第四話:【漂泊】黄金の稲穂、カエルの涙、1 実りの海と、喉を鳴らす霊獣
江南の湿地を離れ、劉海が辿り着いたのは、地平線の彼方まで見渡す限りの「真の黄金」が波打つ土地だった。
それは五通神が作り出した死の金属光沢ではない。秋の陽光をたっぷりと吸い込み、重そうに頭を垂れる、豊かな稲穂の群れだ。風が吹き抜けるたび、ザザザ……と乾いた、しかし生命力に満ちた音が響き、それはまるで大地が深く安堵の呼吸を漏らしているかのようであった。
街道の脇に腰を下ろした劉海の肩で、三本足のカエルが「ケロ」と短く喉を鳴らす。
かつて江南を恐怖に陥れた怪物の面影は、今や見る影もない。今のそれは、陽だまりの中でまどろむ愛嬌のある霊獣として、劉海の旅の道連れとなっていた。カエルはその琥珀色の瞳を細め、忙しそうに鎌を振るう農夫たちの姿をじっと見つめている。
「……五通よ。お前にとって、この光景はどう見える?」
劉海は、懐から取り出した干し肉を小さく千切り、カエルの口元へ運んだ。カエルは器用に三本目の脚を使い、食べ物を受け取ると、満足げに腹を膨らませる。
劉海は、目の前に広がる農村の情景を、慈しむように見渡した。
農夫たちの額には大粒の汗が光り、その肌は陽に焼けて赤黒い。彼らの服は継ぎ接ぎだらけで、その暮らしが決して楽なものではないことを物語っていた。しかし、収穫を祝う彼らの笑い声には、都の官吏たちが交わす虚飾に満ちた会話にはない、腹の底からの響きがあった。
劉海の指先は、自然と自らの腰に巻かれた「七星の縄」に触れる。
激闘の末、五通神を調伏してから数ヶ月。彼の旅は、ただの放浪ではなかった。
それは、五通神がかつて人々から奪い、歪めてしまった「富の定義」を、各地を巡りながら一つずつ、元の形へと結び直していく巡礼の旅であった。
街道を歩く劉海の姿は、傍目には風変わりな道士にしか見えないだろう。
泥の跳ねた裾、使い古された竹杖、そして肩に乗った金色のカエル。
かつて彼が都の度支部で、一分一厘の誤差も許さず、国庫の金を冷徹に管理していた頃の面影は、もはやその瞳の奥にしか残っていない。今の彼は、数字を数える代わりに、風の香りを数え、人々の感謝の言葉を心に貯金していた。
ふと、遠くの畦道で、幼い少女がこちらを見て足を止めた。
少女の腕には、摘みたての野花が抱えられている。彼女は劉海の肩にいる不思議なカエルを見つけると、怖がるどころか、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「おじちゃん、そのカエルさん、生きてるの?」
少女の無邪気な問いに、劉海は破顔した。
カエルは少し得意げに、口元の一文銭をチャリリと鳴らしてみせる。少女はその音に驚いて歓声を上げ、劉海に自分の抱えていた花を一輪、手渡した。
「これ、カエルさんにあげる。とっても綺麗に咲いてたの」
少女が差し出したのは、名もなき野草の花だった。金貨のような輝きはないが、摘み取られたばかりの瑞々しい香りと、少女の温かな体温が残っている。
劉海がその花をカエルの頭に乗せてやると、霊獣は不思議そうに目をしばたたかせ、それから一度だけ、優しく「クゥ」と鳴いた。
その光景は、あまりに穏やかで、あまりに脆い。
劉海は知っていた。この平和な実りの裏側で、いまだに「欲の種」は至る所に撒かれていることを。五通神という一つの怪物を倒したところで、人の心にある飢餓感が消えるわけではない。
だが、今この瞬間に少女が見せた純粋な「贈与」こそが、怪物を再び呼び覚まさないための、唯一の封印なのだ。
陽が傾き始め、黄金色の稲穂の海は、次第に深い朱色へと染まっていく。
劉海は少女に別れを告げ、再び北へと続く街道を歩き出した。
彼の背中を、実りの秋の風が優しく押し、肩のカエルは主人の歩調に合わせて、静かにその鼓動を刻んでいた。
漂泊の旅は、まだ始まったばかりだ。
かつて数字で世界を裁こうとした男は、今、一輪の野花と一匹のカエルを連れて、真実の豊かさが眠る場所を探し求めていた。




