第12話 ジャック・ザ・リッパー
西暦1887年、ビクトリア朝末期の大英帝国において、史上最も有名な探偵小説が生まれた。アーサー・コナン・ドイルによる『シャーロック・ホームズ』シリーズである。探偵小説の発達は社会の成熟度と関係があるという研究があるが、まさにこの時代の英国だからこそ、この時代を超えて読まれる物語が生まれた。警察への信頼と不信。ともすれば矛盾した思いを抱えていた英国人が、あらゆる事件を絶対に解決する、だが警察ではないホームズという存在を熱狂的に支持した。ロンドンはこの時代、産業革命の結果資本主義が急激に発達し、世界で最も貧富の差が激しく、だが社会の制度が成熟しつつあり、司法が徐々にではあるが健全に営まれつつあった。そんな社会では未解決事件は許容されない。そんな不安をホームズはフィクションの世界で解決して、国民は同じような強固な治安維持を司法機関に願ったのである。
だが、奇しくもそのホームズが生まれた翌年に、今では誰もが知る、劇場型犯罪の先駆けであり、史上最も有名な未解決事件が現実のロンドンで起きてしまった。それも、ロンドンの貧富の差を象徴するような貧民街、イーストエンド地区のホワイトチャペルでだ。1888年の八月から十一月にかけて中年の売春婦ばかりを狙って五人が殺された。この五人はカロニカル・ファイブと呼ばれており、ジャック・ザ・リッパーが直接殺害したものとの見方が現在でも根強い。だが、殺人はこれだけでは止まらなかった。中には模倣犯と思しき犯罪も見受けられるが、それらを含めると最大二十人ほどが殺害されている。さらに、ジャック・ザ・リッパーは自分を捕まえられない警察を嘲笑うかのようにカロニカル・ファイブの三人目の殺害の直前に、大胆にも新聞社に犯行声明を送っており、メディアの報道も加熱して恐ろしく世間の注目を集めた。英国では義務教育が導入されていたこともあり、識字率が向上していた。このような背景もあり、社会現象が巻き起こったのだった。結局、二千人以上の人間を尋問し、八十人以上の容疑者を勾留したが、英国警察とスコットランドヤードはついぞ犯人を特定することはできなかった。そして、ジャック・ザ・リッパーの事件は時代を経るごとに尾ひれがついて強大な都市伝説になっていったのだ。
ゾハル・シモンズ・枢木は、魔力で作った鳩の目を通じて、テムズ川に沿ってニューロンドンの街を見ていた。生まれてからずっと合衆国から出たことがないゾハルには、この街がどの程度ヴィクトリア朝のロンドンを再現しているのかはわからないのだが、少なくともテムズ川に沿って建てられているウェストミンスター宮殿はよく見る光景であった。ただ、恐ろしく霧が深い。実際のロンドンも霧の街として有名ではあるが、この霧は明らかに不自然だった。神園財団のエデンがいうには、ニューロンドンでは電波障害のせいでドローンが長時間飛ばせなかったり、長距離の通信が遮断されたりするらしい。街全体を覆う霧は、まるで現代の技術を遮り、嘲笑っているかのように見えた。
「エデン、今鳩の目を通してビッグベンのあるウェストミンスター宮殿を見ているが、君たちの私兵でこの宮殿を肉眼で視認したものはいるのか?」
肉眼で視認という妙な言い方が引っかかったエデンではあったが、この場は素直に答えておこうと思った。
「ウェストミンスター宮殿の辺りはこの街でも最も危険な区域ですので、あまり近づけたものはおりません。ドローンで撮影した動画を回収したものはありますが、ご覧になられますか?」
ゾハルは鳩の目と同期しているので瞼を閉じている。エデンの方を見ることはなくいった。
「後で確認しよう。今現在、わたしが操っているこの鳩は、魔力探知等ができるようになっているのだが、どうも妙だ。ウェストミンスター宮殿はなにか特別な場に包まれているように見える。君たちは現実強度を測定することのできる装置は持っているのか?」
現実強度とは、現実改変能力を数値化したものであった。遥か昔からその存在自体は知られていたが、それを観測し、体系化できるようになったのはここ数十年のことである。
「現実強度ですか。ロア曲率を測定する装置は我々も所持していますが、残念ながらウェストミンスター宮殿まであの装備を運んでいくことはかなりの危険を伴います。例の『警官』数体程度なら楽に対処できるでしょうが、ジャック・ザ・リッパーと遭遇してしまうリスクを考えると、そう簡単に許可はおりません」
確かに人命と装備が同時に、しかも高確率で失われることを考えると、ウェストミンスター宮殿まで現実強度測定装置を運ぼうというのは無謀な話かもしれない。だが、ゾハルがこのニューロンドンの建造物を『生成』しているのは、ウェストミンスター宮殿内にある『何か』が、現実改変能力を持っているからなのではないかという仮説を確認したかった。試しに鳩を接近させてみようとしたが、途中で何発かの銃撃音が聞こえたかと思うと鳩とのリンクが断ち切られてしまった。おそらくあの『警官』に撃墜されたのだろう。上空から見た感じでは宮殿の周囲はたくさんの『警官』が徘徊しているようだった。
「使い魔の鳩がやられた。とりあえずこのニューロンドンの秘密を解き明かすのはわたしの仕事ではないので、ここまでにしておこう。目下の問題はジャック・ザ・リッパーだな。君たちがここを斡旋したのもわたしが奴を片付けてくれれば願ったり叶ったりだからなんだろう?とにかく、君たちがこの八十年で調べ上げたニューロンドンの資料を見せてもらおうか。あの『警官』以外にも脅威となる存在がいるのかどうか、ジャック・ザ・リッパーの出現に何か法則性があるのかどうかなど、知りたいことは山ほどある」
それを聞いてエデンはPCをゾハルに見せた。実に簡潔にまとめられた報告書だった。それによれば、『警官』の他にも、鉄片や金属の棒などで形作られた頭部にレンズのようなものを持つ鳥(おそらく監視役)や、危険な薬物を撒き散らしてくる『医師』などが存在するらしいが、脅威度は『警官』よりも劣っており、少なくとも神園財団の私兵を配置しておけばどうにかなる程度の存在のようだ。脅威度不明の存在として通称『裏切り者』という名のフードを被った老人もいるらしいのだが、一般的な物乞いと変わらないので無視すれば問題ない。やはり最も警戒すべきはジャック・ザ・リッパーである。そもそもあの存在をなぜ神園財団がジャック・ザ・リッパーと確証を持って呼んでいるのか不思議ではあったが、この報告書に詳細が記してあった。なんでも、殺された財団の関係者の死体の傍に高確率でメッセージが残されていたのだという。
「親愛なるボスへ 親愛なるボスへ 親愛なるボスへ」
これは史実のジャック・ザ・リッパーが新聞社へと送った有名な手紙の一文の冒頭だ。とはいえ、本来は三回も繰り返されてはいなかった。このメッセージを見つけたものが連想できるようにあえてこんな書き方をしたのかもしれないが、とにかくこの一件があってから、神園財団はこのシリアルキラーの事をジャック・ザ・リッパーと呼称するようになったのだ。経緯はともかく、儀式の最中ゾハルが術式への集中のために無防備になることを考えると、ジャック・ザ・リッパーは排除しておくべきだろう。だが、奴はまさに神出鬼没。史実の彼のように売春婦を狙うといったこともなく、手当たり次第に出会った者を殺してまわっているようだ。もし、このニューロンドンという都市がウェストミンスター宮殿に存在する『何か』が現実改変能力を用いて建設した、あるいは今でも建設中なのだとしても、各地で垂れ流されている放送を聞く限り、表向きの目的は人類救済のための最後の砦であることは間違いないだろう。『警官』たちも本来は本当に治安維持のために生み出されたのかもしれない。だが、今は目的の機能を果たせていない。ましてやジャック・ザ・リッパーなどは存在することそのものがおかしい。八十年前に発見された時に既にこのような状態であったことを考えると、ニューロンドンは建設開始まもなく何らかの異変によって死の街へと変貌した可能性はある。そもそもこの街には管理者のようなものが存在していない。そのような状態で街を建設し続けるための何かがあのウェストミンスター宮殿にあるはずなのだ。場合によってはあの中に行ってそれを直接どうにかしなければならない可能性もある。儀式を行うのは少なくともその後になるかもしれない。ゾハルは案外面倒なことに巻き込まれてしまったことにようやく気がつき始めていた。ブロンク博士もなかなかのやり手である。
「エデン、わたしは少し外を見てまわってくる。万が一ジャック・ザ・リッパーと鉢合わせすることがあれば奴を観察するいい機会だ」
何か武器を持っていくかというエデンの提案を断ってゾハルはニューロンドンの郊外のカフェとして作られたであろう建物を出た。そして、地図を見てウェストミンスター宮殿の方角へ向かって歩き出す。ほとんどまっすぐのわかりやすい経路だがおよそ4マイル程度の距離がある。徒歩で向かえば二時間はくだらない。とはいえ、今日そこまで行くつもりはない。あくまで現時点での脅威度の確認だ。
歩き始めてすぐに『警官』と出会ったが、前回の個体とは違って今回は長い棒状の槍のようなものを装備していた。工事現場の鉄パイプだろうか。相変わらずフラフラしながら、鉄パイプが重かったのか引きずりながら近づいてきたが、ゾハルはポケットから赤色の石を取り出して念を込めると、『警官』に向かって放り投げた。すると、その石が眩い光を放って爆発し、『警官』は木っ端微塵になった。ゾハルが子供の頃からもっとも得意とする「触媒魔法」だった。
優れた魔法使いは触媒を介さずとも自らの魔力だけで魔法を行使できる。だが、これは魔力の消費があまりにも大きい。なので、古来より魔法陣で魔力の消費と術式の行使を安定化させたり、人ならざるものの力を行使する際は儀式様式に則って正確な手順を踏むことで再現性を極限まで高めるのである。だが、もっと簡単な方法がある。それが触媒魔法だ。あらかじめ魔力との相性の良い素材に魔力や儀式術を込めておき、行使する際は最小の手順だけで済むようにしておく。こうすることで魔力を温存し、再現性の高い魔法を繰り出すことが出来る。だが、いくら良質な触媒を使おうと魔力の制御に難があれば魔法の質は下がってしまう。ゾハルは幼い頃よりこの触媒を魔力加工するのが最も得意だった。この分野に関してはゾハルの手腕は天才と名高い父をも上回っていた。ゾハルは質の悪い触媒であっても良質な魔法として使うことが出来た。本来なら宝石を使わないと出来ないような魔法をなんの変哲もない石に込めることすら可能だった。見たところこのニューロンドンでは良質な触媒を探している暇など到底なさそうだ。だが、ゾハルには研鑽を積んできた魔力加工の技がある。この閉じた地下空間であってもなんの心配もない。
テムズ川沿いに歩き続けて二十分程度経っただろうか。時折見かけた『警官』をパッタリと見なくなった。そして、霧が一段と深くなる。ゾハルは感じていた。異形なるものの気配を。
その矢先、ゾハルの後ろに黒い霧が集まり、そして襲いかかってきた。だが、その一撃はゾハルがあらかじめ張り巡らせておいた結界によって弾かれた。敵の姿は見えない。結界に対する手応えからいって霧のような存在からは想像もつかないような強烈な攻撃であることは明らかだった。この質量はどこから来るのか。ゾハルは手にした緑の石を放った。その後その場に猛烈な竜巻が巻き起こった。周辺の白い霧は吹き飛ばされたが、例の黒い霧はその場にとどまっていた。
「なるほど、単なる霧ではないわけだな。貴様がジャック・ザ・リッパーか」




