おまけ4 倭国の大乱はここからはじまった
佐世保に下本山岩宿遺跡というのがあります。
そこから弥生時代の骨が出てきてDNA解析が行われました。
そのあたりは縄文時代には縄文人の生活の場であったようですが、弥生時代に入ってからは墓地となっていたそうです。
で、そこから出た弥生時代末期の人骨は、DNA解析が行われるまでは純粋な縄文人の骨だと思われていたそうです。上腕骨が際立って太く発達しており、漁労活動の際に船を手漕ぎする動作を継続することで発達したと考えられているそうです。弥生人とは混血していないと思われたそうですが、しかし、ゲノムを調べてみましたら、4割が弥生人だったそうです。
東大大学院の先生たちは、この骨の人物は一般的な弥生人ではなく、そのあたりで漁労をしていた縄文人の生き残りであるとし、そのゲノムの解析結果を弥生人の一般例としてカウントしないということにしました。
しかし、この骨は箱式石棺から出てきました。田舎の小さな村の長という程度であったかもしれませんが、それなりの地位にいた人物だったと思われます。弥生時代になっているのに細々と縄文人のままの生活様式で生き残っていた人たちだった・・・・・・というのは、ちがうのではないかと思います。
先に紹介した福岡市の板付遺跡の周辺からは弥生時代中期から末期にかけての人骨も出ているそうですが、鏡や剣などと一緒に甕棺墓に埋葬されていた支配層の骨は見るからに渡来系の弥生人の骨格だったようです。
そのゲノムは調べられていないようですが、おそらく縄文人の比率は低いのでしょう。
北部九州でも、弥生中期以降になると、佐賀県や長崎県のあたりと福岡県あたりでは支配層の人種が違っていたということがうかがわれます。
支配層が縄文系の血筋を重んじ、奴隷階級の弥生人たちとの混血を避けていた地域と、支配層までもが積極的に弥生人や大陸人と混血した地域に別れたのではないかと思われます。
そして、そこに大きな思想上の対立が生じ、合戦が頻発し、これが魏志倭人伝に記された「倭国の大乱」の引き金になったのではないかと思います。
佐世保の隣の佐賀県のあたりは、古代にはマツラと呼ばれていたようです。マツラが松浦の語源とされています。魏志倭人伝に登場する末盧國(マツラ国)とは、その佐賀県の松浦郡(唐津市・伊万里市・東松浦郡・西松浦郡の全域)あたりにあったものと思われます。
日本最古の水田があったとされている菜畑遺跡は佐賀県の唐津市にあり、それは末廬館という資料館の中にあります。
一方、板付遺跡やその南側の須玖岡本遺跡のあたりには奴国があったとされています。後漢の光武帝から西暦57年に金印をもらった国です。
奴国が金印を授かった50年後の西暦107年に後漢の安帝に謁見を請うた人物がいます。
帥升です。
帥升は金印を授からなかったようですが、生口160人を献上しました。
で、その帥升の国こそ末廬国だったと思われます。
『後漢書』に帥升のことを「倭面土国王」とか「倭面土地王」と書かれていて、その「面土」というのはメタと読み、これがマツラの語源だとされています。
帥升がどうして安帝に謁見を請うたのかわかりませんが、奴国が金印を授かった50年後ということですし、奴国との間になにかあったことは想像できます。で、金印を授からなかった理由が気になります。
帥升が金印を求めなかったのかもしれませんし、求めたけれども与えられなかったのかもしれません。後漢は奴国王に倭国の統治を委任していたのだとすると、奴国との関係から帥升に鞍替えすることは差し控えたのかもしれません。
が、そんなことよりも人相風体の問題で帥升は拒絶されたかもしれません。
後漢との関係を深めていた奴国王は漢人の娘を嫁にして漢人の血の濃い息子を後継者にしたりしていたでしょう。板付遺跡の周辺から出た支配層の骨が渡来系の骨格だったというのはそういうことだったのだろうと想像されます。
一方、マツラ国の王であった帥升は、縄文人の血統を重んじる風土の上に立つ王で、その見かけは縄文人そのままだったでしょう。頭髪はちぢれていて、肌も黒かったでしょう。もしかすると腕には奄美諸島以南でしか採れないゴホウラ貝の腕輪(縄文文化圏では権威の象徴)をしていたかもしれません。中華文明圏の人間たちから見ればそういう風体の帥升は野蛮人ということになった可能性があります。
魏志倭人伝には、奴国と末廬国が戦ったとは書かれていませんが、魏と交流のある国が30あり、それらが「相攻伐して年を歴たり」となっています。
『後漢書』より古い『漢書』には、倭国は百余国となっていますから、百国あったのが各地で統合がすすんで30国になったのかもしれません。
で、そういう状況下で卑弥呼が現れ、邪馬臺国が登場して大乱が収まるわけですが、最終的に北部九州をまとめたのは縄文系だったと思われます。
北部九州の装飾古墳の内部の絵柄がアフリカ系のデザインであることや、古墳に埋葬されていた人物が縄文人の風習である抜歯を行っていた形跡があることなどはすでに書きました。奴国の支配層は渡来人のような骨柄をしていましたが、その後の古墳時代の支配層は縄文系になっていたのです。
ですから、末廬国と奴国の対決は最終的には末廬国の勝利ということになったのかなと思います。
で、その勝因ですが、ひとつは後漢の滅亡という要素が大きかったでしょう。後漢から授かった金印を権力の基礎としていた奴国としては、後漢が滅亡してしまったことは後ろ盾を失ったことになります。
そして、さらにもうひとつ、大きな勝因が考えられます。
南九州勢を巻き込んだことです。
おそらく、倭国が乱れたときに、南九州はこれに関与していなかったでしょう。南九州は独自の文化圏であり、古来からの縄文文化圏を強固に守っていたようです。
が、その兵力は弥生人の軍勢とは比べものにならないほど強力だったでしょうから、それを味方につけた方が勝つ、という状況があったはずです。
しかし、すっかり大陸人と化していた奴国の支配層は南九州勢との協調体制はつくれなかったでしょう。
それをつくれたのは末廬国だったと思います。
熊襲の王と手を組み、奴国を西側と南側から攻める、というようなことがあったのではないかと想像します。
ただ、そこには邪馬臺国というものが登場しました。
邪馬臺国がどこからどのようにしてできあがった国なのかはまったくわからないのですが、畿内に発足したヤマト朝廷の前身だという説についてはリアリティを感じません。京都大学などが国の予算を確保するために邪馬臺国は畿内にあったと言い張っている、という説にはリアリティを感じてます。
で、面白い説があります。
福岡県の南側(熊本県との県境)に、みやま市という市があります。で、そこにある権現塚古墳が卑弥呼の墓だという説があります。
みやま市は山門郡瀬高町、山川町、三池郡高田町の3町が合併した町で、権現塚古墳はその旧山門郡瀬高町にあります。
で、日本書紀には「神功皇后が山門縣に行き、そこで土蜘蛛の田油津媛を誅した」という記述があります。
土蜘蛛とは、縄文人のことだと思われます。
弥生時代に入り、稲作をするようになった地域では藁葺きの竪穴式住居をつくるようになりましたが、縄文時代の竪穴式住居は泥葺きでした。南九州では弥生時代になってもまだ泥葺きの住居に住んでいたと思われます。で、ヤマト朝廷の者たちはそういう縄文人直系の狩猟採集民のことを土蜘蛛と呼んで差別していたと思われます。
日本書紀が編纂された頃における縄文人直系の狩猟採集民と言えば熊襲またはその末裔と考えられる隼人の民ですが、北部九州の支配層も縄文人直系の者であったわけで、日本書紀の記述にある山門縣は、みやま市の山門郡のことでしょう。
神功皇后は朝鮮半島を征圧した皇后として記されていますが、これは邪馬臺国の卑弥呼をモデルにして創作されたキャラクターのようです。
卑弥呼は朝鮮半島の帯方郡に拠点を構えた魏から金印をもらいました。自ら朝鮮半島を征圧したわけではありませんが、帯方郡の役人たちは卑弥呼を格別の者としてあつかい、そのため卑弥呼が授かった金印は西方の大月氏国(クシャーナ朝=現在のアフガニスタンから中央アジアにかけての地域)が授かった金印と同格のものでした。おそらく、日本側の伝説では、卑弥呼は朝鮮半島をも支配下に入れた巨大な女王、となっていたでしょう。
で、その卑弥呼の末裔は山門縣にいたのでしょう。
なので、日本書紀のストーリーを完結させるためには、神功皇后は朝鮮に行くまえにその卑弥呼の末裔を山門縣で誅せねばならなかったのだと思われます。
実際にヤマト朝廷が北部九州を征圧したのは磐井の乱(527年)のときですから、卑弥呼が魏から金印を授かったときから数えると300年ほどが経過しています。
が、卑弥呼の伝説は300年後でもまだしっかり語り伝えられていたのでしょう。
尚、ヤマト朝廷が磐井を攻めたのは朝鮮半島南部の鉄の利権を独占するためであり、そのためには新羅と強固な関係を結んでいた磐井を排除せねばならないということだったようです。で、日本書紀を作成するにあたり、神功皇后が朝鮮半島を支配下に入れるためには、「朝鮮半島を配下にしていた卑弥呼を誅した」という記述をつくっておかねばならなかったのでしょう。
ヤマト朝廷と戦うことになった磐井が卑弥呼の末裔だったのかどうかはわかりませんが、磐井の本拠地はみやま市の隣の八女市のあたりにあり、磐井の古墳もその周辺につくられています。
磐井はおそらく北部九州の支配層の末裔で、土蜘蛛系(縄文系)の血統を引き継いでいたのでしょう。本拠地の八女市は福岡県と熊本県の境目あたりですから、そこの支配層は縄文系が濃かったでしょう(熊本県は卑弥呼の頃は熊襲の領土だったと思われる)。
で、磐井の頭髪はちぢれていて、色黒だったでしょう。
で、山門縣のタブラツヒメは土蜘蛛の女王ということになったのだと思われます。ただ、そのタブラツヒメが卑弥呼だとはどこにも書かれていません。それを書くと当時の北部九州の豪族たちは怒ったでしょうし、時代も違います。なので、卑弥呼という名前は書かず、人々をたぶらかすタブラツヒメという名がつけられたのだと思われます。
それらのことを考え合わせると、邪馬臺国はみやま市か八女市のあたりに拠点があり、奴国を攻めて支配下に置き、北部九州の盟主国となって南九州勢と戦っていたのでしょう。当初は南九州の縄文人たちの支援を受けていたのかもしれません。が、関係が悪化して敵対するようになったのかもしれません。
卑弥呼についての伝承が日本書紀の編纂の頃にまで残っていたのだとすると、磐井の乱の頃にはまだその国が存続していたのかもしれません。
末廬国と邪馬臺国がどういう関係だったかはわかりませんが、卑弥呼が台頭した頃には北部九州の主権は卑弥呼が握ったのでしょうから末廬国はその後は衰退したのではないかと思われます。ただ、古来からの主権国という地位は維持していて北部九州の天皇のような人物がそこに残ったのではないかという気がします。
磐井は「筑紫の君」という称号を持っていましたが、その「君」はヤマト朝廷から与えられた称号ではなかったという説があります。末廬国の後継国がその当時まであって、そこにいた由緒正しい天皇のような人物から「筑紫の君」という称号を授かったのではないかと思います。




