第二話:【継承】北斗老師と、星を紡ぐ指、5 指先に残る熱と、霧の境界
山頂の庵があった場所には、今やただの平坦な雪原が広がっていた。
先ほどまで劉海の指を焼き、視界を埋め尽くしていた銀色の閃光も、老師の厳しくも温かい気配も、すべては夜の静寂の中に吸い込まれて消えた。残されたのは、凍てつく空気を切り裂く風の音と、劉海自身の静かな呼吸の音だけだった。
劉海は、深い霧が立ち込める江南の平野へと続く、長い下り坂の入り口に立っていた。
雪山を降りる足取りは、山を登ってきた時の絶望に満ちた重圧とは、似て非なるものだった。一歩踏み出すごとに、足の裏が地を掴む感覚が鮮明になる。それは、浮世の重力から逃れるための「解脱」ではなく、この泥濘に満ちた世界を、自らの足で歩き抜こうとする「覚悟」の重みであった。
彼は、腰に巻いたばかりの「七星の縄」にそっと指を触れた。
驚いたことに、あれほど肉を焼くような熱を発していた縄は、今やひんやりと冷たく、まるで古くからそこにあった体の一部のように馴染んでいる。だが、精神を集中させると、縄の芯からは微かな、しかし絶えることのない「拍動」が伝わってきた。
それは、劉海が編み込んだ星の理と、彼自身の罪の記憶が、分かちがたく結びついて脈打っている音だった。
「……老師。私は、まだ何も成し遂げてはいません」
劉海は、振り返ることなく空を仰いだ。
北斗七星は、相変わらず無機質な銀色の輝きを湛えている。しかし、今の劉海には分かる。あの光は、ただ遠くにあるものではない。自分が正しく「欲の手綱」を握り続ける限り、それはこの縄を通じて、常に自分と共に歩んでくれるのだ。
懐を弄ると、老師から受け継いだ「一文銭」が、指先に硬い感触を返した。
かつては、この一枚の銭をいかに増やすか、いかに効率よく奪うかだけを考えていた。だが今の劉海にとって、この銅の円環は、宇宙の縮図のように見えた。
縁は地を、穴は天を指し、その間にある空間こそが、人間が生きるための「余白」である。 五通神という怪物は、この余白を強欲で埋め尽くそうとしている。
ならば自分は、この縄でその欲を縛り、再び世界に「息をつく隙間」を取り戻さなければならない。
坂を下るにつれ、空気は次第に湿り気を帯び、雪は冷たい雨へと変わっていった。
視界の先には、どんよりとした紫色の霧が層をなしている。その霧の奥からは、誰かがすすり泣くような声や、狂ったように笑う声が、風に乗って微かに聞こえてくる。
そこは、富に呪われ、黄金に魂を売った者たちが彷徨う「地獄の入り口」だ。
劉海は立ち止まり、一度だけ深く目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、都で算盤を弾いていた頃の、血の通わない自分自身の横顔。
そして、次に目を開けた時、その瞳にはかつてのエリート官僚の傲慢さは微塵もなかった。あるのは、ただ一匹の魔物を釣るためにすべてを捨てた、孤独な「漁師」の静かな闘志だけだった。
「……行きましょう、相棒」
彼はまだ見ぬ「三本足のカエル」に向けて、小さく呟いた。
劉海の指先は、もう二度と、他人の財を数えるために動くことはないだろう。
これからは、星の糸を操り、狂った運命の結び目を変えていくために。
雨に濡れた劉海の背中が、霧の中へとゆっくりと沈んでいく。
雪山の純白と、江南の深紫。その境界線を越えた時、劉海という一人の男の物語は終わり、後に「劉海仙人」と呼ばれる伝説の第一歩が刻まれた。
遥か高天では、北斗老師が言った通り、星々がその配置を変えることなく、ただ静かに地上の「欲のドラマ」を見守り続けていた。
夜明けは、まだ遠い。だが、劉海の手の中にある銀色の輝きは、どんな深い闇も届かぬ場所で、絶えることなく瞬き続けていた。
(第二話:【継承】北斗老師と、星を紡ぐ指 完)




