第五話:【円環】朝は外へ、夜は内へ、3 受け継がれた帳簿:おばあちゃんの告白
スマートフォンから溢れ出した、あの真鍮色の禍々しい霧が、おばあちゃんの「古い紐」によって鎮められた翌朝のことである。
航太は、朝日が眩しいほどに差し込む居間の座卓で、昨夜の狂騒が嘘のように静まり返った金色のカエルを前に、呆然と座っていた。
昨夜、スマホの画面越しに自分を飲み込もうとしたあの「底なしの渇望」の感触が、まだ指先に張り付いているような気がして、航太は何度も自分の手を握りしめた。
そこへ、盆に載せた温かいほうじ茶を運びながら、節子おばあちゃんが静かな足取りでやってきた。いつもの柔和な笑みを浮かべてはいるが、その瞳には、昨夜の「鋼の意志」を湛えた鋭い光が微かに残っている。
「……航太、よく眠れたかい」
「……あんまり。おばあちゃん、昨日のあれ、一体何だったの? あの紐は? それに、カエルの向きがどうとか……」
航太が震える声で問いかけると、節子は静かに頷き、仏壇の奥から一冊の古びた和綴じの帳簿を取り出してきた。それは、経年劣化で飴色に変色し、角が擦り切れた、重みのある一冊だった。
「これはね、幕末に横浜で商売をしていた、おばあちゃんのじいじが書き残した『備忘録』だよ。昨夜、あんたが飲み込まれそうになったのは、このカエルさんに宿る『五通神』という名の古い、古い魔性なんだ。そして、あの紐は……」
節子おばあちゃんは、震える指で帳簿の最後の頁を捲った。
そこには、昨夜航太が見たものと同じ、不気味なほど写実的な「三本足のカエル」と、それを囲む不思議な「計算式」のような数字の羅列、そして一人の男の名が記されていた。
「劉海……。千年以上も昔、大陸でこのカエルさんを釣り上げた仙人様の名前だよ。じいじ(節子の祖父)の夢に現れて、このカエルさんと、欲を飼い慣らすための作法を教えてくれたんだって」
おばあちゃんの声は、まるで遠い過去から響いてくる予言のように、静かに航太の胸に染み渡っていった。
彼女は、曾祖父(節子の父)がこのカエルを売ろうとして家を滅ぼしかけた昭和初期の出来事を、まるで昨日のことのように語り始めた。
「あの時もね、昨日と同じ真鍮色の霧が家中を埋め尽くしたの。父さんはね、『これさえ売れば金になる、もっと大きな商売ができる』って、ただそれだけを叫んでいた。その姿は、もう私の知っているお父さんじゃなかったわ。数字という怪物に、中身を全部食べられてしまった後の、空っぽの抜け殻みたいで……」
節子は一度言葉を切り、遠い目をして続けた。
「その時、じいじが叫んだの。『劉海仙人、清算し給え!』って。そして、カエルの喉からあの銀色の縄――劉海様が封じるために飲み込ませた『七星の縄』を引き出して、カエルさんを縛り上げたのよ。一瞬で霧が晴れて、父さんはその場に泣き崩れたわ」
「おばあちゃん……。じゃあ、昨日のあの紐も、その時の……?」
「そうだよ。代々、命懸けで守ってきた『安全装置』。でもね、航太。縄よりも、じいじが最後に教えてくれた『向き』の教えこそが、この家を今日まで繋いできた本当の結界なんだ」
節子は立ち上がり、飾り棚にあるカエルの向きを、ゆっくりと航太の方へと向け直した。
「朝はカエルを『外』へ向けなさい。それは、新しい縁や福を釣り上げるため。でもね、日が落ちたら必ず『内』へ向け直すの。外で稼いだ金も、外で浴びた称賛も、そのままにしておけば毒になる。夜になったらそれを一度全部リセットして、自分の心の向きを、この家という小さな、でも確かな『幸せ』へ戻さなきゃいけないんだよ」
航太は、自分の部屋にあるスマートフォンのことを思った。画面の向こうには、際限のない情報の波、他人との比較、そして「もっと欲しい」という乾いた渇望が、二十四時間休むことなく渦巻いている。
現代の五通神は、石像の中に眠っているのではなく、デジタルの光となって、常に私たちの心の「向き」を外へ、外へと固定しようとしているのだ。
「おばあちゃん、僕……昨日の夜、カエルの向きを無視して、ずっと『外』ばっかり見てた。画面の中の数字が、自分の価値だと思っちゃったんだ」
「いいんだよ、航太。誰だって、釣り上げた黄金の輝きには目を奪われる。劉海様だってそうだった。大事なのはね、それに気づいた時に、自分の手で向きを変えられるかどうかだよ」
航太は、おばあちゃんから帳簿を受け取った。
そこには、劉海の最期の願いとして『新たな一を数える者』という言葉が刻まれていた。
(欲を消すんじゃない。欲というカエルを、自分の心の縄で繋いで、正しく座らせるんだ……)
航太は立ち上がり、静かに自分の部屋に戻った。
机の引き出しから、熱を持ったまま放置されていたスマートフォンを取り出すと、迷いなくその電源を切った。真っ黒な画面に、自分の顔が映る。
そして、航太は飾り棚の前に立ち、そこに鎮座するカエルの置物を、両手で丁寧に持ち上げた。
「……ありがとう、劉海さん。そして、おばあちゃん」




