第四話:【漂泊】黄金の稲穂、カエルの涙、5 空っぽの掌と、夜を越える風
村を遠く離れた街道の果て、東の空が白み始める頃、劉海は古びた石橋の袂で力尽きたように座り込んだ。
指先の感覚は依然として戻らず、全身の関節が錆びついた機械のようにきしんでいる。だが、彼の胸の奥には、官僚時代には決して味わうことのなかった、奇妙な「軽やかさ」が満ちていた。
懐からそっと、金色のカエルを取り出す。
激闘の末に輝きを失い、石のようになっていた霊獣は、劉海の血の熱を分け与えられたことで、ようやく柔らかな皮膚の感触を取り戻していた。カエルはまだ深く眠っているようだったが、その背中が小さく上下するたび、微かな、しかし力強い生命の音が静寂の中に溶けていく。
「……五通。お前は、自分が何をしたか分かっているのか」
劉海は、朝露に濡れた自分の掌を見つめた。
かつては万の民を救うために一を切り捨て、完璧な数式を組むことだけが救いだと信じていた。だが、この夜、劉海はたった一匹のカエルの涙に応えるために、己の命さえも天秤の皿に乗せた。
計算は成立していない。論理的な効率で言えば、一人の仙人候補が名もなき小村のためにこれほどの代償を払うのは、完全な「赤字」だ。
だが、その赤字こそが、今の劉海にとっては誇らしかった。
「数字の合わない人生というのも、悪くないものだな」
劉海は、腰の「七星の縄」を解き、丁寧に巻き直した。
縄に染み込んだ血は、すでに乾いて深い赤黒い色に変色している。それは、天の理を説くだけの清らかな法具が、地を這う者の「情」を吸い込み、真に人の運命を繋ぎ止める「絆」へと進化した証左でもあった。
ふと見れば、あの少女がくれた野花が、ボロボロになりながらも劉海の帯に挟まっていた。
花びらは散りかけ、色も褪せている。
五通神が振り撒いた黄金の呪いの中でも、この花だけは劉海の体温に守られ、真鍮に変わることなく「花」としての寿命を全うしようとしていた。
劉海はその花を抜き取ると、そっと風に逃がした。
舞い上がった花びらは、朝焼けの光を透かしながら、まだ眠る村の方へとゆっくりと流れていく。
村人たちは目覚めれば、昨夜の惨劇を「奇妙な悪夢」として忘れてしまうだろう。自分たちがなぜ正気に戻れたのか、誰がその負債を肩代わりしたのか、知る由もない。それでいい、と劉海は思った。
感謝も、報酬も、名声も。そんなものは、これから彼が進む道には不要な重荷だ。
肩の上で、カエルが「ふにゃ……」と頼りない声を出して身じろぎした。
ゆっくりと開かれた琥珀色の瞳が、主人である劉海の顔を捉える。カエルは少し気恥ずかしそうに、自分の三本目の足で顔を拭うと、再びいつものように、劉海の首筋へと器用に登ってきた。
「ケロ」
短く、しかしどこか晴れやかな鳴き声。
それは、奪い合う怪物から、誰かを守るための霊獣へと生まれ変わった、新しい産声のように聞こえた。
劉海は竹杖を突き、ゆっくりと立ち上がった。
足取りはまだ覚束ないが、その瞳は真っ直ぐに、朝日の射す北の空を見据えている。
黄金の稲穂は、もう彼の心を惑わせることはない。
一文銭を弾き、欲を釣り、星の光で縁を編む。
漂泊の旅は、これからさらに深く、厳しく、そして豊かなものになっていくだろう。
背後で、完全に日が昇った。
広大な大地を照らし出す光の中で、一人の男と一匹のカエルの影が、長く、どこまでも伸びていった。
その歩みの先に待つのが、さらなる試練であれ、束の間の安らぎであれ、劉海の指先が再び冷たく凍りつくことは、二度とないはずだだろう。
(第四話:【漂泊】黄金の稲穂、カエルの涙 完)




