5、当て馬妻とはじまらない恋物語。
「最近雨、本当に多いな」
なんとなく寝付けずバルコニーに出たステイシーはひたひたと降り続ける空を見上げる。
手紙ではエルネア伯爵領では順調に葡萄が育っていると書いてあった。王都から遠く離れているとはいえ、この長雨の影響が出ないとは限らない。
無事だといいけど、と口内で不安を小さく転がしたステイシーは昼間の密会を思い出す。
アイリーン・アストレア改め、アイリー・ラガベル。自分と同じ転生者である彼女は、この世界ですでに大事なヒトを見つけていた。
原作でアイリーンに割り当てられた役柄がヒロインであったとしても、こうして今生きている以上彼女にだって自身の人生や伴侶を選ぶ権利はあるだろうし、すでに幸せを掴み取っているのに今更クラヴィルを選んでなんて言えるわけもない。
それは、十分分かっているけれど。
「どう、しようかな。これから」
『心配しなくても恋物語は勝手に始まりますよ』
そう言って何度もクラヴィルを焚き付けてきたのはステイシーだというのに。
どうやらこの恋物語ははじまる前に詰んでいるらしかった。
ハッピーエンドが約束された"運命の相手"が存在しないと知ったら、クラヴィルはどう思うだろう? と、彼の反応を想像したステイシーは、
「やばい。旦那さまが困る姿が全く目に浮かばない!!」
なんてこった、と大きな大きなため息をつく。
そもそもクラヴィルには結婚願望というものがなかった。元々彼の望みは女性とのトラブルを回避して仕事に打ち込みたい、という極々ささやかなもの。
クラヴィルの妻の座を巡って国内有数の権力を持った貴族たちが揉めに揉めたため、王命で仕方なく結婚したに過ぎず、クラヴィルは結婚に執着もなければ愛も必要としていない。
『あなた達上手くいっているのでしょう?』
アイリーの言葉が耳の奥でこだまする。
確かに関係は良好だ。でもそれはステイシーがクラヴィルの望む"平穏"を提供しているからに他ならない。
だって、いつか別れると分かっている相手なのだ。ステイシーとしても精神を擦り減らすようなギスギスした時間より、良好な関係を築いて、楽しく過ごしたかった。
推しと読者。それくらいの距離感で。
『私、原作とかどうでもいいし。物語壊しちゃったらどうしようとか、ヒロインへの罪悪感とかそんなの知らないから、クラヴィルと別れないで頂戴っ!!』
不意にアイリーの言葉が耳に蘇る。
クラヴィルとずっと一緒にいる未来なんて存在しないはずの選択肢だった。それが今、ステイシーの手の届くところにある。
現状維持、という形で。
「だから何。推しにガチ恋しないって決めたのは私でしょう?」
左腕の刻印をぎゅっと握り、ステイシーは首を振る。
「……手放す勇気も、ずっと優しさだけを与えられる度量もないくせに」
クラヴィルがトラウマを克服し、ヒロインと結ばれて愛し愛されて幸せに暮すのは、それがロマンスファンタジーという"小説"の中の出来事だから。
「ファンタジーは所詮作り物だものね」
だが、現実は違う。
女性に触れられるだけで手を振り払い、震えが止まらなくなるクラヴィルのことだ。
結婚をしなければ後継は親戚筋から養子を迎えただろうし、結婚してもできるならそうしたいと希望するだろう。
クラヴィルは今の関係が壊れなければ、ステイシーが妻のままでも困らない。
きっと眺めるだけの、友人のような関係は築いていける。
でも、それは……。
「私は、偽善者だ」
終わりが分かっているから、自分の気持ちから目を背け、クラヴィルに優しさだけを提供できていたのだと気づいてしまった。
クラヴィルの妻として生きていく。
それはつまり、自分を偽って生きていくことに他ならない。
自分の"夢"を諦めて。
気持ちが揺らぐたびに自分を戒めて。
これから先、ずっと。
「これはきっと"恋"じゃない」
できない、と思った瞬間、鉛を飲んだように心が重くなる。
自己嫌悪で俯いた時だった。
リーンと部屋から鈴のような澄んだ音が鳴った。
「えっ?」
ステイシーは慌てて中に入る。
そんなはずはない、と思いながら机の上に置いていた箱を開ければ、伝言石が青色の光を放っていた。
「どう……して?」
設定したその色はクラヴィルの瞳と同じ色。
家を出た時預けて出たその片割れは今も屋敷内のどこかにあるはずなのに。
ステイシーは震える指で伝言石のボタンに触れる。
「……はい」
「よかった。まだ寝てなかった」
耳に馴染む親しげな声。微かに笑ったようなそんな表情が目に浮かび、不意に視界が涙で滲んだ。
「ステイシー、俺だ」
ひと月ほどしか離れていなかったはずなのに、ひどく懐かしくて。
「ステイシー? 聞こえてるか? 俺だが」
今一番会いたくなくて、一番聞きたい声だった。
「ステイシー? 俺だ。分かるか?」
返事がないことに焦ったようなクラヴィルの声。
「私、生憎"俺様"という方に心当たりがございませんわ」
クラヴィルの姿がありありと目に浮かびクスッと笑ったステイシーは、
「オレオレ詐欺なら間に合っておりますので他をお当たりくださいませ」
明るい声でそういって、滲んだ涙を指で拭った。
「……なんだよ、オレオレ詐欺って。君はこんな短期間で夫の存在を忘れるのか?」
と、伝言石越しに呆れたようなクラヴィルのため息が聞こえ、
「あら、私の旦那さまは名も名乗らないような不躾な方ではありませんわ」
ステイシーはすぐさまそれに応戦する。
「……クラヴィルだ」
素直に名乗ったクラヴィルに知ってるわと声を殺して笑みをこぼしたステイシーは、
「あら、旦那さまのお名前は有名ですもの。それでは本人かどうか分かりませんわね」
と少々意地悪を言ってみる。
「なら、どうしろと」
「そうですねぇ。例えば、初デートで私が追加で頼んだ飲み物なんかは旦那さましか知らない情報ですわ」
楽しげに尋ねるステイシーに、
「苦めの茶」
キパッと即答するクラヴィル。
「もう一声。商品名で言ってくだらないと」
「はぁ? なんで」
「3、2、1」
「月灯りシルエットロマンス」
言わせたいだけだろ、とボソッと悪態をつくクラヴィルに、
「よく、覚えてましたね! 旦那さま」
もう堪えきれないとばかりに肩を振るわせ噴き出すように笑ったステイシーは、
「ふふっ、この素直さは間違いなく旦那さまですわ」
ご無事で何よりです、と優しい口調でそう言った。




