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第一話:【渇望】スマホの光と、棚の奥の闇、5 月光の重石と、結ばれた手綱


嵐のような怪異が去った後の居間には、濃密な静寂が満ちていた。


 航太は、粉々に砕けたスマートフォンの残骸を、塵取りで丁寧に集めた。かつて自分を全能感で包み込み、そして飲み込もうとした情報の窓口は、今や光を失った無機質な硝子とプラスチックの破片にすぎない。それを捨てる際、指先に微かな未練が走るのを航太は感じたが、迷わずゴミ箱へと落とし込んだ。


パラパラと、砂を撒くような乾いた音がした。


 その瞬間、航太の心に巣食っていた、あの焦燥感のような渇きが、ふっと消えていくのが分かった。


「……おばあちゃん。俺、変だったよね」


航太が絞り出すように呟くと、節子は台所から、湯気の立つ湯呑みを二つ運んできた。


 お茶の、少し渋みのある香りが立ち上がり、部屋の生臭さを完全に上書きしていく。彼女は航太の隣に腰を下ろし、静かに、しかし力強くその背中をさすった。


「変じゃないさ。誰の心にも、あの大きなカエルは住んでいるんだよ。欲っていうのはね、生きていくためのガソリンみたいなもんだ。だけどね、アクセルを踏みっぱなしにしていれば、いつか車は壊れちまう。航太、お前は今日、自分でブレーキを踏んだんだ。それはね、どんな数字よりも価値のあることなんだよ」


節子の手は、冬の陽だまりのように温かかった。


 航太は、飾り棚に鎮座する青蛙神を改めて見上げた。


 カエルの顔は、居間の入り口を通り越し、さらにその先の、自分たちが今座っている食卓の方をじっと見つめている。月光がその鈍い金色の背中を撫で、北斗七星の紋様が、夜空の星々と密やかに呼応しているように見えた。


あんなに不気味だった三本足の姿が、今は不思議と、頼もしい守護者のように感じられる。


 カエルが口に噛み締めている一文銭。それは、無限に膨らもうとする欲望が外に漏れ出さないための「栓」であり、同時に、自分たちが「足る」を知るための境界線なのだ。


「朝は外へ、夜は内へ……だっけ」


「そうだよ。外でどれだけ戦っても、夜はこの静かな闇の中で、自分の心の手綱を緩めてあげなきゃいけない」


節子はそう言って、飾り棚に立てかけられていた破魔矢を手に取った。

先ほど、怪異の中でミシだリと(たわ)んだはずの矢は、今は何事もなかったかのように真っ直ぐ、清廉な姿で棚に戻されている。


航太は、自分の手のひらに残る、七星の縄の赤い痕を見つめた。


 痛みはもうない。だが、その痕は彼に教え続けている。自分を形作るのは、誰かが適当に付けた「いいね」の数ではなく、今ここにいる自分の呼吸と、目の前の温かなお茶、そして祖母と交わす静かな言葉なのだと。


ふと、窓の外から「ケロ」という、一際澄んだカエルの鳴き声が聞こえた気がした。


 それは、スマホのスピーカーから流れる合成音ではない、湿った土と水を感じさせる、生きた音だった。


「……明日は、スマホの修理、行かなくていいや」


「おや、いいのかい?」


「うん。しばらくは、この部屋の匂いをちゃんと覚えておきたいんだ」


航太がそう笑うと、飾り棚の奥でカエルの瞳が、まるで満足げに、一度だけ深く琥珀色に瞬いた。  


夜の帳が、家を優しく包み込む。


 かつて劉海が北斗老師から受け継ぎ、五通神を霊獣へと変えたあの知恵は、数千年の時を超え、今、一人の少年の心の中に、確かな「結び目」を作って定着した。


情報の嵐が吹き荒れる現代の片隅で、この古い木造家屋だけは、深い静寂に守られた聖域のように、明日を待つ。

 三本足のカエルは、今夜もその向きを変えることなく、主人の安らかな眠りをじっと見守り続けている。  


 ――朝が来れば、またカエルを外に向ける時が来る。


 だが、その時の航太の手は、もう以前のように震えてはいないはずだ。


 彼はもう、手綱の握り方を知っているのだから。


(第一話:【渇望】スマホの光と、棚の奥の闇 完)


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