春の花
光もどこか浮かれているように、道端の草花をみずみずしく照らす春の陽は、まだ真新しく、昇ってそれほど経っていない。
遠く、まだ田植えをしていない裸の田んぼが広がり、ずっと奥で極小さな人が何やら立ち働いているのが見えた。
「もうすぐ着くぞ」
簾に手を差し入れて兄上が言う。
隙間から顔を覗かせると、遠くに見事な桜の木が、絢爛豪華に花をつけた枝を重そうに垂らしている。まるで簾のようだ。花のひとつひとつが薄紅色に輝いて、全体が淡く光っていた。
「…すごい!」
兄上は顔を綻ばせた。
「そうだな。中庭の桜と、どっちが綺麗だった?」
「同じくらい、艶やかです。同じ魂を持つ分身ですし」
昨年の夏に枯れてしまった桜の親木だ。もちろん、同じくらい美しい。
「アキムラたちはもう待っているのでしょうか」
「主様のお供をさせていただくんだったか。そうだな。そろそろ来るんじゃないか。桜の下にはまだ誰もおらんぞ」
「翠姫もだいぶん、行動力がおありになる。アキムラも、幼くても男なのですねぇ」
「いや、まだだな。翠姫はお気づきだが、アキムラはただ主様の御息女とお慕い申し上げているくらいにしか思っておらん」
「そうなのですか。てっきりアキムラが懸想しているのかと」
「はは、そんな器用なことはまだ出来まいよ」
籠が桜の下に下ろされた。
先に桜の下で赤い敷物を敷き、床几を組み立てていた先遣隊 (というほどのものでもないのだが)が紅い傘を立てて待っていて、さすがにそこまでしてもらうのは気が引けた。
兄上の差し出した手を取って籠から降りた。
「何だか、随分凝ったあつらえですね。」
「主様がお出でになるからな」
ああ、と思い至る。
早とちりで勘違いしたことが少し恥ずかしかったが、まだ口に出してはいなかったので良かった。
きっと自分はもっと粗末な布を敷いて座るのだろうと思っていたら、兄上に手を引かれたのはその床几の方だった。
「兄上、ここは主様のお席なのでは」
「いや、お前のだが」
主様のご座席は向こうが支度しているものがあるためいいのだそうな。
主様への敬意を払う為に上等なものを用意しただけのことだそうだ。あまり気を使うなと言われても、自分のようなものがここに座っていいものかと躊躇った。すると兄上が怒るので、大人しく座っていることにした。
少しして、主様と翠姫の籠も、たくさんのお供と共に到着なさった。
兄上と二人で立ち上がり、主様のお姿が見えた時跪いてお迎えした。
慌てて顔を下げた為にあまり拝見出来なかったが、物静かで厳かな空気を纏う人だということは何となく、満ちた空気から察した。
「夏定」
主様が側まで寄って、立ち止まった。
想像していたより高くて若々しい声だった。
「招いてくれて嬉しい。家族の団欒に水を差してしまうな」
「滅相もございませぬ。主様のお供をして花を見られるとは、これほどの喜びはございませぬ」
「やめろ、堅い。今日は無礼講だ。楽にせよ」
主様の無礼講という言葉に、兄上は平伏をといて顔を上げた。ならって、恐る恐る視線を上げる。
「恒春、初めて会うな。某は四条貴政と申す。」
目の前に、美しい若者がいた。
黒目は大きくきらきらとして、顎が細く、鼻はきゅっと細く通っていて、血色のいい薄い唇が紅を差したようだった。
女性だと言われた方がまだ自然だったかもしれない。
こんな人間を見たことは、今まで一度もない。それほどに清らかな容貌をしている。
これで三十路をとうに迎えられているのだから恐ろしささえ覚える。
「はっ、お初にお目にかかりまする。名を覚えて頂けているとは、不出来な我が身にはもったいないことでございます」
「…そんなことはない」
謙遜する主様はどこか居心地悪そうになさるので、恭しく扱われることをあまり好んでおられないようだと感激した。
主様がなんと隣に座り、明るく声色を変えて、気さくに話しかけてくださった。
因みに主様の向こう側で、翠姫とアキムラが仲睦まじく桜を見上げていて、とても気になるのだが、気を取り直して主様に意識を戻した。
「外に出られるということは、体の具合は良いのか」
「はい。おかげさまで、床を払うことが出来まして。」
「そうかそうか。心配したのだ。一時、どうやら危ないらしいと爺が騒いでおったのでな」
「申し訳ありませぬ、不甲斐ないばかりに」
「…不甲斐ないはずがあろうか。」
主様はそう言ったきり、ぼんやりとして、お供が差し出した水を飲んで、空を眺めた。
邪魔しては悪いと、こちらものどかな春の眺めを楽しむ。時折蝶が、空を横切った。
お忙しいのか、色々考えなければならないことを抱えていらっしゃるのか、隣に人がいるというのに、瞳はまさに虚無だった。
それからぽつりと「不甲斐ないのは某の方だ」とこぼした。
「我が子の生命の危機にも駆けつけられないと言うのに、なぜ、殿などと呼ばれているのだか」
独り言のようにぼそぼそとこぼした言葉は、後悔にまみれ、ひどく頼りなげな様子だ。そこに、主様と呼ばれる人はいなかった。
ただ痛みを堪えるように目を歪めた、若き麗人が目を伏せるばかりだった。
「某の力の至らないばかりに、苦労ばかりさせて、すまないな」
「なぜ、主様がそのようなことを仰るのです。助けて頂いてばかりで、いくらお返し申し上げようと足らないほどですのに」
「狸どもが皆、恒春のようであったらなぁ」
「狸、ですか」
「こちらの話よ」
快活に笑い、歯を見せたかと思えば、急に深刻な顔で首を振る。
だいぶん、お疲れのようで、胸が痛んだ。
少々心が不安定なようだ。
「…いかんな、こんな面白くもない話、花見の席に持ち込むにはいささか無粋だったな。仕切り直して楽しく騒ごう」
主様がお供の一人を呼び寄せ、お重を持ってこさせる。立派なそれは、開けるといなり寿司が詰まっていた。
「食べて、飲んで、楽しもう」
主様が優しく笑いかけてくださって、笑い返すと、どうしてだか一瞬、主様の目が潤んだように見えた。
すっかり大人びた恒春は、痛ましいほど痩せぎすでよく笑う青年になっていた。
よく溶け込む柔和な笑顔が、彼の身につけた処世術なのだとしたら、その原因の一端を作った自分はなんということをしたのだろうかと、初めて実感が湧いたのだった。
重すぎる荷を背負わされてなお、真っ直ぐに育ってくれた彼の健気さに目頭が熱くなった。
お重を広げて始まったどんちゃん騒ぎは、ちゃくちゃくと範囲を広げ輪の中には村人の姿もちらほら見受けられた。
臆することなく混じってこれる度胸のある者は、品に関わらず好ましい。己が黙認していればいずれ、遠巻きに眺めている者達も混じってくるだろう。
楽しいと、久しく感じていなかった心地が胸に満ちた。
楽しげな人を見ているのが、己が楽しむよりずっと幸せな気持ちにさせてくれる。
「殿」
「何だ」
愛娘の翠が、歳に似合わず作法通りに接してくるのが、驚きでもあり、寂しくもあり。
まだ子どもでいて欲しいと思うのはきっと親馬鹿なのだ。
「アキムラとつくしを摘みたいのですけれど、丘の下へ下ってもよろしいでしょうか」
「二人ではならんぞ。許さん。絶対。誰かを伴うなら、まあ許そう。」
「ふふ、承知致しました」
何だか、翠にはいつも見透かされているような気がして、我が娘ながら末恐ろしい。
秋叢はいい子だ。いい子だがしかし、娘はやらない。絶対。
夏定が従者たちと話している。従者は、普段従順にしている反動か、お酒が入ると饒舌になる。勧められて気を良くして、だいぶ酔いが回っているらしく、赤ら顔で笑いながら夏定相手に何やら熱く語っているようだった。
夏定は、気難しそうな雰囲気を持ちながら、実のところ誰の話もよく聞く好青年だ。従者たちはそうとわからぬうちに夏定の聞き出したいことを零してしまう。悪巧みではなく、主を気遣ってのことなので咎めはしないが、敵に回すと怖い男だ。狸の相手をすることにかけて、彼の右に出るものはない。
その輪から離れて、一人、恒春が純粋に花見をしていた。
頭上高くから垂れる枝を愛でながら、歩き回っては色々な角度から桜を眺める。そんな恒春のことを、話し込みながらも夏定はちゃんと視界に入れているらしい。時おりちらりと視線をやるのは、恒春が屈んだり、急に立ち止まったりした時だ。
主の手前、何かあったらと気が気でないのかもしれない。
「恒春や、花は好きか」
背後から近づく主にすら気が付かないほど夢中だったようで、声を掛けると青い顔をして振り返った。
「…し、心臓が止まるかとっ」
「な、なんと、それはすまぬ」
驚かせただけで死にそうになるとは、なんと脆くて危うい。気をつけなければ、と肝に命ずる。
「何か、御用で?」
落ち着いたらしい恒春がぎこちなく尋ねる。今は構われたくなかったようで、顔が引きつっていた。
「いや、一人では夏定が不安そうにしておったのでな。気分はどうだ。」
「とても良いです。お気遣い痛み入ります」
その後に、何事かぼそりと、恒春が呟いたので、聞き逃して何かと尋ねると、
「……何か、聞きましたか」
言葉を選んで、何かを聞き出したいような様子でもじもじとして、ちょっと抱きしめたくなる。
聞いた、と言えば、夏定から聞かされたことだろうか。
「…寂しい思いをしたのだな。大人の配慮が足らないばかりに、そこまで追い詰めてしまうとは、本当に何と謝ればよいやら…申し訳なかった」
「!!」
頭を下げた主を前に、恒春はまずぶんぶん頭を振って辺りを確認し、視界を遮るように、宴と自分の間に入り込んで来た。
「主様!何てことを!私ごときに頭を下げるなど、誰かに見られたら…」
また、いらぬ心配をしてか恒春が青い顔をする。彼の体に負担をかけないで話すことがこんなに難しいとは、夏定の苦労を思いやり同情した。
「…謝らせておくれ。己の勝手な罪滅ぼしだ。」
「どういう、ことでしょうか」
困惑と、恐れの入り交じった瞳を向けられる。
「身勝手で子を手放した親が、勝手に罪の意識に苛まれて、耐えられなくなったのだ。もう、知っているのだろう?夏定から聞いた」
「兄上が…?」
眉間にシワを寄せ、警戒心からくる棘を隠しもせずにこちらを軽く睨む。
「某の子だと、いつ気づいた?」
「……仰る意味が、わかりませぬ」
恒春は怒って、非難めいた目で何も言わずともこちらをなじっているのがよくわかる。
「私は相模恒春。相模 冬幹が次男、相模夏定を兄に持ち、相模秋叢を弟に持つ者でございます。」
恒春にとっては、それが全てであり、それ以外の事実などあってないようなものなのだ。今更、確かめられたところで、恒春にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
むしろ安穏とした日々を妨げるばかりの邪魔な事実だ。
痛感させられて、やはり覚悟はしていたものの目の前にすると堪えた。
「軽率な発言だった。すまない」
「…お分かり頂けたのなら幸いです」
恒春は、初めて会った時とは全く違う、仄暗い目で桜を見上げて「でも」と言う。
「でも、我が子だと仰って頂けたのは、素直に嬉しゅうございます。」
「…っ!」
きっと彼が求めたのは、希望だ。
己を捨てた親が、本当に嫌って手放したのか、身を切られる思いで手放したのか。
愛されていたのか、いなかったのか。
無理やり生まれさせられたのに望まれていないとしたら、その可能性を拭いきれぬままある日孤独を知ってしまったのだとしたら。
「私は、愛されているのですね」
はにかみながらそう言った青年を前に、情けないほど、涙が溢れて止まらなくなってしまった。
誰も、周りにいないのをいいことに桜に話しかけていたのを、よりにもよって主様に見つけられてしまったばかりか、心配されてしまった。
我が子とまで言わせて慰められている我が身の情けなさに、ずぅんと心が重く沈んだ。
やはり主様はお疲れのようで、どういうわけか慰めながら悲しくなってしまわれたらしく、驚く程に純粋な、綺麗な涙をはたはたと零す。
さめざめと泣く主様をお慰めしつつ、座るよう言って地面に直に座る。
単に疲れた。
主様を地面に座らせるのは申し訳なさでそれはもう凄かったが、ここでふらついてしまったら色々台無しだ。
こんなに繊細な主様のお相手をなさる人は、きっと心を砕かれていることだろうと思った。
これほどに繊細な方が、生きづらい世を渡ってきたのかと思うと、不安定さも頷ける。
誰かが支えなければ、そのうち折れてしまうかもしれない。
たまに御屋敷を訪い、お話したいと申し上げると、驚いて涙の止まった主様が、いつでも待っていようと盛りの桜のような可憐な笑みを浮かべるのだった。
覚束無い文章に付き合って頂きありがとうございました。多少、終わり方微妙かなとか、思いました。ムツ、出せなかったなーとか。思いました。
短編で、何か思いついたら載せるかもしれないです。




