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第一話:【渇望】スマホの光と、棚の奥の闇、2 数字の牢獄と、消えた「手触り」

第一話:【渇望】スマホの光と、棚の奥の闇

数字の牢獄と、消えた「手触り」


スマホの画面を伏せても、脳裏には網膜に焼き付いた残像が明滅している。航太は、じっとりと汗ばんだ手のひらを、色褪せたデニムの膝で拭った。


 この数ヶ月、彼の「日常」という言葉の意味は、根底から書き換えられていた。


かつての航太にとって、日常とはもっと平坦で、しかし確かな手触りのあるものだったはずだ。


 たとえば、通学路の途中に咲く名もなき花の色の変化や、部活帰りに友人たちと食べる、安っぽいアイスの喉を焼くような甘さ。あるいは、テスト前の図書室の、紙の粉っぽさと埃が混じった特有の静けさ。それらはすべて、彼自身の肌で触れ、鼻で嗅ぎ、心で感じた「自分だけの景色」だった。


しかし、今の航太にとって、それらの現実はもはや「素材」でしかなくなっていた。


 登校中、美しい朝焼けを見ても「綺麗だ」と思う前に、脳が勝手に画角を計算し、フィルターの強度を選別し、どんなキャプションを添えれば反応が良いかを弾き出す。友人の何気ない冗談も、共有して「バズる」ためのエピソードとして消費され、純粋な笑いはそこから抜け落ちていく。


 彼の世界は、液晶という薄い硝子板一枚を隔てた「展示場」へと変質してしまったのだ。


(俺は、何のためにこれをやってるんだ?)


時折、そんな疑問が脳裏をよぎる。しかし、一度味わった「数字が跳ね上がる快楽」は、理性の声を容易く踏みにじった。


 一万回の「いいね」は、自分という存在が肯定されたような錯覚を抱かせる。だが、翌朝にはその一万回の称賛は過去の遺物となり、さらなる飢餓感が襲ってくる。それは、どれだけ食べても満たされない、底の抜けた器に水を注ぎ続けるような行為だった。


航太は、背後に横たわる祖母、節子の静かな気配を感じた。


 彼女は今、居間で明日のお供えものの準備をしているのだろう。カサ、カサと、乾いた半紙を折る音が聞こえてくる。その音は、航太が生きているデジタルの喧騒とは、全く別の時間軸から響いているように感じられた。


「航太、少し休んだらどうだい。ずっとその光る箱を見つめていると、目が腐ってしまうよ」


いつものように穏やかな、しかし鋭い祖母の声。


 航太は不機嫌さを隠そうともせず、「分かってるよ」とだけ短く返した。


  節子は、この家を「節度」という名の結界で守っているような人だった。


 朝は決まった時間に起きて縁側を掃き、仏壇に水を供える。夜は決まった時間に戸を閉め、テレビも消して、ただ闇を受け入れる。そんな彼女の生活を、航太は「古臭い」「退屈だ」と切り捨ててきた。


 しかし、今、自分の内側で暴走する「渇望」という名の化け物を前にして、彼は祖母の持つその「揺るぎなさ」に、無意識のうちに恐怖と憧れを抱いていた。


航太の回想は、数年前、この家で過ごした夏休みの夜へと遡る。


 当時はまだスマホも持っておらず、ただおばあちゃんの話を聞くのが好きだった。あの時、彼女はこの飾り棚のカエルについて、こんな話をしていた。


『いいかい、航太。このカエルさんはね、もともとは悪い魔物だったんだよ。人の欲を食べて、もっともっとと欲しがる心を、金の鎖で繋ぎ止めるような、怖い神様だったのさ』


幼かった航太は、「どうしてそんな怖いものを置いておくの?」と尋ねた。


 節子は、カエルの置物を磨きながら、ゆっくりと答えた。


『欲っていうのはね、捨てることはできないんだよ。人間が生きていくためには、何かが欲しいと思う力が必要なんだから。でもね、欲に振り回されたらおしまいさ。だからこのカエルさんは、私たちに「手綱」の引き方を教えてくれているんだよ』


手綱の引き方。


 その言葉の意味を、当時の航太は理解できなかった。ただ、口に銭をくわえたカエルの、どこか苦しげで、同時に誇らしげな横顔を不思議そうに見つめることしかできなかった。


回想から引き戻された航太の視線の先には、現在の「欲望」の道具であるスマートフォンが、静かに横たわっている。


 このデバイスは、世界中の欲望を増幅させ、瞬時に自分へと届ける。それは、かつて節子が話した五通神が吐き出す「黄金の霧」そのものではないか。  


 かつての日常にあった「手触り」を失い、代わりに無限の「数字」を手に入れた航太。


 彼は今、自分が立っている場所が、深い湿地の入り口であることに気づき始めていた。


 スマホのバイブレーションが、畳を伝って震える。


 ブ、ブッ。


 その規則的な震えは、あたかも棚の奥に潜む三本足のカエルの、低い鼓動と重なったように感じられた。

窓の外では、完全に陽が落ち、カラスの鳴き声も絶えた。


 静寂が重くのしかかる。


 航太は、自分の「欲」が、自分自身の形を歪め始めているような、奇妙な感覚に襲われていた。  鏡を見ずとも分かる。今、自分の目は、あのカエルの置物と同じように、獲物を狙う琥珀色の光を宿しているはずだ。


「……おばあちゃん、あの話、もっと詳しく教えてよ」


航太は、自分の声が微かに震えていることに驚いた。


 それは、飢えた獣が助けを求めるような、あるいは深い井戸に落ちた者が、空を仰いで上げる叫びのようでもあった。  


 日常の皮を被った「渇望」の物語が、ここから静かに、その本性を剥き出しにし始めようとしていた。




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