表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/11

第三話:【死闘】江南霧譚(こうなんむたん) ― 五通神調伏、1 紫の腐汁と、沈黙する黄金の地


江南の地を包む霧は、もはや天の恵みである雨露の類ではなかった。


それは、大地の毛穴から噴き出した脂のような、ねっとりと重く、鼻を突く甘ったるい腐敗臭を帯びた「欲の呼気」であった。


劉海が足を踏み入れたのは、かつて「魚米の郷」と謳われ、豊かな水と緑に恵まれていたはずの湿地帯である。しかし、今、彼の目の前に広がる景色に生命の脈動はない。あるのは、紫がかった不気味な薄闇と、不自然なまでに静まり返った水面だけだ。


 水辺の葦は、まるで毒を吸い上げたかのように黒ずんで枯れ果て、折れ曲がった茎が水面を叩く音さえ、泥に吸い込まれて響かない。


「……これが、五通の支配する庭か」


劉海は、鼻を覆うように袖を口元に当てたが、湿り気を帯びた霧は衣服の隙間を容易(たやす)く潜り抜け、肌にじっとりと張り付いてくる。この霧に長く触れれば、正気は容易く蝕まれるだろう。


実際、道中行き交った村人たちの瞳に光はなかった。彼らは土を掘り起こし、泥の中から現れる「黄金の欠片」を求めて、爪が剥がれるのも構わずに地面を掻き毟っていた。彼らにとって、腹を満たす米よりも、愛する家族のぬくもりよりも、この湿地の底に眠るという五通神の排泄物――呪われた金塊の方が、何倍も価値があるのだ。


足元の泥が、不気味な音を立てて波打った。


 底なしの沼のように広がる地面は、一歩進むごとに劉海の足首を掴み、その深淵へと引きずり込もうとする。その泥の感触は、冷たいはずなのに、どこか微熱を孕んだ生き物の舌に触れているような、悍ましい生々しさがあった。


霧の奥から、低く、腹に響くような「音」が聞こえてきた。


――グゥ、ォ……。  ――グゥ、ォ……。


それは雷鳴ではなく、地鳴りでもなかった。


巨大な、それこそ小山ほどもある巨躯を持つ何かが、深い眠りの中で繰り返す「呼吸」の音だ。その音が響くたび、周囲の霧が同心円状に揺れ、水面に浮いた死んだ魚たちが不規則に跳ねる。


 五通神。


 かつては富を司る小神として祀られていたはずの存在が、人々の際限なき強欲を養分として肥大化し、今やこの江南の理そのものを食い破ろうとする怪物へと変貌を遂げている。


劉海は、霧の中にぼんやりと浮かび上がる巨大な「影」を見据えた。


 影は、水面に突き出た岩山のようにも見えたが、その頂点には、二つの巨大な、煮え(たぎ)る溶岩のような琥珀色の眼が、瞬きもせずに虚空を睨んでいた。


 霧が風に流された一瞬、その怪物の輪郭が露わになる。


 それは、全身を黄金の粘液で覆われた、醜悪極まる巨大な「蛙」であった。


その背中には、人の欲望が膿となって噴き出したかのような巨大なイボが無数に並び、そこから不浄な紫の煙が絶え間なく立ち昇っている。


 そして何より異様だったのは、その足だ。


 太く強靭な二本の脚の間に、本来あるはずのない「第三の脚」が、尾のように、あるいは触手のように蠢きながら、湿地の底から金銀財宝を掻き集めていた。


カラン、と。


 怪物の口から、汚泥にまみれた大量の一文銭が吐き出され、沼に沈む。


 その金属音が、この沈黙した世界で唯一の、しかし最も暴力的な音楽となって劉海の鼓膜を叩いた。


「数字の化身、欲の果て……。五通よ、お前の計算は、ここで行き止まりだ」


劉海は、腰に巻いた「七星の縄」に手をかけた。


 銀色の光を放つ縄が、霧の闇の中で微かに鳴動を始める。その輝きは、この不浄な江南の風景の中で、唯一、天の清廉さを保つ「針」のようであった。


霧はさらに深く、重くなっていく。


 怪物の琥珀色の瞳が、ゆっくりと動き、自分を挑発する小さな人影――劉海を捉えた。


 江南の湿地が、地響きと共に大きく傾いた。


 死闘の幕は、紫色の霧が血の匂いに変わる前に、静かに、しかし残酷に引き上げられようとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ