8
「田中さん…」
田中さんは黒っぽいジーンズにクリーム色の薄手の無地の長袖シャツ、肩より少し長めの髪を一つに結んでいる。いつもとほぼ変わらない服装。いつもと同じ、スッピンに近い薄化粧。整った顔立ちなのに目立たない。私が人の顔をよく覚えられないたちなのでそう思うのだが、化粧を変えたり、髪形や服装を変えたら田中さんだとパッと見わからないと思う。いつもの感じでもここ以外の場所で会ったらすぐにわからない。実際商店街で自転車に乗っている田中さんを見かけてわからず、少し行き過ぎてから、「あれ田中さんだったような…」ということがあったのだ。
それでも今、私の目の前にいるのはいつもと変わらない田中さんだ。
「入んないの?」と、田中さんはもう一度、少し睨んだような顔でイライラした感じで言ってきた。「時間押してるよ?私先に入るからね」
「田中さん!」
大きな声を出してしまい、田中さんがビックリしている。
「…なに急に」
「すみません。あの!…、ここホームセンターて…」
きょとん、とする田中さんだが、自分の腕時計を見てから、「ごめん。先行かして」と言い、わたしの脇をすり抜けるようにして、ドアのノブに手をかけた。
「田中さん!!」
さっきより大きな声を出してしまったが仕方ない。
「すみません、田中さん!どうして月屋書店じゃなくなってるんですか?」
「月屋書店?」首をかしげる田中さんに、私は鳥肌が立った。
月屋書店も黄色い看板だった。黄色い看板に紺色の文字で「月屋」、そしてその後に同じ紺色の三日月のマーク、その後ろにまた紺色の文字で「書店」。
一回黄色で全面塗り直して、茶色のペンキでホームセンターの名前を入れたんだろうか、と一瞬余計なことを考えたら、「いいから、ほら!」と田中さんに強く手招きされる。
「早く入ろう。時間過ぎちゃうよ、私この前もちょっとだけ遅刻しちゃったから、今月もう、打刻遅れたくないのよ、ほらほら」
手招きだけではだめだと思ったのか、田中さんは私の二の腕を掴み、ほらほらともう片手でドアを開け私を先に押し込むように中に入れた。
なんだか田中さんは石崎さんに似ているかもしれないと思う。
そのまま短くて狭い裏通路を通って書店の事務所に入る。通路が狭いので田中さんはもう手を放してくれたが、私は惰性でそのまま田中さんについて行く。通路は書店のいつもの通路と変わらない。
事務所の奥にある店長の席にはもう店長が座っていて、納品書か何かプリントされたものを見ながらどこかに電話をかけていた。
なんだ良かった。月屋書店の店長だ。店長席も同じ。
店長は愛想のない四十代後半のいわば普通のおじさんだ。背が高くもなく低くもなく痩せてもいないし太ってもいない、顔や髪形にも特に何の特徴もない。書店内でカッターシャツにスラックスを履いているから店長だとすぐ認識できるが、店の外ですれ違っても一瞬で店長だと全く気付かない自信がある。実際先日、店長が休みの日に子どもを連れて絵本を見に来ていたが、私服だったので私はすぐに店長だと気付かなかったのだ。
そう考えるとこの月屋書店の従業員は、うっすらとしたあまり特徴のない外見の人が多いかもしれない。私を含めてだ。まあだいたい派手な身なりの目立つ人は書店の従業員にはならないのかもしれない。
いつもはそこに店長が座っていると、「あ~~店長いるなあ、何も話しかけられたくない」と思っているのに、今日はいつも通りの店長にほっとしている。
たぶん、看板だけがおかしいことになってたんだ。だって他はみんな昨日までと変わらない…。
「おはようございます」と田中さんが店長に挨拶すると、店長は一旦プリントから目を離し、私たちを見て「おはよう、田中さん、今日もぎりぎりなんじゃない?」と言った。
どうしよう…。私のせいで田中さんが注意された。そして私も遅いのに田中さんだけ注意された。
「あ~~すみませ~ん」田中さんがいつもより若干高めの声で申し訳なさを出しながら言った。「もっと余裕見て来れるようにします~~」
私も店長にペコンと頭を下げ、「すみません、おはようございます」とこそこそ挨拶をした。
後で田中さんに謝ろう。
「おはよう」と店長も普通の返しをしてくれるが、もう私たちの方は見ていない。またプリントに目を通している。
「先に打っちゃうよ」と言いながら田中さんが先に打刻する。
昨日までと同じ位置に昨日までと同じパソコン、そして昨日までと同じ就業時間の打刻画面。
「お先、ほら木本さんも」と田中さんに言われてそのまま流れで打刻した。
事務所で就業の打刻が出来たら、その奥にあるロッカールームに荷物を置き、書店の制服であるエプロンを着ける。胸のところに青い三日月マークとその下に月屋書店とロゴの入った黄色いエプロンだ。
田中さんの後を追うようにロッカールームに行こうとしたら、店長に声を掛けられた。
「どうかな木本さん、だいぶん暑くなって来た?」
暑くなって来た?…
来るとき暑かったかって意味だろうか、もうすぐ六月だし。毎年気温の上昇は早くなっていて、もう三十度近い日も多くなって来た。私が駅のバス乗り場まで自転車で来ていることを知っているのだろう。交通費申請の書類も提出しているし。
「…はい、だいぶん暑くなってきました」
私が答える間に田中さんはさっさとロッカールームに入って行った。
「水撒きも大変だと思うけど、廃棄を出さないためもあるしね。売り上げも上がってきているからよろしくね」
水撒き?
店長をきょとんと見つめてしまう。
店長は「ふん?」と返事を促す用にほんの少し小首を傾げた。
水撒き…て?聞き間違い?廃棄を出さないって、本は基本売れなくても捨てないでしょう…。返品できるところには返品して、出来ないところもどうにか担当が返品交渉したりして。
きょとんと見つめる私から店長は目を反らし、一旦天井を見上げ、そして少し困ったような顔をして言った。
「えっ…と、まあいいんだけど、仕事始まるから、着替えてね。ごめんごめん、急いでるとこ声かけてね。でも、もちょっと余裕もって来ようか木本さんも。バタバタすると危ないから」
「…すみません」
水撒き…。
聞き間違いだと思いながらも、確かに聞こえた「水撒き」が気になる。
そしてロッカーを開けエプロンを取り出して身に着け、整えようとして手を止めた。
黄色いエプロン。本当はもっと濃いめの、大家の奥さんや石崎さんのところの菜月ちゃんも好きだと言っていた山吹色が好きなんだけど、といつも着けるときに思う真っ黄色のエプロン。でも胸のところには茶色いうずまきのマークだ。そしてその下に「スパイラル」。そのマークと店名を隠さないように付けられたプラスチック製の名札には「園芸 木本」と、担当ジャンルと名前が入っている。私のいつも付けている名札だと全く同じ形、同じ大きさだが、昨日までは「学生参考書 木本」と書いてあったのだ。
怖すぎる。
「怖すぎる」と実際口に出していた。
「なにが?」間髪入れずに田中さんが言った。「早く行こ。日高さんがうるさいよ。後で」
日高さんというのは中堅の女性社員で、もう一人の女性社員が産休を取っているここ半年、労働基準には触れないまでも割と無茶めなシフトを店長に組まれ、心がすさんできている女性社員だ。私がここで働き始めた少し前に他県のチェーン店から転勤でやって来たのだが、自分と同じくらいに入った周りに馴染めない私を気にかけて、よく話しかけてくれた。「私もここのことやり方よくわからないけど…」と言いながら、注文の出し方やお客とのうまいやり取り、返品交渉の仕方を教えてくれた。
それがだんだん話しかけてくれなくなり、私自身が少しずつ仕事に慣れてきたからだろうと思っていたのが、たまに他のアルバイトの子にキツめのモラハラ気味の言葉で注意をするのを何度も見かけて、私も敬遠するようになった。
悪いのは店長だ。いくら社員とはいえ、ショッピングモールの閉店午後十時までのフルのシフトや午後から閉店までの遅番のシフトばかり、土日もほとんど出勤にされている。たぶん店長は鈍感過ぎて女性の生理の周期なんて考えもつかないんだろう。
いや鈍感な店長のことなんてどうでもいい。
「田中さんあの!…これ……」
私は自分のエプロンの胸のロゴの所を指差したが、田中さんのエプロンの胸にも私のものと同じうずまきのマークとスパイラルのロゴ。そして名札は「実用書 田中」ではなく「家庭用品 田中」になっていた。
怖すぎる!
「何?」
田中さんがイラっとした感じで聞く。さっきも私のせいで店長に注意されたのだ。
「さっきすいませんでした。私のせいで」
「いいよ、そもそも来るのギリギリだったし」
「あの!これ…スパイラルって…」
「…何?」
「あの!…ここっていつからホームセンターですか?」
何を聞いているんだろうと自分でも思う。
「えーー…何年になるんだろ。このモールが出来た時からだから…今創業何年だっけここ?…ていうか何で今そんなこと言い出した?木本さんマイペースだね。私先に行くよ?朝礼始まっちゃう」
朝礼…普段月屋書店には朝礼がなかった。それよりも開店までに新刊本や雑誌を出し切ることが優先され、たまにクレームが入ったり、どうしても説明が必要なキャンペーンが入ったりと、皆に強く伝えなければいけないことがあるときだけ、店長のボソボソした挨拶で始まる暗めの朝礼があった。朝が苦手で普段より暗いテンションの店長が抑揚のはっきりしていない声で、「みなさん明るい接客を心がけましょう」と締めるのだ。お前がな!と、たぶん従業員のほとんどが思っているはずだ。
いやもう、暗い店長のことなんてどうでもいい。
なんだか吐きそうな気がする。
ここはおかしい、私はここにいるはずじゃないというのはわかる。
でも私は今ここにいるのだ。これは夢じゃない。夢の中の感覚ではないのが私にははっきりとわかる。
動きを止めて考えたい。田中さんについて行く?いや、なにもかも放り投げてすぐに帰るのが正解だと思う。
が、私は田中さんに腕を掴まれた。「どうしたの?木本さん。なんか今日変だよ。気分悪い?」
「あの…いえ…」
モゴっている場合ではないのに私はモゴる。
「みなさんおはようございます!」キンキンした女の人の声の放送が響く。「朝礼をはじめます、お集まりください」
書店の誰かの声ではなくあらかじめ録音されている声だ。
「ほらーー」田中さんが言った。「もう店長が朝礼始まりの放送ボタン押したじゃん」
田中さんに引っ張られるままロッカールームから店内へのドアを開けると、レジ前のフロアにはもう、だるそうな店長を中心に従業員が並んでいた。
さっきのアナウンスの声と同じ声がひと際大きく号令をかけた。
「まずはラジオ体操から、今日も元気にまいりましょう!」




