ムツ
重苦しい泥の中で、悲しく思いながら瞼を押し上げた。
きっとまだ死んでないと、息のしづらさが教えてくれる。
誰かがそばにいる気配を見た。誰だろう、とよく見る間もなく、大きな杯さえ満たしそうな血混じりの水を、咳と一緒に吐いてしまった。かなりな勢いで迸って、畳を汚した。
すると泥から顔を出したように急速に苦しさが遠のいていく。溺れていたのが、ようやく息を吸えるようになったような、開放感がある。爽やかな風が胸に吹き込んで今度は空気に溺れかけた。
横向きに噎せていると目の前の気配はムツらしいと気づく。目の前にムツの膝が揃えられていて、血がついていた。少し汚してしまったようだ。
「…ムツか」
ムツに手伝ってもらって体を起こし、ムツが手渡してくれた白湯を飲んで、咳は落ち着いた。
目の前にムツがいることが、何だか久し振りのような気がして、思わず目を下に落とす。
今の自分の醜態をどう説明したものだろうかと考えを巡らせた。
ムツは微動だにせずそこにいる。
背筋は伸びているが、うなだれて、別人かと見紛う険しい顔を曇らせている。
まるでこの世の終わりのようなざまに、何事かと怯んだ。不用意な発言はムツをきっと、ひどく傷つけてしまう。
「…ムツ、すまないが、誰か呼んでくれないか。掃除を頼みたい。」
とりあえず自分が吐いたものがそのままというのも気まずかったので、下女を呼ぶよう頼むと、ムツははっと我に返って今初めていることに気がついたような顔をした。
「ムツ、大丈夫か」
右手を伸ばすが、伸ばした手のひらに血がついていて、届く手前で下ろしてしまった。なんと言うか、見られるのが恥ずかしくて、手を握ってムツから見えないようにした。
するとムツが、魂の抜けた人のような生気のない声で言う。
「ツネハルさま。ツネハルさまは、いつもそうやって、ムツに隠していたのですか」
ムツがムツでなかった。
別物が入って操っているように、今のムツはムツとは違う。
「私は、もっと暢気に考えておりました。愚かな、救いようのない馬鹿者でした。……ツネハルさまの、ことを、何も知らずに」
「ムツ、私だって知らなかった。知らされなかったのだから、仕方がないよ。」
「私の仕事でした!いつもお側におりながら気がつけもせず、何が……っ」
「ムツ」
「ツネハルさまに頼られるような、従者でありたいと……それなのに、頼りない自分が腹立たしくて!」
「ムツ、私の声が聞こえるか」
とりあえず吐いた血の片付けをしたいと思いながら、ムツの言葉を止めてはムツが壊れてしまいかねない。どうにか無難に鎮められないかとムツの手を左手で取ると、高ぶって抑えられないのかムツの目からぶわっと涙が溢れて、取られていないほうの手で目元を覆った。
この純朴さが、大好きなのだ。
そして同時に自分を苦しめる。
いつだって自分のことを一番に考えてくれて、自分が幸せなら世界も平和とばかりに弱音を吐こうものならとことんまで付き合ってくれた。
「ムツを苦しめてばかりなのが、本当に心苦しい。ムツはよく仕えてくれた。何も悪くない。」
ムツは喉が潰れて話せないらしく、力なく首を振った。
「悪いのは私の方だ。隠し事をしていないつもりだったのだが、どうにも我慢癖がついてしまって抜けないんだ。ムツの信頼を踏みにじった。」
ムツが人生を捧げたように、自分はムツに何かを返せただろうか。いや、全く返せていない。誇れるような威厳があったかと言えば無いし、何から何まで話していたかと言えば具合の悪さは誤魔化せるときは顔の下に隠した。
「誠意が足らず苦しめてしまった。本当に頼りにしている。私の言葉に嘘偽りがないことを剣に誓う。だから、ムツがそんなに己を責めることはないんだ。」
ムツは一層、声をたてて泣くのだった。




