第13話 可能性の獣
英国首都の郊外地下深くに構築された、ヴィクトリア朝末期のロンドンを模して作られた街「ニューロンドン」 深い霧に覆われた煉瓦造りの建物が立ち並ぶ中、時折何かが激しくぶつかる甲高い金属音が響いていた。誰もいない不気味な街の空に瞬く光。人の目では追えないほどの速度でぶつかり合う二つのエネルギーがそこにはあった。一つはまごう事なき人間。そして、もう一つは黒い霧が人の姿を模っていた。
ゾハル•シモンズ•枢木は、一つ一つ自分の知りたいことを確かめながら戦っていた。現在対峙している存在―この街を実質管理している神園財団の使者エデンによれば、それはヴィクトリア朝末期にロンドンを震え上がらせたジャック•ザ•リッパーである―が、果たして実態を伴った存在なのか、霊的な何かなのか、そして倒すことが可能なのかどうか… 現時点ではゾハルには情報があまりにも足りなかった。だから、自分の中でチェックリストを作り、相手の正体を探りながら戦う道を選んだ。もちろん、普通の人間であればあっという間にジャック•ザ•リッパーに切り刻まれてしまっただろう。だが、ゾハルは手練れの魔術師である。近接攻撃が主体であると目されるジャック•ザ•リッパーの攻撃範囲の外で戦うことが可能なのだ。もしこれが不可能なほどジャック•ザ•リッパーが強かったら途方に暮れていたかもしれないが、今のところ間合いを無視して攻撃する手段を相手は持ち得ないようだった。
(やつの攻撃には確かな重さがある。実態存在であることは間違いなさそうだ。で、あれば…)
ゾハルはいくつかの触媒石を組み合わせ、巨大な炎の塊を作り出し、ジャック•ザ•リッパーに向けて放った。どう反応するか見ものであったが、どういうわけか直撃を喰らってジャック•ザ•リッパーは仰け反った。だが、別に痛みを感じているわけではなさそうだ。そのままゾハルに向かって斬撃を繰り出してきたが、ゾハルの周囲に貼られた結界が全ての攻撃を弾き返した。どうやらこのジャック•ザ•リッパーは知能が低いらしい。炎の危険性を認識することもなければある程度の質量を伴った攻撃を避けることすらしない。姿を現した時に言葉を発していたから知能のある存在かと思っていたが、この「ニューロンドン」と同じように紛い物の可能性が高まってきた。
「悪いな、ジャック•ザ•リッパー。あといくつかテストに付き合ってもらうぞ」
エデンは、古びたカフェの中でPCの画面を見つめていた。ゾハルが万が一のためにエデンを残していった通信手段である触媒石から発せられるストリームデータをデコードしてディスプレイに映し出していたのだ。とはいっても画面はかなり不明瞭でブロックノイズも酷かった。それでも、ジャック•ザ•リッパーとの戦いをこの目で見られる機会はそうそうない。エデンは画面に見入っていた。ゾハルにしてみればさしてジャック•ザ•リッパーは脅威では無さそうだった。まるで何かを確かめるかのように一手ずつ攻撃を繰り出し、相手の攻撃は結界や素早い動きでいなし続けていた。神園財団の人間では手も足も出なかったあのジャック•ザ•リッパーをものともしない。さすがマジェスティックトゥエルブが斡旋してきた現代最高峰の魔術師なだけはある。この勢いであの厄介な存在を倒してくれれば最高だったが、残念ながら話はそう単純でもなさそうだった。倒してしまえるのならばもう決着がついていてもおかしくないからだ。それほどまでに両者の間には実力差があった。だが、映像を見る限りゾハルは一つ一つ課題を用意してそれをクリアするかのように戦っている。おそらくデータの収集をしているのだろう。彼の行う儀式には並々ならぬ集中力が必要だと聞いている。万が一ジャック・ザ・リッパーを倒しきれない状態で儀式を行うことになった場合に備えて、二の矢三の矢を準備しておくつもりなのだろう。炎や風で敵を覆ってみたり、岩やエネルギー障壁で挟み撃ちにしてみたり、ありとあらゆる手でジャック・ザ・リッパーに攻撃を仕掛けていた。そして、もう試す必要がなくなったのか、ゾハルはジャック・ザ・リッパーに向けて巨大なエネルギーの球体のようなものを発射して、敵もろとも遠くへと吹き飛ばしてしまった。映像を仲介していた使い魔がゾハルの手に向かって静かに降りていき、そして映像は消えた。
その数十分後にゾハルはエデンの待つカフェへと帰ってきた。
「待たせたな、エデン。ジャック・ザ・リッパーとの戦闘はどうだった?」
涼しい顔で聞いてくるゾハルに感心しながらも、エデンは素直に答えた。
「まさかあそこまで実力差があるとは思いませんでした。貴方にも、貴方を紹介してくださったデトレフ・ブロンク博士にも感謝しなければなりませんね」
それを聞いたゾハルは、またもや顔色ひとつ変えずに言葉を返してきた。
「喜んでいる場合ではないぞ。あれはわたしからしてみればさほど脅威ではないが、倒す方法はわからないままだ。そもそも奴は実体存在でありながらおそらく生命体ではない」
エデンにはゾハルの言葉が理解できなかった。実体存在ではあるが生命体ではない?
「ああいった存在には覚えがある。エデン、君は可能性の獣のことを知っているか?」
ゾハルの言葉を聞いて、エデンはある仮説を思い出した。
古来より、世界中に実際には存在しない、いわゆる「幻獣」の物語が語られてきた。龍、不死鳥、グリフォン、ヒュドラ、一角獣… 神話や伝説には登場するが、現実世界では見ることのできないこういった存在は、かつて起きた神の怒りによる洪水から逃れるための方舟に乗せることが出来なかったから絶滅したとさえ思われてきた。だが、科学が発展し、この世の様々な物事が人間の理解可能な法則によって説明可能になった今でさえ、これら幻獣の魅力は全く衰えを見せない。このような人間の「想いの力」は強力だ。一人一人の想いの力は小さくとも、多くの人間が想いを寄せれば寄せるほど、言い換えれば「存在してほしい」という願いか強ければ強いほど、彼ら幻獣が存在しうる現実強度が増す。そして、ロア曲率が一定の値に達した時にそれは現出するのだ。
「理論としては聞いたことがあります」
ゾハルはそれを聞いてやや笑顔になった。
「さすがはこんな仕事に従事しているだけのことはあるなエデン。話が早くて助かる」
ゾハルが言うには、このニューロンドンにおいてジャック・ザ・リッパーの存在は異質すぎるとのことだった。都市内で行われている自動放送からもわかる通り、本来ここは人類救済の砦であったはずだ。街を彷徨く「警官」も、ところどころに現れる「医師」も、現在はどうであれ、元々は街を機能させるための存在である。だが、ジャック・ザ・リッパーは違う。あれは人間社会の闇であり、ノイズでしかない存在だ。少なくとも社会を乱す存在であることは間違いない。つまり、ニューロンドンにおいて創られるべきではない存在なのだ。だが、事実ジャック•ザ•リッパーは存在する。そしてそのニューロンドンは本来の目的を果たすことが出来ていない。これらがひと繋がりになった話なのかはまだ結論を出せないが、とりあえず今後の方針を定めるために、あのウエストミンスター宮殿を調査しなければない。それが、ゾハルが出した結論だった。
「エデン、今君が動かせる人数はどのくらいだ?」
そう聞かれてエデンは少し時間を置いて答えた。
「神園財団の私兵部隊ですぐ動かせるのはおそらく二十名程度ですね」
二十名。思っていたより多い。ゾハルは改めてエデンの所属する神園財団という組織の大きさを認識した。あとあと面倒なことになるかもしれない。だが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。あのジャック•ザ•リッパーがもし本当に「可能性の獣」であるならば、退けるのは簡単だが排除はかなり難しいだろう。殺したとしてもそう間をおかずに蘇ってくるだろうからだ。人の欲望は潰えることがない。
「よし、では精鋭を十名選抜して、明日ウェストミンスター宮殿に向かおう。途中でジャック•ザ•リッパーに遭遇した場合はわたしが対処する。だが、宮殿内では不測の事態が発生する可能性が高い。臨機応変に対応できるメンバーを選んでくれ」
そう伝えると、ゾハルは魔法の仕込みをするために別の部屋に行ってしまった。エデンはすぐPCに向かい、本部へと取り急ぎメールを送る。このカフェはゾハルの貼った認識阻害結界によって守られているが、明日はここに留まっているわけにはいかない。
エデンは故郷にいる家族のことを思った。それは、彼にしてみれば極めて珍しい事であった。




