第一話:【渇望】スマホの光と、棚の奥の闇、3 液晶の膿と、侵食される境界
おばあちゃんを呼ぶ自分の声が、妙に湿度を帯びて部屋に溶けていくのを感じながら、航太は再びスマホを手に取った。
返事はない。
居間の方で聞こえていたはずの半紙を折るカサカサという音も、いつの間にか止んでいる。家全体が、まるごと巨大な繭の中に閉じ込められたかのような、密閉された静寂。
ふと視線を落としたスマホの画面に、最初の「異変」が兆していた。
「……なんだ、これ」
液晶の表面に、身に覚えのない「染み」が浮き出ていた。
最初は指紋の汚れか、あるいは保護フィルムの間に気泡が入ったのだと思った。しかし、その染みは内側からじわりと広がり、七色の油膜のような光沢を放ちながら、投稿したカエルの写真の輪郭を侵食し始めている。
航太は慌てて画面を拭った。だが、布でこするほどに染みは濃くなり、まるで硝子の裏側で何かが「沸騰」しているかのように、小さな泡がプツプツと立ち上がり始めた。
その泡の一つ一つが、不気味なほど鮮明な「目」に見えた。
琥珀色の、瞳孔が縦に割れた無数の目。それらが画面の向こう側から、航太をじっと凝視している。
恐怖で指が止まる。すると、今度は耳の奥で、カチ、カチ、という乾いた音が響き始めた。
通知の音ではない。
それは、硬い金属同士が噛み合うような音、あるいは……古い硬貨が、誰かの口の中で転がされるような、生々しい金属音。
画面に表示されていたはずの「いいね」の数字が、猛烈な勢いで回転し始めた。
十、百、千、万。
カウンターは壊れたように速度を上げ、もはや数字としての意味をなさず、ただの光の線となって流れていく。それと同期するように、航太の心臓も激しく打ち鳴らされた。
――もっと。もっと寄こせ。
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。声というよりは、脳内に直接注ぎ込まれる、どろりとした執着の塊。
スマホが異常な熱を持ち始める。リチウム電池が発する熱を超えた、生き物の体温に近い、ねっとりとした熱気。
航太は耐えきれずスマホを畳の上に放り出した。
ボトッ、という重い音がした。
プラスチックと硝子の塊のはずなのに、それはまるで濡れた肉の塊を落としたような、不快な響きを伴っていた。
放り出されたスマホの画面から、黒い「霧」が溢れ出し、畳の目を這うように広がっていく。その霧は、古い家特有の埃っぽい匂いを塗り潰し、あの湿地帯を思わせる、強烈な生臭さと錆びた鉄の臭いを撒き散らした。
「おばあちゃん! ねえ、おばあちゃん!」
航太は叫びながら立ち上がろうとしたが、足が動かない。
見れば、自分の影が、まるで床に吸い付いたように重くなっている。いや、吸い付いているのではない。影の端が、畳を這う黒い霧と混ざり合い、糸を引くように繋がっているのだ。
影が奪われる。
かつておばあちゃんが話した、五通神の犠牲者たちの話が脳裏をよぎる。
視線を上げると、飾り棚の奥で、あの三本足のカエルが「変化」していた。
微動だにしなかった金属の像が、今や呼吸をしているかのように、その金色の腹を大きく膨らませ、萎ませている。カエルの皮膚を覆うイボの一つ一つが、スマホの画面に浮き出たあの「目」と同じように、爛々と琥珀色に輝き始めていた。
カエルの口に嵌まった一文銭が、ギリギリと音を立てて軋む。
それは、内側から溢れ出そうとする「何か」を必死に抑え込んでいるようでもあり、あるいは、重い枷を噛み砕こうとしているようにも見えた。
パシッ、と空気が弾けるような音がした。
飾り棚に立てかけられていた日光の破魔矢が、何の前触れもなく、中央からミシリと音を立てて撓んでいる。
目に見えない巨大な力が、この狭い部屋の中で、現代の光と太古の闇を力任せに引き絞っている。
「……欲しがったのは、お前だ」
今度ははっきりと聞こえた。
低く、地を這うようなカエルの声。
「お前が呼んだのだ。数に溺れ、形なき影を求めて、私を井戸の底から引き上げたのは……お前だ、航太」
部屋の電球が激しく明滅し、ついにはパリンと乾いた音を立てて割れた。
完全な闇が訪れるはずの部屋を、スマホの画面から噴き出す禍々しい七色の光と、カエルの置物が放つ鈍い金色の光が、斑に照らし出す。
航太は震える手で、何とか自分を繋ぎ止めようと畳を掴んだ。
だが、指先に触れたのは、い草の感触ではない。
それは、ひんやりとして粘りつく、巨大な両生類の皮膚のような、生々しい「手触り」だった。
境界は、すでに消えていた。
液晶という名の硝子板は、今や異界と現代を繋ぐ門として、大きく口を開けていたのである。




