第95話 糸を紡ぐ部屋
食器を洗い終えると、次は食卓の上の掃除。壁や床も丁寧に拭いていく。その懸命な姿勢を見ていた使用人達が自分達も手伝おうかと声をかけてくる。だがそれを丁寧に断り、ひたすら作業を続けていく。
「きゃっ!」
何かの用事で急いでいたのか、使用人の少女が掃除用のバケツに躓き中身をひっくり返した。綺麗に拭き終わった床に汚れた水が溢れ、そのうえ足にも飛び散ってしまった。少女は咄嗟に謝ろうとしたのか、こちらを振り向いたのだが、その際に濡れた床に足を滑らせてしまった。
「大丈夫ですか?」
ノアは予想していたように素早く黒い翼を伸ばして少女の体を支えた。羽毛に包まれた少女は突然のことで、驚いたように顔を上げて息を呑む。
「すみません、今手が汚れてまして」
「あ、いえ。……こちらこそ、ごめんなさい」
顔を赤くする使用人にノアはにこりと微笑む。そして翼を広げ、少女を濡れていない場所へと移し床の掃除を再開する。その様子を見て、使用人達が顔を合わせて話し始める。
「よく見たらちょっとカッコよくない?」「前まであんな事言ってたくせに」「え〜だって」「ちょっと話しかけてみようかしら」
周りに媚を売り続けたノアの評判は良くなりつつある。騎士からは、やはり雑用ばかりしている騎士隊長など惨めにしか見えなかったが、ここにいる使用人達は仕事が楽になり見る目を変えていた。だが、その中にこんな言葉も混ざっていた。
「あの姫の騎士じゃなかったらね」「ほんとに勿体ないよね」
ノアはため息を吐き、掃除道具を掴んで食堂から出ていく。
どうすれば良いかがわからない。自分の評価を上げただけではアリスの価値は変動することがなかった。塔へ向かう途中、ノアは冷めた心をしつつもすれ違う人達に愛想よく挨拶をしていた。
「にぃ、ひま! あそぼ?」
閉じ込められた塔の中ではやることが無くなったアリスは声を上げる。そうすれば扉を開けてノアが来てくれるとわかっているからだ。
だが暇なのは本当で、王族のお姫様となれば習い事や身につける作法など忙しい筈なのだがアリスはそんなことしていないし、する必要もなかった。何故ならずっとこの場所に自ら閉じこもっているのだから。作法を周りに見せる機会もなかったし、これからもないだろう。
「じゃあ外に行ってみる?」
「それはやぁ〜」
ノアは振っていた剣を止めると、アリスに塔の外へ出ることを提案する。しかしそれは断固として拒否される。そう言われればノアも無理にこの塔から出そうとは思わなかったが、アリスの世界を広げるにはアリスの努力も不可欠なのだ。
「でもいつまで経ってもこのままだと嫌だろ?」
「べつに。……にぃがいてくれたらいいもん!」
アリスは拗ねたように顔を背けていたが、笑顔を咲かせてノアにしがみつく。ノアは困ったように笑うと、アリスの足がワンピースかはみ出ていることに気づく。日に日に成長しているアリスは、ワンピースのサイズが合わなくなり艶やかな脚を隠しきれていなかった。あれだけガリガリだった体も肉づき、胸も膨らみ始めている。そして何より、ノアの胸ほどの身長しか無かったはずが、今は首元に届くほどまでに成長している。
「大きくなったなぁ、新しい服用意しないとね」
「?、それよりあそぼ」
「はいはい」
アリスは子供っぽさが抜けていないのか服や宝石など女の子が好きそうなものに全く興味を示す様子が無く、ただノアと遊ぶことだけがアリスの人生となっていた。
ノアは、アリスが疲れ切って眠るまで遊びに付き合い、アリスが眠ったことを確認すると散らばっている道具を片付けて部屋を出る。
「アリスちゃんの服、ですか?」
「ええ、育ち盛りみたいで。前のは小さくなっちゃって」
テレサは、ノアに服の余りが無いか聞かれ頭をひねる。
「探せばあるかもしれませんけど、良かったら作ってみたらどうでしょう」
「作る?僕が?」
「はい」
服なんて作れるとは思えず首を傾げるノアを、サテラはある部屋へと案内する。階段を登って、より中心へと向かっていく。ここは王族達の領域となっており、通路や壁などの装飾品が一つ一つ壮大な造りになっている。広々とした赤い絨毯の上を歩き、大きな扉の前にたどり着く。その部屋は、外の景色が一望できる空間だった。広い部屋の端にはとても大きな金色の機織り機と呼ばれるものが置かれている。それも相当の数があり、コトコトと音を鳴らしながら今も数人の者が作業をしていた。
氷の国・ニヴルヘイムでは、この機織り機で作った物を贈り物にすることが伝統とされているらしい。テレサはこれを使ってアリスの服を贈ってやれと言っているのだ。
ノアは周りの人達を一瞥すると、無言で蒼色の糸を選び機織り機の前へ座る。使う糸でさえ大きく、抱えるように持ち運び機械の下側にはめ込んだ。そこから糸が巻き取られ、カラカラと回る歯車のような場所から中心へと糸は伸ばされた。機織り機は複雑な造りで、何本もの糸が張り巡らされている場所や足で踏むような装置もついている。そのあめ使い方がわからないだろうと、テレサは使い方の本を持ってきた。だがその時すでに、ノアは蒼色の糸はカタコトと音を鳴らしながら紡ぎ始めていた。しんしんと降り行く雪が窓の隙間から入り込み、ノアはその中で黙々と手を動かす。透明な瞳で一点を見つめて糸を紡ぐノア。その集中する姿には見惚れる者も出るほどだった。しかし完成した物を見てノアは乱暴に舌打ちする。
「……これはとても着れるものじゃないな」
ノアは他の人達の作り方を観ながら、真似して手を動かしていた。やり方は間違っていないはず。だが出来たのは荒い生地の布。こんなにゴワゴワしたような服はとてもじゃないが着たくはないだろう。効率を優先しすぎたのか、それとも力加減が間違っていたのか。その答えがわかるまで、ノアは何度も作り直した。巻かれていた糸はみるみるうちに減っていき、次第に失敗作の山がノアの周りに積まれていった。
それは朝日が昇るまで続き、様子を見にきたテレサがその様子に声を上げた。
「わ、これはまた随分と作りましたね。もしかして寝てないんですか?」
テレサはその失敗作の量に軽く驚く。この量だと寝ずに作り続けていたのは明白。しかもここまで大きい機織り機を操作するにはそれなりに力が必要だ。そのためノアの手には騎士には出来ないような位置に豆ができていた。
「う〜ん、僕は思ったよりも不器用かもしれない」
この失敗作の数にはノアも苦笑せざるを得なかった。ずっと練習しても良かったが時間の問題もあり、塔に戻ることにした。しかしノアはその前に、テレサの口から大事な事を告げられる。その糸は高級品であり、勿論使った分だけ払わなければならないということを。
「どうしたの? げんきない」
「そんなこと……ないよ」
「へんなにぃ。今日はなにしてあそぶ?」
げんなりとした様子のノアに首を傾げたアリスは、遊び道具を箱から持ち出して床に広げる。ここにある遊び道具はノアの手作りの物が多く、こまや手書きのトランプなど様々だ。それらがアリスにとって宝物だった。
「ごめんね、今日は夜まで遊べないんだ」
「え〜なんで! またにんむ?」
「うん、でも明日はずっといるから…」
「やだ、いまやるの!」
アリスは涙目になりながら馬の形をした木の駒をノアに投げつける。ノアも一緒に居てやりたいが任務を無視すれば騎士隊長として、守りびととしてアリスの側にいることすら出来なくなるのだ。
「もぉいい!」
完全にむくれてしまったアリスは毛布にくるまって二度寝をしてしまった。
ノアは出来るだけ早く帰れるようにしようと心がけて任務へと向かう。行ってくると伝えても返事をしないアリスに苦笑し、反抗期の子供を持つ親の気持ちを少し考えてしまった。