おまけ3 韓国の研究者も甕棺墓が朝鮮半島由来ではないことを認めている
福岡市の金隈遺跡というところに行ってきました。
そこの説明員の方の話によると、韓国から来た研究者のひとりが甕棺の年代について語ったらしいです。
韓国で出土した甕棺は最古のものでも2000年前のもので、それ以上古いものが出ていないのですが、日本からは2400年前のものが出ています。甕棺墓は日本の風習がオリジナルだと結論づけるしかない、ということだそうです。
学界の通説でも甕棺は北部九州から朝鮮半島に広がったとなっています(大陸では子どもを甕棺に入れて埋葬する方式があったが、オトナを入れるようになったのは北部九州から)が、韓国の研究者がそれを認めているというのが面白いです。
ちなみに、韓国にいる弥生系の人(YハプログループがO1b2a1a2a)は北部九州から縄文人の奴隷として朝鮮半島に連れて行かれた人たちの末裔だというのがわたしの説ですが、たぶん、そこは死んでも認めないでしょう。
板付遺跡に行ったときに、説明員さんが見せてくれたものがあります。
最下層から出た農耕具だそうです。
そのへんで拾ってきたような木の棒の先に石器を縛り付けただけのものです。スキなのかクワなのかもわからないようなものです。
説明員さんは一生懸命説明してくれました。
こんな原始的な道具を使っていたところに右の写真のような高度な道具が入って来たというのは、渡来人がそういう道具を持って来たということなんだ・・・と。
そのときは、その渡来人が朝鮮半島から来たという根拠がどこにもないという点ばかりが気になってましたが、あとで思ったことがあります。
その原始的な槍のような道具で農業をしていた時期があったのだと。
で、そのときすでに水田稲作をしていたのだ・・・と。
原始的な道具で細々と水田をつくっていたのは縄文人だったでしょう。
で、ある程度の収穫量が確保できるようになって、そのあとどうしたかです。
そこに弥生人が自分たちの意志で新天地を求めて立派な道具をもってやってきたのでしょうか・・・?
縄文人と弥生人は仲良く共生し、弥生人の技術を伝授されながら縄文人も一緒に水田稲作をした・・・という話になっていますが、そんなことはあり得ないでしょう。
自分たちの意志で新天地を求めて弥生人が上陸してきたのならば、まず、そこで縄文人たちとの戦いになるでしょう。縄文人もすでに細々ながらも米をつくっていたわけで、そこに言葉も通じない異国の農民が大挙してやってきて大規模な開墾作業などを開始したら「コノヤロー!」ってことになるはずです。
弥生人が温和な顔をして縄文人たちを丸め込んだのなら戦いにはならなかったかもしれませんが、農作業を得意としない縄文人と専業農家のような弥生人が一緒に仕事をすれば弥生人が主導権をにぎります。そうなれば縄文人はあっと言う間に消えてなくなったでしょう。が、我々現代日本人男性の3割は縄文人のY染色体を持っています。
戦いにもならず、縄文人の遺伝子もしっかり残しながら弥生人と縄文人が一緒に共生生活をはじめたという状況を説明するには、弥生人が自分たちの意志でやって来たのではなく、縄文人に連れて来られたのだ、とする以外にありません。
大陸では戦乱が続いており、黄河流域の都市などでは奴隷が売られていたはずです。周が商(殷)を滅ぼした(紀元前1046年)あとでは商王朝の民が奴隷となって売られていたようです。
北部九州の縄文人が自分たちでつくった米で交易をし、翡翠などを日本列島から集めて黄河流域まで行き、5名とか10名づつ奴隷を買っては北部九州に連れ帰ったというのがもっともリアリティのある説明になります。
その際、縄文人たちは最先端の農耕具も奴隷と一緒に買って帰ったでしょうし、自分たちの水田に戻ったら、同じ道具をたくさんつくるようになったでしょう。
日本に水田稲作がはじまったのは、そういう経緯だったろうと思います。
ちなみに、弥生人が朝鮮半島から来たという根拠は石包丁という道具が朝鮮半島で古くから使われていた、ということが主な論拠になっています。が、石包丁は長江流域でも使われていましたし、黄河流域でも使われていたようです。朝鮮半島では北部でまず使われるようになり、それが南部へと伝播したそうです。が、それは、北部で使われていたときは稲作の道具ではなく、畑作の道具だったようです。
その石包丁が北部九州の遺跡からも出る・・・というだけで弥生人は朝鮮半島から来たのだとするのは、かなり無理のある話だと思います。
朝鮮半島で最古の水田があったとされている遺跡はオクキョン遺跡というものです。
これは半島の最南端で北部九州の対岸です。
そこで水田がはじまった時代は紀元前11世紀となっています。北部九州で最古の水田は紀元前900年頃となっています。その差は200年ほどでしかありません。放射性炭素による測定ですが、これには誤差が出ます。どちらもほぼ同じ頃に水田をはじめたと思われます。
朝鮮半島側から北部九州に農民がやって来たのであれば、朝鮮半島側はもう数百年早くはじめていなければならないでしょう。稲作をはじめたばかりで技術的にも成熟していないのに、そこの農民たちが新たな土地を求めて海を渡るというのは考えにくいです。
が、逆ならばリアリティがあります。
北部九州である程度水田稲作が拡大され、一部の縄文人が奴隷を連れて朝鮮半島に渡ってそっちでも水田をはじめたということです。その千年以上まえから朝鮮半島南部には縄文人が住んでいたからです。
北部九州では、今のところ唐津市にある菜畑遺跡が最古の水田稲作の遺跡となっていますが、菜畑遺跡よりももっと古い遺跡が他から発見される可能性もあります。ただ、北部九州はすでに開発がかなり進んでいます。実は他にも遺跡があったのに、工事の予算やスケジュールのために出てきた遺物をそのまま見て見ぬふりして葬り去った業者がいたかもしれません。




