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第四話:【漂泊】黄金の稲穂、カエルの涙、4 豊穣の葬列 ― 欲の連鎖を断つ銀の糸


村の中心へと駆け戻った劉海を待っていたのは、静寂の中に潜む「狂気」の完成形だった。


先ほどまで実りの象徴であった稲穂は、もはや植物としてのしなやかさを完全に喪失していた。それは「真鍮の墓標」と化し、地表を埋め尽くしている。村人たちは、その不自然なまでに重く硬い穂を抱き抱え、互いに突き飛ばし、殴り合いながら奪い合っていた。


農夫たちの声は、豊かな笑い声とは似ても似つかない、飢えた獣の咆哮へと成り果てていた。彼らが奪い合うたびに、硬質化した穂先が皮膚を裂き、血が流れる。


しかし、その血さえもが地面に染み込む前に、冷徹な「金粉」へと変わっていく。村全体が、生物の体温を拒絶するような、巨大な「金属の檻」へと作り変えられようとしていた。


その光景の特異点は、村の象徴であった古木の直上に浮かんでいた。


 実体のない、半透明の「巨大な算盤」の幻影。


それは空中に数千の珠を並べ、パチパチと耳を劈くような速度で弾かれ続けている。人々の欲、憎しみ、そして奪い合いの総量を、非情なデジタルな数値として集計し、この異界を維持するためのエネルギーへと変換しているのだ。


「五通、これが……お前が過去に撒き散らした『因果の種』の正体か」


劉海の肩で、カエルが悲痛な叫びを上げた。


 この村を襲っているのは、外部から侵入した怪物ではない。かつて五通神が世界に溢れさせた「際限なき強欲」の胞子が、収穫というきっかけを得て、村人たちの心の奥底にあるエゴイズムと共鳴し、発芽したのだ。


『……劉海よ、無駄だ。数えることをやめたお前に、この膨大な債務は支払えぬ』


空中から響く嘲笑の声。歪んだ空間そのものが、巨大な五通神の口となって、村全体を資産データとして飲み込もうと収縮を始める。


 劉海は七星の縄を解き放った。


 銀色の閃光が空中を裂き、幻影の算盤を叩き壊そうとする。しかし、縄は物理的な質量を持たない「欲の概念」を、虚しく通り抜けるだけだった。


「くっ……観念の調伏は、北斗の力をもってしても容易ではないか!」


劉海の足元まで、死の変質が迫る。


 そこには、野花をくれたあの少女がいた。彼女は形相を変え、道端に落ちた金属の稲穂を、両手で壊れ物を扱うように、しかし狂おしく握りしめていた。その瞳からは、花を愛でた時の無垢な輝きは消え、ただ「足りない」という空虚な絶望だけが張り付いている。


「おじちゃん……これ、私のなの……誰にも渡さない……!」


少女の細い指先に金属の鋭い角が食い込み、血が滴る。


だが、その血すらもが彼女の体温を奪いながら、硬い金の装飾へと変質していく。このままでは、彼女自身が動かぬ彫像へと変わり果ててしまう。


その時、劉海の掌の中で、カエルが激しく熱を帯びた。


 カエルは自ら劉海の掌から飛び降り、真鍮の海の中へと、迷うことなく突き進んでいく。


「五通! 戻れ、その質量に潰されるぞ!」


だが、カエルは止まらない。


 カエルは積み上がった金属の山の頂点に立つと、天を仰いで、これまでで最も長く、最も深い鳴き声を上げた。


 琥珀色の瞳から、大粒の黄金色の涙が溢れ出し、それは濁った真鍮の稲穂を濡らしていく。  


 ――カエルの涙。


 それは、かつて怪物を支配していた「奪う欲」が、劉海との旅を経て「分かち合えぬ悲しみ」へと昇華された証だった。


 涙が触れた場所から、金属の穂が、静かに「本来の柔らかい稲藁」へと戻り始める。しかし、その浄化の代償として、カエルの小さな体からは、みるみるうちに金色の輝きが失われ、冷たい石のような灰褐色へと変わっていく。


「……お前、自分を削ってまで、この帳簿を閉じるつもりか。かつてお前が負わせた傷を、自らの命で埋めようというのか」


劉海は、カエルの覚悟を察した。


 この村を覆う欲を鎮めるには、外部からの力ではなく、内側からの「清算」が必要なのだ。カエルは自らがかつて世界に撒いた負債を、自らの命を担保にして、一気に買い戻そうとしていた。


「させるか! お前一人の犠牲で成立するような計算、私が認めん!」


劉海は再び縄を手に取った。だが、今度はそれを幻影に向けるのではない。

 彼は自分の指先を、鋭い金属の穂で深く切り裂いた。


 溢れ出す赤い血を、七星の縄に塗り込む。


 銀色の星光と、赤い血の熱が混ざり合い、縄は不気味なほどの「なまの拍動」を放ち始めた。


「五通、私がお前の計算を肩代わりしてやる!


 北斗第一星から第七星まで……天の理をもって、この村の負債を『全額、私が支払う』!」


劉海は縄を天高く放り投げた。


 縄は空中で巨大な円を描き、村全体を包み込む「銀の天秤」へと姿を変える。


 劉海は、かつて都で磨き上げた「超人的な数理能力」のすべてを、今、この瞬間に解放した。


 一村全住民の欲の総量。

 隣人への嫉妬の重さ。

 未来への不安という名の余数。


 それらすべての負の変数を、自分の脳内に取り込み、一枚の「罪の一文銭」の中に凝縮させていく。


凄まじい情報の奔流が、劉海の精神を焼き切ろうとする。


 鼻から、耳から、鮮血が噴き出す。


 しかし、彼の指先は、かつて算盤を弾いた時よりも速く、星の糸を編み続け、複雑に絡み合った因果を解きほぐしていった。  


 一を足し、万を掛け、そして自らの命という「無限」で割る。


「……解けたぞ。五通神の残滓、その支配の方程式は……ここで『ゼロ』に帰す!」


劉海が虚空で指をパチンと鳴らした瞬間。


 天から降り注いだ七星の光が、村を埋め尽くしていた金属の稲穂を、一気に「光の塵」へと分解した。  


 パリンッ!  


 幻影の算盤が粉々に砕け散り、歪んでいた空間が本来の静寂を取り戻す。  


村人たちは、糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。彼らの手から冷たい真鍮は消え、代わりに残ったのは、香ばしい匂いを放つ「本物の、実り豊かな稲穂」だった。


劉海は、膝を突き、激しく喘いだ。


 視界が真っ赤に染まっている。


 その中を、小さな影が這い寄ってきた。  


 カエルだった。


 金色の輝きを完全に失い、ボロボロの石細工のようになったカエルが、最後の力を振り絞って劉海の掌に頭を乗せた。その瞳には、もはや欲の琥珀色はなく、ただ、一仕事を終えた職人のような、安らかな光が一点だけ灯っていた。


「……バカ野郎。せっかく北へ向かおうとしたのに、とんだ大赤字じゃないか」

劉海は、震える手でカエルを包み込んだ。


 自らの血を含んだ七星の縄から、微かな生命の脈動がカエルへと流れ込む。


 カエルの皮膚が、ゆっくりと、淡い、柔らかな金色を取り戻し始めた。完全な復活ではない。だが、その命の火は、確かに再び灯った。


夜の帳が下りた村に、静かな、本当の秋の風が吹き抜ける。

 農夫たちは、長い夢から覚めたような顔で立ち上がり、互いの手のひらの温かさを確かめ合っていた。  

 劉海は、少女が意識を取り戻す前に、カエルを懐に押し込み、闇に紛れて再び村を後にした。

 背後で、少女が「おじちゃん……?」と微かに呟く声が聞こえた気がしたが、劉海は振り返らなかった。  

 収穫を待つ稲穂の海は、今はただの黒い波となって、月光の下で静かに揺れている。  

 彼の旅の帳簿に、また一つの大きな「貸し」が刻まれた。

 だが、その対価として得たのは、カエルの小さな寝息と、翌朝には忘れ去られるであろう、名もなき平和の味だった。

 劉海は、血の混じった唾を吐き捨て、今度こそ真実の北へと向かって、よろめきながらも歩き出した。


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