そうめん
従者、ムツ視点です。
ツネハルさまが、優しく手を握ってくださる、その手があまりにも冷たくて肝が冷える。
唇の血を手の甲で拭った姿は落ち着き払って、胸が張り裂けそうに辛いのに、どうすることも出来ぬまま、ただの従者である己は指をくわえて見ているしかないという情けなさ。
大の大人が、しかも男が泣いていて、格好悪いことこの上もなく、今すぐにでも消えてしまえたらどんなにいいかと思った。
そうしたらば、これ以上弱っていくツネハルさまを見ることもない。
ツネハルさまは大人びていて、幼い方だ。潔く諦めるかと思えば頑固なところもある。
微笑みを浮かべて調子よく繕っても、動きが緩慢ですぐ気がつくと言うのに、懸命に元気な振りをする姿がいじらしくて、痛ましくて。
だから、ツネハルさまを唯一無二の主と慕っている。
下女が掃除を終えて出ていくと、
「ところで、どこへ行っていたんだ。まさか里へ下がっていたのか?お菊に何かあったのか?」
とツネハルさまが気にしてくださって、また涙が出そうになった。
血を吐いても、心配するのはいつも他人のことばかりで自分のことに関心がないのが、いつも不安で不満だった。
ツネハルさまが口にしたお菊というのは母の事で、ツネハルさまには乳母にあたる。
「いえ、母は元気です。里へ下がっていたわけではありません。京都まで」
「京都?それはまた、遠いところへ」
不思議そうな顔をするツネハルさまが、目でどうして?と聞いてきた。
それを言うのは少し躊躇われた。
少し恩着せがましく聞こえるかもしれない。
「…言えないことだったのか、すまない。立ち入ったことを聞いたな」
「いえ!そういう訳では…」
「…?あ、まさかあれじゃないだろうな。前に私が喉を通るものなら食べると言ったから、探しに?」
さすが、聡明なツネハルさまにはお見通しだ。驚いて「なぜわかったのですか」と聞き返すとツネハルさまはけらけら笑った。
「あら、本当だったの。鎌をかけてみたんだけれど。成果はあった?」
「はい。手に入りました。」
「そうか。食べたい」
「え…」
だから、気を遣わせてしまうから、言わないでおこうと思っていたのに。ツネハルさまの身体がもう食べ物を受け付けないに違いない。食べたくないと嫌がるツネハルさまに無理やり食べさせようとした自分が恥ずかしくて、出来るなら記憶ごとなくならないだろうかと思うくらいだった。
だから今度も、優しいツネハルさまのお気遣いだろうと思った。
「駄目なのか?私の為に手に入れてくれたのだろう?」
「ですが…」
暗に、食べられないのではないですかと言うと、ツネハルさまは、そんな意地悪を言わないでくれと口を尖らせる。
本当に食べられるのだろうか。
脳裏にはさっきの、苦しげに背を丸めて咳き込んでいたツネハルさまの姿が浮かぶ。
今のツネハルさまは確かに、顔に赤みが差して、苦しげな様子もない。
「無理、していませんよね」
「当然だ。むしろ、お腹が空いてきたんだよ。不思議だ。さっき血を吐いてしまったら、随分と息が楽になった」
そう言ったツネハルさまの顔がふと、翳る。
「どうなさいましたか」
具合が悪くなったのかと心配になって尋ねると、急に離れの桜を見に行きたいと言う。
なぜ、花の盛でもない、青葉の茂る桜が見たいのかと訝しむが、ツネハルさまの真剣な表情に、何も言えなくなった。
どうしようかと迷い、腰を浮かせかけては落としてとまごついていると、床が揺れて、二人分の足音が近づいてきた。険しい音に、ツネハルさまも眉をひそめる。
「兄上とアキムラだ」
ツネハルさまは確信がおありなようで、ナツサダ様とアキムラさまが戸を開け放つ前にそう言った。
穏やかでなく戸を開き、若干取り乱したようなお二人は、ツネハルさまが目を覚まして自分らを見ていることに、明らかに安堵し強ばらせていた肩の力を抜いた。
本当は騒がしくしたことに苦言を呈したいところだが、若君であるがゆえに己は沈黙している他なかった。
「どうなさいましたか、兄上」
「…ツネハル–––良かった、何事もないようだな」
噛み合わない会話に首を傾げる。
「…鼠でございますか?」
鼠、という語に身体が反応する。
知らず入り込む他家の間者を鼠と呼ぶのだ。間者のみならず、暗殺者もそう呼ぶ。
部屋の空気がピンと張ったのを感じ取って、ナツサダ様は一瞬キョトンとして頭を振った。
「いや、違う。まあ、その」
「あにうえ、おにわのさくらのきがきょうきゅうにかれてしまったので、ふきつのまえぶれかと」
アキムラさまの補足を聞いたツネハルさまは、眉尻を下げ、視線を落とした。
「–––私の代わりに、逝ってしまいましたか」
「っ!!」
誰もが息を飲んだ。
ツネハルさまの悲しげな微笑みは、寂しそうでいて嬉しそうで、記憶の桜を目の前に見ている、そんな目をして虚空を見つめた。
「夢で、桜が散るのを視ました。私がいない春は寂しいと言って。本当は、初め、桜は私を連れて行ってくれようとしたのですけれど、なぜだか置いていかれてしまいました。」
「ツネハルさま……?」
何を言っているのか、頭が理解を拒んだ。
それはアキムラさまも同じ気持ちらしく、呆然としていたが、ナツサダ様は口を引き結んで顔を落とした。思い当たることがあるようだった。沈痛な面持ちがそれを物語っている。
「兄上、来年の春、桜を見たいです。中庭にあった桜の本体が、どこかにありませぬか」
ツネハルさまは追及を拒んで、態と声を明るくした。
「屋敷の向こうの、小高い丘の上に立っている古木だ。きっと、来年、皆で行こう。ツネハルを連れていかないでおいてくれた礼を言わねばならん」
「みんなでですか!おでかけ!」
アキムラさまが歓声を上げる。
「では、その前に体の力を戻していただかないと。私が京都で手に入れたそうめん、召し上がりますか」
「もちろん」
控えていた小間使いに頼むと、厨の番人はさすが、体の冷える冷たいものではなく、湯気の昇る温かいそうめんを持ってこさせた。
「すごい。糸だ。」
ツネハルさまが目を輝かせる。
布団を重ねて、そこにもたれて体を起こし自力で食べようと箸を手に持つ。
箸を、糸の合間に滑り込ませてすくいあげる。糸はしなやかにくねって箸から逃げる。もう一度すくいあげても結果は同じで、つるつるの箸では滑り落ちてしまうらしかった。
「これはだいぶ、食べるのに難儀するなあ」
「そうですね。滑らない木のお箸を持ってこさせます」
小間使いに頼み、今度は木の肌がむき出しの箸を手に、ツネハルさまが糸束を挟み、持ち上げる。
「あ…」
やはり、全て落ちてしまうようだ。
「これは、確かに。喉をあっという間に滑り落ちていきそうだ。」
ツネハルさまが苦笑し、手渡して、食べさせてくれと言う。
嫌がっていたのに、意外にも躊躇いなく渡してきたことに驚く。
「ツネハルさま」
数本、あっけなく摘んで口元へ持っていくと、ちゅるちゅるん、と可愛らしいツネハルさまの口の中へと吸い込まれて消えていった。
「…ん、おいし」
ごくりと喉が上下して、ツネハルさまが笑う。
それからその器を平らげるまで、ちゅるちゅるとそうめんをすする音が、部屋に響いたのだった。