ空気を吸えるだけで過呼吸になりそうなほど興奮しているというのに、彼女たちには到底理解できないだろう。
無意味な会話を早く終わらせて、ただひたすらに愛しいシュテファン様のお姿を網膜に焼き付けたい――リリアナは扇で口元を隠しながら、令嬢たちの肩越しに、遠くで貴族たちに囲まれている黒髪の婚約者を熱っぽい視線で見つめるのだった。
ホールの中央で有力貴族たちに囲まれているシュテファンは、そこでも完璧な『氷の貴公子』であった。
「ご卒業おめでとうございます、フレースヴェイク公爵令息様。つきましては、我が領地の事業にもぜひ……」
「感謝する。その件については後日、父を通して正式な場を設けよう」
群がってくる欲深い貴族たちの世辞や探りに対し、シュテファンは表情一つ変えることなく、短く、かつ冷徹に処理していく。無駄のない所作と威圧感すら伴う美貌の前に、貴族たちはそれ以上踏み込むことができず、次々と彼に道を譲っていった。
そんな風に周囲を圧倒しながらも、シュテファンは時折、静かな青い瞳をこちらへ向けてくる。
ああ……。シュテファン様は、私が婚約者に相応しいか値踏みしているに違いないわ。
彼と目が合うたび、リリアナは背筋を伸ばした。公爵家の次期当主として、一切の隙を持たない彼のことだ。自分の妻となる女が、この華やかな社交の場でどう振る舞うのかを厳しく見定めているのだろう。そう解釈したリリアナは、先ほどの令嬢たちに向けたような計算された作り物の笑顔ではなく、春の花が咲き誇るような、優しく愛らしい微笑みをふわりと浮かべた。その瞳はいつだって熱を帯び、彼を真っ直ぐに、甘く見つめている。
あなたのお眼鏡にかなうよう、私は完璧に務めを果たしてみせます――そんな強烈な敬愛と信仰心を込めて、熱っぽい視線を送る。
けれど、シュテファンはそんな彼女と視線が絡むと、スッと静かに目を伏せた。そして無表情のまま、手元のグラスを小さく傾けるのだった。
……ふいと視線を外されるお姿すら、なんて気高く美しいのかしら。もっと彼に相応しい完璧な淑女にならなければ!
グラスを傾ける冷たい横顔を眺めながら、リリアナは一人、密かに決意を新たにするのだった。
やがて、豪奢なシャンデリアの下に優雅なワルツの調べが流れ始めた。卒業パーティーにおける花形、ファーストダンスの時間だ。自然と人々の波が割れ、一本の道ができる。その向こうから、漆黒の夜会服に身を包んだシュテファンが、迷いのない足取りで真っ直ぐにリリアナの元へと歩み寄ってきた。周囲の令嬢たちが息を呑んで道を開ける中、彼はリリアナの目の前で立ち止まると、スッと右手を差し出した。
「……踊るぞ」
ああ、なんて簡潔で美しい響きなのかしら!
相変わらず無駄のない言葉に、リリアナは歓喜で胸を震わせながらその手を取った。そのままフロアの中央へと導かれ、シュテファンの大きな手がリリアナの腰に添えられる。音楽に合わせて、二人の体が滑り出した。至近距離で見る彼の顔は、彫刻のように美しく一切の隙がない。腰を抱く彼の手から伝わる微かな熱に、リリアナの脳裏には『前の人生』の最期――冷たい眼差しで見下ろされながら、この美しい人に命を絶たれたあの瞬間が鮮明に蘇る。
この大きくて綺麗な手が、私の命を刈り取ってくれたのね……。ああ、なんて素晴らしいの……っ!
その事実を噛み締めるだけで背筋がゾクゾクと粟立ち、頬が熱く上気していく。リリアナはうっとりとした、熱を帯びた瞳で彼を見つめ上げた。
「……無理をしていないか」
ステップを踏みながら、不意にシュテファンが低い声を落とした。彼が少しだけ眉を寄せ、こちらを見下ろしている。
……っ! 私が公爵家の婚約者として、無理をして笑っていないか試していらっしゃるのね!
リリアナは花が綻ぶような極上の笑みを浮かべた。
「滅相もございませんわ。シュテファン様にエスコートしていただき、こうして踊れるなど……私にとって、これ以上の幸せは存在いたしません。本当に、夢のようですわ」
「……そうか」
そう告げると、シュテファンは短く応え、スッと視線を逸らした。
ああ、伏し目になられたお顔もなんて美しいのかしら。
リリアナは一層彼への信仰心を深め、ただひたすらに幸せに浸りきっていた。
優雅なワルツの調べが終わり、フロアに万雷の拍手が響き渡る。二人がフロアの端へと戻り、少しばかりの休息を取ろうとしたその時だった。
「リリアナ嬢。……いや、今はフレースヴェイク公爵夫人と呼ぶべきかな?」
少しくだけた声色で話しかけてきたのは、燃えるような赤髪を持つ青年――セドリックだった。彼はリリアナの幼馴染であり、公爵家からこの政略結婚の話が持ち上がるまで、形式上リリアナの『婚約者』だった男である。
「セドリック様。お久しぶりですわ。今日は卒業の良き日、どうか今まで通りお気兼ねなくお呼びくださいな」
リリアナは、貴族の令嬢として完璧な、親しげで柔らかな微笑みを浮かべた。かつての婚約者とはいえ、リリアナにとってセドリックは「手のかかる弟」のような存在でしかない。今、セドリックと親しげに会話を交わしながらも、リリアナの意識の九割は、隣に立つ無口で冷たい神様――シュテファンに向けられていた。チラリと横を見上げると、シュテファンは表情を消したまま、ただじっとこちらを見下ろしている。
ああ……黙って佇んでいらっしゃるだけで、なんて絵になるのかしら。他の男と話す私になんて一切興味を持たない、その孤高の冷たさがたまらないわ……っ!
シュテファンがただ無表情でいることに、彼女は一人で激しく興奮し、多幸感に打ち震えていた。
「あー、フレースヴェイク公爵夫人?」
「あら。今まで通りで構いませんのに。何ですの?」
「そろそろお暇させてもらおう。……これ以上一緒にいるとお前の旦那に殺されそうだからな」
そそくさと離れていくセドリックに、首を傾げるリリアナ。
殺されるだなんて。その役目は私ですのに。可笑しなセドリック。
くすくすと笑うリリアナ。シュテファンはなおも無表情で、その様子を静かに見下ろしていた。
長く退屈だった卒業パーティーがようやく終わりを告げた。帰りの馬車内は、行きよりもさらに深い沈黙に包まれていた。車輪が石畳を打つ一定のリズムだけが響く中、シュテファンは腕を組み、窓の外の暗闇をじっと見つめていた。その横顔は相変わらず氷のように冷たく、彫像めいた美しさを保っている。
「……随分と、楽しそうだったな」
ふいに、静寂を切り裂くようにシュテファンの平坦な声が落ちた。
「え……?」
「元婚約者の男と話していた時だ。私といる時には見せないような、自然な顔をしていた」
その言葉を聞いた瞬間、リリアナの心臓は大きく跳ねた。
嘘……っ! シュテファン様が、私の行動を見ていてくださったの!? しかも、セドリックという下々の者のことまで気にかけて……!ああ、なんて慈悲深く、細やかなお気遣いなの!
リリアナの脳内では、シュテファンの言葉が『神からの極上の試練』に変換されていた。頬を薔薇色に染め、彼女は身を乗り出すようにして弁解を口にする。
「滅相もございませんわ、シュテファン様! セドリック様はただの幼馴染で、形式上の挨拶を交わしたに過ぎません。私にとって、シュテファン様のお隣に立つことこそが唯一の喜びであり、至上の幸福なのです。あのような方、私の目には全く入っておりませんわ!」
一片の嘘もない、真っ直ぐな言葉。すると、シュテファンは僅かに目を見張った。彼は短く息を吐き、ゆっくりとリリアナの方へと顔を向ける。そして、スッと長い腕を伸ばすと、革手袋に包まれた大きな手で、リリアナの滑らかな頬をそっと撫でた。
「きみがそう言うのなら……信じよう」
伏せられた長い睫毛。いつもの『氷の貴公子』からは想像もつかないような、ほんのわずかな脆さを帯びた声。
あああっ! なんてお労しげで、美しい表情なの……っ! 氷の貴公子様が、私なんぞの言葉を信じてくださるなんて……素敵すぎて直視できないわ!
リリアナは、頬に触れる彼の手の温もりにうっとりと目を細めた。自分にだけ向けられた特別な表情に打ち震えながら、リリアナは心の中で、ただ静かにシュテファンへの祈りを捧げるのだった。
やがて馬車は、夜の静寂に包まれたマリュス伯爵邸の前に到着した。従者が扉を開け、シュテファンの完璧なエスコートによってリリアナは地面に降り立つ。
「……数日後には私の……、いや、フレースヴェイク公爵家に来てもらう」
少しだけ言い淀んだ後、シュテファンは静かにそう告げた。
いよいよ、あの方の領域へと足を踏み入れるのね……! これから毎日、同じお屋敷で空気を共有できるなんて!
内心の爆発しそうな喜びを淑女の笑みの奥に隠し、リリアナはにこやかに微笑んだ。
「ええ、楽しみですわ」
すると、シュテファンがスッとリリアナの右手を取った。
「……?」
突然の行動に、リリアナが不思議そうに首を傾げた次の瞬間。シュテファンは静かに目を伏せると、恭しい動作で彼女の手の甲にそっとキスを落とした。
えっ……!?
ひんやりとした夜気の中、手の甲に触れた彼の唇の微かな熱に、リリアナの心臓が大きく跳ね上がる。
「数日後、また会おう」
唇を離したシュテファンは短くそう呟くと、余韻を残す暇も与えずに身を翻した。そして、驚くほどの早さで馬車へと乗り込んでしまう。あっという間に扉が閉まり、公爵家の紋章を掲げた馬車は夜の闇の中へと走り去っていった。
ああ……なんという無駄のない、流れるような素早い身のこなし! おまけに、この手の甲に残る熱は……間違いなく、シュテファン様の……っ!
遠ざかっていく馬車に向かって淑女らしく優雅にお手振りをしながらも、リリアナは自らの顔にじわじわと尋常ではない熱が帯びていくのを感じていた。神からの思いがけない『祝福』を賜り、数日後から始まる公爵家での生活への期待に、リリアナは一人、夜風の中でだらしなく頬を緩ませ続けるのだった。
つづく




