第11話 貴方の色に染まりたい
翌朝。窓から差し込む柔らかな朝の光が、ふかふかのベッドに横たわるリリアナの顔を優しく照らし出した。
今日はいよいよ、敬愛してやまないシュテファンと二人きりで市街へ出かける日である。
『……私が贈りたいんだ』
昨日の廊下で彼から告げられた、不器用で切実なその言葉。思い出すだけで脳髄が痺れてしまう。
シュテファンと二人で出かける。それは、リリアナにとって恐れ多いことであったが、同時に、天にも昇るほど嬉しくもあった。
――シュテファン様が、直々に時間を作り、あろうことか私に贈り物をしたいと仰ってくださるなんて……!
絶対神と崇める彼の貴重な時間を奪ってしまうという罪悪感と、彼からの極上の施しという名のエスコートを受けられるという歓喜。彼女は相反する感情を抱えながら、何度もシーツを抱きしめては悶々とした夜を過ごした。
コンコン、と軽快なノックの音が響く。
「おはようございます、若奥様!」
明朗な声を響かせながら部屋に入ってきたのは、専属メイドのアニーだった。手早くカーテンが開け放たれ、新鮮な空気が夫人室を満たしていく。
アニーに起こされたリリアナは、ベッドから出ると大きく伸びをして、深呼吸をする。睡眠不足の気怠さなど微塵もない。彼女の翠緑の瞳は、すでにギラギラとしたやる気と情熱に満ち溢れていた。
「おはよう、アニー。早速だけど、シュテファン様の隣に並び立てるような素敵な淑女の装いをしなくてはいけないわ!」
リリアナは両手で拳を握り締め、力強く宣言した。
「もちろん、あの方の完璧な美しさに私が釣り合うはずはないのよ。でも、せめて隣を歩く時に『次期公爵夫人として連れて歩くには不格好だな』とため息をつかせるわけにはいかないの!塵は塵なりに、最高級の塵として完璧に磨き上げられなくては!」
相変わらず自らを路傍の石か何かのように卑下しながらも、気合いだけは天を衝く勢いである。そのただならぬ熱意を受け、アニーもまたフンスと荒く鼻息を鳴らした。
「ええ!任せてください!!若旦那様が思わず見惚れてしまうような、誰よりも美しい奥様にお仕立ていたしますからね!」
「見惚れるだなんて烏滸がましいわ、アニー!せめてあの方の視界の端に数秒でも留まれるように、よ!」
「もう、若奥様ったら!卑下しすぎですよ!さあ、急ぎましょう!」
主の過剰なまでの謙遜――いや、狂信的なまでの信仰心に、アニーは呆れたように笑いながらも力強く頷いた。
リリアナは張り切るアニーと共に、早速、愛しい神様との外出に向けた戦いのような準備を始めるのだった。
まずは、最高級の香油をたっぷり溶かした湯に浸かり、頭の先からつま先まで、真珠のように滑らかな肌を丹念に磨き上げる。湯上がりには上質なクリームを擦り込み、彼女の持ち味である艶やかな茶色のロングヘアを、一糸乱れぬ完璧な美しさに結い上げていく。
続く衣装選びは、まさに真剣勝負であった。実家から持参した数少ないドレスの前で、二人は額に汗を滲ませながら目を光らせる。目指すのはただ一つ、『シュテファン様の隣を歩くのに最も相応しい、気品と慎み深さを兼ね備えた一着』である。
愛しい神様との外出という一大イベントに向け、主従揃って熱気にあふれた身支度が、朝の部屋で慌ただしく、けれどこの上なく幸せな空気の中で繰り広げられていく。
試着の末に選ばれた今回のドレスは、シュテファンの深く冷たい瞳の色を思わせる、ノーブルな青を基調とした一着であった。過度な装飾を抑えつつも、上質なシルクの光沢と洗練されたカッティングが、公爵夫人としての品位の高さと圧倒的な気品を与えている。さらに、デコルテを美しく見せる胸元には、深く澄んだ輝きを放つサファイアのネックレスを添える。耳元で揺れるイヤリングにも、同じく小ぶりのサファイアをあしらった。
これらの青い宝石のアクセサリーは、彼女が誕生日の際に、両親から特別にねだって買ってもらった一級品である。フレースヴェイク公爵家との政略結婚が決まったあの日、彼女はただ純粋に、『彼の隣に並び立つのに相応しい、彼を象徴するものが欲しい』と願ったのだ。
全身に彼の色を身につけ、彼を想って美しく飾り立てる。それはもはや着飾りというより、祈りを込めた神聖な儀式に近かった。自分はシュテファン・フレースヴェイクという唯一神の熱烈な信徒であると、一目見れば誰もがすぐに分かるような、愛と忠誠に満ちた装いとなっただろう。
最後に、アニーが色付く筆先で丁寧に化粧を施し、ふんわりと薄紅色のルージュを引く。
「……完成です、若奥様!」
アニーの弾んだ声に促されて目を開けると、そこには見違えるほど洗練され、恋と信仰心に頬を染めた、見目麗しい次期公爵夫人の姿が鏡の中に映っていた。
「まあ!流石ね、アニー!」
「いいえ、若奥様は元々お美しいのですから!アニーは少しばかりお手伝いしただけです」
自分のことのように嬉しそうに、そして誇らしげに笑うアニー。どんな時でも自分を励まし、肯定してくれる彼女の優しさに、リリアナも緊張が少しだけ解け、ふわりと顔を綻ばせる。
――アニーのおかげで、少しは公爵夫人らしくなれたかしら。これなら、シュテファン様の視界の端に入っても、不快にさせることはないわよね……!
その時だった。
コンコン、と静かな室内に、低く落ち着いたノックの音が響いた。
「私だ」
扉の向こうから聞こえてきた、低く甘いバリトンの声。執務室にいるはずのシュテファンが自ら夫人室まで足を運んできたことに、リリアナは信じられない思いでハッと目を見開く。
心臓がけたたましく跳ね上がる中、アニーは「いってらっしゃいませ!」と満面の笑顔を絶やさないまま、速やかに重厚な扉を開け放った。
「……」
扉の向こうに立っていたのは、相変わらず非の打ち所がないほど洗練された装いのシュテファンだった。だが、彼が部屋の中に立つリリアナの姿を捉えた瞬間――その完璧な足取りが、ピタリと止まった。
「シュテファン様?」
彫像のように固まってしまった愛しい神様を見つめ、リリアナは不思議そうに小首を傾げる。
――どうなさったのかしら……?やはり、私が青を着るなんて烏滸がましかった?それとも、お化粧が濃すぎたかしら?
不安に駆られるリリアナだったが、彼女は知らなかったのだ。彼女が純粋な信仰心から、嬉々として全身に至るまで彼の色である『青』を身に纏ったというその事実が、シュテファンの奥底で黒々と渦巻く『強すぎる独占欲』を、致死量に達するほど満たしてしまっていることに。
シュテファンの視界には、深い青のドレスとサファイアに飾られ、自分への熱烈な眼差しを向ける美しい妻の姿しか映っていなかった。自分が買い与えたものではない、彼女自身が『自分のために』用意し、身につけた自分色の装い。それはまるで、『私は頭の先からつま先まで、シュテファン様の所有物です』と全身で訴えかけているかのような、あまりにも甘美で暴力的な光景だった。
「……とても、似合っている」
どうにか理性を総動員し、シュテファンはひどく掠れた声で、振り絞るようにそう告げた。涼しげな表情の裏側で、彼の心臓は肋骨を突き破りそうなほど、痛いほどに激しく高鳴っていた。たとえ彼女が自分に向けるこの熱が、妻としての『愛情』ではなく、神様を崇めるような『敬愛』であったとしても。彼女が自分を対等な夫として見ていなかったとしても。ただこうして、彼女が自分だけの色に染まり、自分だけを見つめて微笑んでくれている。その事実だけで、すべての孤独や渇きを吹き飛ばし、彼に「それでもいい」と思わせてしまうほどの、凄まじい破壊力であった。深く澄んだサファイアの輝きも、滑らかな青いシルクの艶も、そのすべてがシュテファンの奥底で飢えていた独占欲を極上に満たしていく。
一方のリリアナもまた、限界ギリギリの理性を保っている彼の内心など知る由もなく、シュテファンの口から紡がれた拙くも真っ直ぐな賛辞に、顔を熟れた林檎のように真っ赤にさせていた。
――わ、私のことを褒めてくださっているの……?!これは夢かしら……!
普段は決して無駄口を叩かないあの完璧な『氷の貴公子』が、至らない自分の装いを前にして、わざわざ足を止めて言葉を与えてくださった。たとえそれが、次期公爵夫人としての体裁を整えたことに対する義務的な労いの言葉であったとしても、リリアナにとっては天にも昇るほどの歓喜だった。心臓がけたたましい音を立て、全身の血液が沸騰したかのように頬へと熱が集まっていくのを感じる。
――だめよ、こんなだらしなくにやけた情けない姿、気高く美しいシュテファン様に見られるわけにはいかないわ……!
これ以上、見苦しく火照った顔を彼の視界に留めるのは不敬だとばかりに、リリアナは慌てて深く俯いた。
そして、エスコートのために静かに差し出された彼の大きく力強い手の上に、自らの震える白い手をそっと重ねた。革手袋越しにじんわりと伝わってくる彼の確かな体温に、リリアナは再び胸の奥を甘く痺れさせるのだった。
つづく




