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 とりあえず大家さんの小説を読む。

 それは女子高生ウミが突然海の底で目覚める話だっ主人公が大家さんの奥さんと同じ名前だ。

 ボコッと口から出た自分の息の泡で海が目覚めるとそこは海の底。一瞬でパニックに陥るが、それでも見上げた海面はよくはわからないけれど十メートルもなさそう。体感冷たくはないし、海の底はサンゴ砂が積もったように白い。生ぬるい明るい海の底。それでも女の子は慌てる。息が続かない。見ればなぜか自分は真っ裸。サメにやられる!とウミは慌てる。頭の中には無邪気に泳ぐ若者がサメに突然やられる映画のシーンや、動画が次々に浮かぶ。苦しい。とにかく上にと慌てる。

 もがいて上がって出た海面は真っ青な空の下だった。そして目の前はただただとこまでも海が続き、息も整わないまま焦って三百六十度見回すが、後ろも全く同じただただ海面、どこまでもタプタプとした波が漂う海面で、ウミは絶望に襲われる。立ち泳ぎをしながらどんどん恐怖は増し、過呼吸になるんじゃないかと思うくらい息も荒くなる。一隻の船も遠くかすんだ島も何も見えない。空にも何も。飛行機も鳥さえ一羽も飛んでないのだ。

 もう死ぬんだ、とウミは思う。それかもう死んでいて、ここは死後の世界なのかもと考える。実際夢かと思いたいがあまりに感覚が現実的過ぎる。ものすごく怖くて悲しいのに涙は出ない。荒い息はそのまま、なぜこんなことになったんだろうと考える。両親が離婚し、父親は養育費を払わず、精神的に弱い母親と切り詰めた生活。当然周りの女子高生とは暢気に付き合えない、うまくいかない毎日。進学したいのに、お金の心配や母の負担を考えると勉強にも身が入らない。キラキラ明るい周りのクラスメートたちを見て、みんないなくなって何もなくなればいいと自分が夕べ祈ったからだと思う。

 とにかくどうしようもできなくて、それならと主人公は願い始める。ただもう願うしか出来ないのだ。どうかどうかお願いです。陸にたどり着きたい。陸に。陸が無理だったら船か島か…どうかどうか…と主人公が祈るところで一つの話は終わっていた。

 面白いと思った。これからどうなるのだろうとわくわくした。物語の始まりとしてとても面白いと思った。

 すぐ次のエピソードを読みたくて、ページを開いたら広告が流れた。「あなたへ新しい生活の提案を」というホームセンターの自社作の家具の通販の広告だった。「店頭でも注文できます。あなたの街のホームセンター・スパイラル」。

 そんな名前のホームセンターはこの街には見たことがないし、私が育ったど田舎にはもちろんなかった。私が育ったど田舎には古い金物店はあったが大きなホームセンターはなかったのだ。

 広告の最後にアニメーションで茶色い色のうずまきがグルグルと流れた。そうか、スパイラルってうずまきってことか…。

 グルグルは結構長く続いた。なかなかその広告を閉じるのマークが出ない。グルグルグルグル…トンボなら捕まっているとつまらないことを思ったとたん、私は意識を失った…。 

 

 その夜私は夢を見なかった。いちばん夢を見てもいいような日に。見たのかもしれない。でも何も覚えていなかった。ただ眠りがあっただけだ。私はきちんと布団の中で眠っていた。

 夕べ大家さんの小説を読んでいて…と思い出す。布団の横にあったスマホは電源が切れていた。

 それでもこんなにぐっすり眠れたのはいつぶりだろう。もう思い出せないくらいだ。私は小さい頃からずっと毎晩ポジティブではない夢ばかりを見ていた。真緑色にコケの這ったプールで泳ぐ夢とか、テストでいくら書き込んでもマスが埋まらないとか、暗い森の中で道に迷う夢とか…

 隣の窓が開く音がした。水本の部屋だ。あんなメッセージを受け取った後でどうして水本の夢さえみなかったのだろう。

 しとしとと雨が降っているようだった。昨日の朝と同じくらいの雨だ。今度は水本の部屋の窓が閉まる音がした。雨がとどれくらい降っているかを確認したのだろうか。

 ぼんやりした頭で起き上がる。夢は見なかったが、大家さんの小説の中身が頭の中で蘇る。頭の中に常に映像が浮かんでいたら、ADHDの症状だ、みたいな話がインスタグラムでもたまに流れて来るけれど、私は小さい頃から常にそうだし、人の話が気になるし、いつも過去に囚われているし、コミュニケーション能力も乏しいから、だいぶんその症状が当てはまっている。

 起きるのが嫌になって、仕事にも行きたくないと思って、もう一度布団の上にゆっくりと倒れた。目を開けたまま天井を見ていると、窓の外で音がした。薄いベランダの板を歩く音。

 昨日といっしょだ。今日もキイが来てくれたんだろうか。私が仕事に行きたがってないのを察して来てくれたのかもしれないと調子のいい事を考える。

 キイは昨日と同じように前足で窓ガラスをひっかいた。私は嬉しくなって布団から跳ね起きカーテンを開け、キイが逃げないように窓はそっと開ける。隣の水本に私の声が届かないようにキイに聞いてみる。「今日も来てくれたの?」

キイはきょとんとした顔で私を見上げた。可愛い。

 返事をしないキイに「ありがとね」と私が言うのと、同時にキイが私の部屋へぴょんと入って来た。昨日よりも慣れた感じがする。トトトッとそのままキイは私の布団の上に昨日と同じようにコロンと転がって、体についた水滴を採ろうとしている。

「あ!キイ!待って」と私が言う間に、もうキイは何回もコロンコロンと転がった。

「もーーーーー」と私がなじると、キイは、「にゃああ」と可愛く鳴いてみせた。 

 割と懐いてきてくれたのかもしれない。嬉しい。そのうち撫でさせてくれるかもしれない。


 キイはしばらく布団の上でゴロゴロ転がってから、昨日と同じように窓辺にトトトッと向かって行った。私もまた、昨日と同じように一緒に外を眺めようと思う。今日ももう雨は止みそうだ。雨の音が小さくなってきた。でももしかしたら昨日のように突発的に大雨になるかもしれない。今日はちゃんと天気予報も確認してレインコートを持って行こう。

 夕べは嫌な夢も見なかった。寂しい夢も見なかった。ぐっすりと眠れてキイが今朝も来てくれて、私は今日、ちゃんとレインコートの準備もしようとしている。

 私は昨日よりは少し良くなっている。ほんの少しだけど、ここで一人でちゃんと生きていくために少しずつちゃんと考えられるようになっている。

 そう思うと嬉しいし、キイと見つめる向こうの家の屋根の上の空は少し明るくなってきている。雨も止む。ちゃんとご飯を食べて仕事に行こう。

 「キイ」と私はキイを呼ぶがキイは振り向かず、まだそこにいてくれる。

「今日はいい天気になったらいいねえ。昨日は私の予想外れちゃったけど。今日はちゃんと天気を確認していくよ」

キイの右の耳が一回ピクッと動いた。私の話を聞いていてくれるのだ。嬉しいな。

 キイはこの空のどこを見ているんだろう。昨日もそんなことを考えたけど…。


 あれ?

 今一瞬…

 もう一度キイの耳がピクッと動いた。

 あ…、また…。

 私は目をぎゅっと閉じ、バッと開ける。

 見える。

 指で目頭をこすってみる。

 やっぱり見える。七十度ほど目を上げた先、空の真上まで行かないそこに、銀色のうずまきが見えた。大きさは太陽の二倍くらい。アニメーションのようにグルグルと銀色の線状のものが渦を巻いている。

「え…」と一人、声が出る。昨日寝る前に観たホームセンターのCМみたいだな。あれは確か茶色だったような…。キイにも見えているんだろうか、と目をキイに落としてまた見上げたら、もううずまきは消えていた。

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