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第四話:【漂泊】黄金の稲穂、カエルの涙、2 握りしめた「一文」の温度と、冷たい官舎の記憶


旅の夜は、いつも静かだ。


 村外れの廃寺や、時には大きな木の下で野宿をすることも珍しくない。


焚き火の爆ぜる音を聞きながら、劉海は肩から降りて膝の上で丸くなっているカエル――五通神の成れの果て――をそっと撫でる。


 カエルの皮膚は、昼間の陽気を吸い込んで微かに温かい。その一定のリズムで繰り返される鼓動を感じていると、劉海の意識は、かつての自分の「日常」へと引き戻されていく。


それは、太陽の光さえも石壁に拒絶された、都の度支部の官舎での日々だ。


当時の劉海にとって、一日は「計算」で始まり、「清算」で終わった。


 早朝、蝋燭の火がまだ青白い頃に起床し、彼はまず自分の指の状態を確かめる。算盤を弾く指先に、一切の迷いがあってはならない。冷たい水で手を洗い、指の関節を一つずつほぐす。それが彼の、聖域に入るための儀式だった。


 執務室に入れば、そこには昨日までに処理しきれなかった膨大な帳簿が、まるで死者の山のようにもたれかかってくる。劉海はその山を、一片の感情も交えず、一文字ずつ「処理」していった。


(北方の飢饉……救済米、五千石。運搬コストを差し引けば、実際に届くのは三千石。これでは一村を見捨てることになるが、予算の枠を超えれば国全体の均衡が崩れる。よって、却下)


その決定を下す時、彼の心は凪のように静かだった。彼は「正しい」ことをしていると信じていた。一人の村人の命よりも、国家という名の巨大な機構の「健康な数値」を守ること。


それが、最高のエリート官僚としての誇りだった。


 食事もまた、彼にとっては単なる効率的な栄養摂取に過ぎなかった。


 最高級の米を、最高級の器で食べる。しかし、そこに「味」はなかった。隣で語らう同僚たちの声も、彼にとっては情報のノイズでしかなかった。彼は、他人の心の機微に触れることを極端に嫌い、自分自身の心もまた、冷たい数字の殻に閉じ込めていたのだ。


そんなある日の夕暮れ時、官舎の裏門で、一人の老婆に呼び止められたことがあった。


 老婆は泥にまみれた手で、劉海の絹のはかまを掴もうとした。衛兵がそれを遮ろうとしたが、劉海はなぜか、その時だけは足を止めた。


「何か」


「役人様、お願いでございます。孫が、孫が病で……。この一文銭を、どうか。これだけでは薬も買えませぬ。どうか、お慈悲を……」


 老婆が差し出したのは、文字も潰れかけた、磨り減った一文銭だった。


 劉海はその銭を、鑑定士のような冷徹な目で見つめた。


「この銭は、すでに規定の重量を満たしていない。市場価値は皆無だ。そのようなものを私に差し出すのは、国家に対する侮辱である。……捨てなさい」


 彼は老婆の絶望を「数値不足」として切り捨て、そのまま歩き去った。


 その夜、官舎に戻った彼は、自分の指先が妙に冷え切っていることに気づいた。どれほど火に翳しても、どれほど厚い布団に包まっても、その一文銭を拒絶した指先だけが、氷のように冷たかった。


――ケロ、と。


 膝の上のカエルが鳴き、劉海の回想を遮った。  


 カエルは劉海の掌に自分の顎を乗せ、まるで「今はどうだ?」と問いかけているように見えた。


 劉海は苦笑し、道中で農婦から分けてもらった握り飯を二つに割った。


「五通。お前も、あの頃の私に似ていたんだろうな。どれだけの宝を手に入れても、その『感触』を味わうことを忘れていた」


 カエルは飯の欠片を器用に食べ、喉を鳴らす。  


 今の劉海の日常は、かつての対極にある。


 朝、鳥の声で目覚め、川の水の冷たさに驚き、土の匂いで天気を知る。


 旅の空の下では、一文銭の価値は「規定の重量」ではなく、それで何人の笑顔が見られるか、に変わっていた。  


 ある村を通った時のことだ。


 劉海は、橋の修繕が滞っているのを見かねて、自ら懐の銭を差し出し、村人たちと共に石を運んだ。


 官僚だった頃なら、そんな「非効率な肉体労働」は下役の仕事だと一蹴していただろう。だが、冷たい川の水に浸かり、重い石に指を挟まれ、泥にまみれて汗を流した時、劉海は数年ぶりに自分の指先が「熱い」ことを知った。


 完成した橋を渡る子供たちの歓声。その時、村の一長から手渡されたのは、あの老婆の銭と同じように磨り減った一文銭だった。


「道士様、これは村の皆からの感謝です。どうか受け取ってください」


 劉海はその銭を受け取り、まじまじと見つめた。


 数値としては、やはり不足している。だが、そこには、かつての官舎の豪華な食卓では決して得られなかった、圧倒的な「生の重み」が宿っていた。  


 カエルは、劉海が大切に持っているその磨り減った一文銭を、時折羨ましそうに見つめる。


 五通神という怪物が求めていたのは、無限に増殖する「記号」としての金だった。


 だが、霊獣となった今、このカエルが学んでいるのは、一枚の銭を介して通い合う「心の体温」なのだ。  


 劉海は、焚き火の最後の一片が灰になるのを眺めながら、ゆっくりと横になった。


 官舎の硬い石の床よりも、土の上の草の枕の方が、ずっと深く眠れることを彼は知っている。


  (私は、多くのものを捨ててきた。地位も、名誉も、完璧な帳簿も……)  


 だが、その代わりに得たものは、指先から伝わるカエルの鼓動と、明日出会う誰かの笑顔という、計り知れない「余白」だった。


 劉海は、カエルを懐の温かな場所へ入れ、静かに目を閉じた。


 夢の中で弾く算盤の音は、もう聞こえない。代わりに聞こえるのは、秋の虫たちの羽音と、実りを待つ大地の、深い子守唄だった。


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