第二話:【継承】北斗老師と、星を紡ぐ指、1 凍てつく天の川と、熱を失った官服
その山には、名前さえ拒絶するような峻烈な拒絶の気配があった。
北方の果て、天を突くように切り立った連峰の奥深くに座する、通称「星墜山」。そこは冬が来れば、呼吸をすることさえ肺を刃で裂かれるような激痛を伴う、極寒の静寂に支配された世界である。
劉海は、その雪の斜面を、死に体で彷徨っていた。
かつて宮廷で身に纏っていた最高級の絹の官服は、今や氷を吸って重く硬い鎧と化し、動くたびに「バリ、バリ」と不吉な音を立てて剥がれ落ちていく。その足元、刺繍の施された華麗な靴はとうに底が抜け、むき出しになった足指はもはや痛みさえ感じぬほどに黒ずみ、感覚を失っていた。
視界を埋め尽くすのは、狂ったように吹き荒れる白銀の塵――地吹雪だ。
上も下も、前も後ろも分からぬ。ただ、一歩足を止めれば、そのまま雪の結晶が肉を食らい、永遠の彫像へと変えられることだけは理解していた。
劉海は、凍りついた睫毛の隙間から、ぼんやりと空を仰いだ。
そこには、地上の地獄とはあまりにかけ離れた、無慈悲なほどに美しい星空が広がっていた。大気が凍りつき、一切の濁りが濾過されたその夜空には、北斗七星がまるで巨大な銀の柄杓を振りかざすように、青白い光を放っている。
「……数字だ。あの星の数さえ、私は数えようとしていたのか」
劉海の唇から漏れた溜息は、瞬時に白く凍り、虚空へ散った。
彼の脳裏には、いまだに都の喧騒が幻聴となって響いている。金貨が触れ合うジャラジャラという下卑た音、帳簿の上で躍る黒々とした数字の羅列、そして、それらを動かすたびに失われていった人々の命の重み。
ここには、彼が愛し、同時に憎んだ「富」の痕跡は何一つない。あるのは、ただ無機質な氷と、星々の冷徹な眼差しだけだ。
体温が、指先の端から一寸ずつ、確実に奪われていくのを感じる。
意識の輪郭が溶け、雪の上に崩れ落ちそうになったその時だった。
風の咆哮を切り裂いて、奇妙な「音」が聞こえてきた。
――カラン。
それは、金属と金属が微かに触れ合う、この世で最も清らかな、しかし重みのある響き。
凍土を打つその音に導かれるように目を凝らすと、地吹雪のカーテンが不自然に割れ、岩壁の合間にぽっかりと口を開けた、一軒の古びた庵が浮かび上がった。
庵は、まるで山の背骨の一部であるかのように岩肌に食い込んで立ち、その窓からは、この世のものとは思えぬ「銀色の光」が漏れ出している。
劉海は、残った生命力をすべて絞り出し、その光へと這い寄った。
木製の扉は、触れると皮膚が張り付くほど冷たかったが、彼がその身を投げ出すようにぶつかると、音もなく内側へ開かれた。
一歩、足を踏み入れた瞬間に、劉海の五感は激しい転換に襲われた。
外の狂気のような風の音は、扉が閉まった瞬間に完全に遮断され、代わりに満ちていたのは「熱」ではなく「静謐」だった。
部屋の中央、囲炉裏の代わりに据えられた巨大な石の釜から、蒸気ではなく、青白い燐光が立ち昇っている。
そしてその釜の傍らで、一人の老人が座していた。
老人の髪は、雪よりも白く、地面にまで流れるように伸びている。その背中は、幾千年の歳月を背負った亀の甲羅のように丸く、動かない。
だが、その指先だけは、驚くべき速さで動いていた。
老人は、空中に向かってその細く長い指を伸ばしていた。すると、天井の隙間から差し込む星の光が、まるで物理的な糸であるかのように老人の指に絡みつき、細い銀の糸となって紡ぎ出されていく。
劉海はその異様な光景に圧倒され、凍りついたまま言葉を失った。
老人は、振り返ることもなく、ただ一言、深く地を這うような声で言った。
「……重い影を背負った男が来たな。お前の肺には、都の金粉が詰まっている。その息をここで吐くがいい。すべてが凍りつく前に」
劉海は、その言葉に導かれるように、大きく息を吐き出した。
彼の肺から出た息は、真っ黒な煤のような色をして、床に落ちた瞬間にカチリと氷の粒に変わった。
老人が指先を動かすたびに、釜の中の一文銭たちが、また「カラン」と鳴る。
それは、劉海が今まで聞いてきたどんな黄金の音よりも鋭く、彼の魂の奥底に澱んでいた「欲の垢」を直接削り取るような響きであった。
星の光が紡がれ、銀色の縄が編み上げられていく。
劉海の修行は、この凍てつく静寂と、美しすぎる星の光の下で、静かに幕を開けようとしていた。




