第73話 正しき道へ
血飛沫が飛び散り、天井に一本の線を引く。深々と斬られた腕は、筋繊維ごと切断した。
「自分、まだ動けるんかいな!」
表情を歪ませたのはエデンだった。血を流したのはノアではなくエデン。瀕死で泣き噦っている子供を可哀想だと同情して瞬間、ノアの驚異的な瞬発力が生んだ攻撃に驚愕し、反応する間もなく剣をいれられた。
(油断はしとらんかった。確かに刀はしまっとったけど、今の速度はなんや!?)
エデンは使う予定のなかったもう片方の腕を帯から出して刀を引き抜いた。今は余裕も無くなり、口に咥えていた筒も勢いよく吐き出した。こいつはやばい。そう直感が訴えかけてきた。
「……お前今、僕を憐れんだな」
マスクの下からノアは不浄の声を漏らした。短剣を握る手に力が入り、メキメキと軋みだし、マスクがひび割れて目の部分が露出する。
「憐れだって思ったろ……不憫な奴だって思っただろ……。 馬鹿にするな‼︎ 」
ノアの虚ろな隻眼がエデンを捉える。腕もない。片目も潰れている。身体中から血を流し、眼の力だって使えない。それなのに、まるで瞳が燃えているように見えるほど、ノアは異常な存在感を放っている。
(おぉお!?!)
その深い怒りを受け、全身の毛が泡立った。エデンはノアの気迫に押されて一歩、ほんの僅かに足が退がる。
「気に食わない。その蔑む目も、見下す目も、嘲る目も。何もかもが!」
ノアは翼を広げ、身体中から溢れる血で移動の軌跡を作り出す。床、壁、天井を足場に自由自在に飛び廻る。剣術で勝てないのなら速度で勝るまでだ。
「なんや、おもろうなってきたやんけ!」
エデンは大きな口を更に裂き、牙をちらつかせ獰猛に笑う。
「こりゃ謝らなあかんな。 確かにわいは見くびっとったようや。自分、わいよりよっぽど獣やわ」
刀を構えるエデンに向かってノアは急降下してエデンの真上から飛びついた。翼を折りたたみ限界まで速度を上げていく。ノアの腕が唸りを上げ、すれ違いざまに音速の一撃をお見舞いした。だが……
「……なんなんだよ」
剣を振り抜いたノアは、逆に傷を貰い勢い余って壁に突っ込んだ。その傷は痛みと一緒に屈辱感を植え付け、ノアの心に染み込んでいく。あの速度で動き回るノアをエデンは的確に捉えて斬り落としたのだ。だが最も驚くべき事は、エデンが目を瞑っていたことだ。エデンは勘のままに腕を動かし、ノアの心を切り裂いた。
「誇ってええで、自分。このわいに二度も傷を作ったんやからな」
エデンは額に出来た傷から、うっすらと血を滲ませた。ノアの剣は僅かではあったが届いていたのだ。エデンは額の傷を撫で、カッと目を開いた。
「決めた!今日のところは逃したる」
「……は?」
「わいの考えが変わらんうちに、はよ帰り」
「なっ、お前……!まだ馬鹿にするのか!情けなんていらない! 殺すならさっさと殺せよ!」
「違うわアホ、これは敬意や。最後まで自分の目は死なんかった。 素直に尊敬したわ。ええ男になりや」
エデンは目を細めて笑うと刀を納める。ノアの怒りにとりあう様子もなく、一人床に転がった筒を咥えて煙を吐いた。
「……後悔、することになるぞ。 今殺っておけば良かったと思う日が……必ず来る」
「おーおー。その日が来るのを楽しみにしとくわ」
エデンは背中をノアに背中を向けて、カランと独特な音を響かせながら通路の影に消えていった。
「……………………………………………………………………………………………」
エデンの姿が見えなくなったことでノアの再生能力が戻ってきた。闇が腕の形を型取り、感覚が戻っていく。ノアは再生し終わるのを実感しながら、じっとエデンが消えていった方向を歯を軋ませながら見ていた。
「くそおぉぉぉぉぉぉぉぉおお!」
感情のままに吠えた。眼に焔を宿し、世界に向けて牙を剥き、ノアは虚飾の力を暴走させた。眼から血が吹き出すが、その痛みが心地よく、限界を超えても力を使う。何もない空にただ八つ当たりするように無意味に捻じ曲げ荒らしていく。そうしないと今怒りを納める方法がわからなかった。
また一つ、ノアの中で何かが割れた。
「……はぁ……はぁ」
ノアは八つ当たりとばかりに眼で城の壁に穴を開けまくり、外壁ごと貫く大きな風穴を開けた。背中には未だぐったりと項垂れているテトを抱え、ノアはアルフヘイムを後にした。テトの傷は深いが、刀は内臓を傷ついていなかった。エデンは結局、テトの命も取らず宝を取り返すこともしなかった。だがノアが敗北したことに変わりはない。
「……屈辱だ」
ノアは息を切らしながら、念のため追っ手を気にし、建物と建物の隙間を縫ってこそこそと移動する。小道には明かりが通らず、ノアの心を更に暗くさせていた。
負の感情が積もっていく。あれだけ暴れたのに未だに怒りが心の底からふつふつと湧いてくる。体内に化け物を飼っている気分だった。
「……ちくしょう」
「ねぇ怪我してるの? だれかにやられた?」
座り込んだノアを見つけた子供達はノアを見て指をさした。子供達は木箱に腰を乗せてケラケラと無邪気な笑みを浮かべる。中央街とはいえ、こんな夜更けに集まっている子供はろくな事をしていないだろう。そして案の定、子供達は手に鉄パイプを握ってノア達の前に並び始めた。
「あのさー、ここ俺たちの秘密基地なんだよ。 だからさっさと出てけよ。 っていうかそのマスクなんなの」
だんまりを決め込むノアを、殴ってでも追い出す気なのか子供達は鉄パイプで肩をとんとんと叩きながらケラケラと笑い見下した。
(こんな小さな子供が馬鹿にするほど僕は惨めに見えるのか……。そんなに弱そうに見えるのか。子供にすら見下されて笑われて、本当に、本当に僕は情けないな)
ーーージワジワと溜まっていた怒りはひび割れた心から流れ出す。
「………どいつもこいつも、僕を馬鹿にしやがってェ!」
失笑で曲がっていた口角はいつのまにか怒りに歪めていた。ノアは顔を上げて子供達を睨みあげる。憎悪を含む殺気が辺りを狂わし、その圧力に壁がひび割れ始める。
「なぁ、教えてくれよ。僕はどうすればよかったのか 」
「ヒェッ!」
子供達は突如憤慨したノアを前に、関わったことを後悔する。だがそれはもう手遅れで、子供達は全身を縫い付けられたように動けなくなり声すらあげられなくなる。殺気の濃度に耐えきれずズボンには汚物を垂れ流していた。
「なんとか言えよ。……無視か?僕とは話をする価値もないか?」
ノアは子供の顎を掴み、引き寄せる。目の前で鋭い眼光に当てられた子供は恐怖に呑まれ、瞬きすることさえ出来なかった。
「……そうかよ、じゃあ殺そうかなぁ。いいんだよなぁ?」
「ヒッ!……やだ、ごめんなざい!」
やっと喉から声が漏れて、子供達は謝罪したことでノアが怒りを鎮めてくれることを願った。するとその願い通り、ノアの怒りは薄れていった。しかしその顔には嫌な笑みが張り付いており、怒りが卑屈な快楽に変わってしまっただけだった。
「ああ、そうだよ。殺せばいいじゃないか。 なんだ、簡単なことだ。気に食わないなら殺せばいい」
ノアは空虚な笑みを浮かべて子供の顔を掴んでいる手に力を入れていく。ノアの鍛え続けた握力は子供の頭など簡単に握り潰せる。
「そうだ。何のために鍛えてきたのかわかった。こういう時のためだ。恐怖に呑まれた弱者を無残に殺すためだ。なんだ、簡単なことだったじゃないか。ああ、だから今はこんなにも気が楽だ」
頭が少しづつ締められていく子供は泣き噦り、既に抵抗することすら出来ていない。その仲間たちは次は自分の番だと絶望に浸り、調子に乗っていた自分と動かない体を恨む。その様子を見るノアは楽しそうに笑みを深め、力を更に強めていく。
「あははは、あと何秒で死ねるかな?」
今のノアを他人が見れば、化け物だと叫ぶだろう。それほど今のノアは壊れていた。
ぱちんっ
弱々しい衝撃がノアの頰を叩いた。だが今日受けた傷の何よりもその刺激は痛く感じた。
「……ノア、だめ」
それはノアの背中に背負われていたテトの手だ。ノアの頰を両手で挟み込むように叩き、そのままギュッと抱きしめた。
「……なに?邪魔する気?」
「うん」
怒りを見せつけるようにテトの顔を振り返ろうと思ったが、テトが即答したことでノアは驚き動きを止めた。
「今のノアは、カッコよくない」
「何だよ、それ。今までカッコよかったことなんて一度もないさ!」
「そんなことない」
テトはノアの体から下りると目の前に立つ。鼻と鼻がくっつきそうなほど顔の距離を縮めてテトはにこりと笑う。
「……わたしは、ノアの優しい笑顔が見たい」
「は?」
子供の顔を握り潰そうと掴んでいるノアの手に触れて力を緩めると、子供はがくりと倒れこみ、そのまま気を失う。ノアは、テトの素直な欲望をぶつけられて困惑していた。
「……そんなものは作り物だ!」
「それでもいい」
子供達は遠くから信じられないという目でテトを見ていた。彼女のお腹の傷から血が止まる様子はなく、じくじくと痛々しく染み出している。そして何より、あの怒り狂うマスクの男の目の前に立ち、この殺意のなか平然としている事が信じられない。それどころか、テトが幸せそうに、それでいて照れながら笑っていることが子供達には本当に理解できなかった。
「ノアが笑顔でいてくれる。それだけでいいから」
「そんなの……」
「ノアは、笑顔が一番」
訳の分からない戯言をテトは自信満々に胸を張って言った。
「だから……何だよ。僕の何処がカッコいいって?ずっと惨めで、弱くて。口ばっかりで……」
「ううん。優しくて、努力家で、言ったことを実現しようとしてる」
「そんなものは何の価値も無かった。何も通用しなかった。この世は力が全てだ! 強者は何をしても許される。残虐なことをしようとも、それが正義だ。 弱さこそが罪だッ!僕はッ…」
テトは、ノアの言葉を遮りぎゅーっと力強く抱きしめた。それ間違った答えを吐き出す口なんていらないと言わんばかりに、胸でむりやり口を塞いだ。
「前に話してくれた、大事な人のこと。将来その人みたいに優しくなるって」
ノアは頭を小さな手でゆっくりと撫でられ、落ち着いたように黙って耳を傾けてしまう。彼女の声には少しだけ切なさが混じっていたのだ。
「今のノアは、……間違ってる」
頭を金槌で殴られたような気分で、ノアは自分の汚れた手を瞬きしながら見下ろし、涙で目を赤くしながら震えている子供達に目を向ける。
「……道を間違っちゃだめ」
ノアはゆっくりと項垂れる。過去の自分と今の自分を、冷静に比べてみた。
なんて醜くかったことか。エデンに刺されたテトを、ノアは本気で心配していただろか。きっとしていなかった。今の今まで自分の事ばかりでみっともなく喚いていただけで、周りが見えていなかった。
ノアはゆっくりと顔をあげる。
「もう少し、頑張ろ?」
にへらと笑うテトを前に居たたまれなくなり、ノアはしばらくの沈黙の後ようやく謝罪を口にする。
「ごめん」
「ん」
テトはノアの言葉に温もりが戻ったことを感じると嬉しそうに頷く。けれど、やはりノアの心を戻したのはカナリアの存在で、それを利用せざるおえなかったことに少し寂しさを感じる。しかしテトも諦めない。ノアが自分を見て、本当の笑顔を見せてくれるまで諦めない。
よくわからないが、収まりつつある場面に子供達は安堵し、テトに感謝した。
子供達の様子を見たノアは、素直に謝るか、それともこれ以上怖がらせないためにも無言で去るかを悩んだ。すると、ノアにくっついていたテトが子供達を瞳を細めて見下した。
「でも、ノアを馬鹿にするのは、許せない」
テトは手に鎌を出現させて、くるくると回し始め、子供達に向けて恐怖の続きを見せつけようとする。
「……えっ」
子供達は裏切られたような感覚で、ノアと一緒に驚きの声をあげた。
テトは別に子供達を助けたかったわけではない。ノアが間違えた方向に進もうとするなら止めてあげたい。ノアに優しさを取り戻して欲しい。それだけだった。だからノアを苦しめるやつがいるなら、馬鹿にするやつがいるなら、そいつは自分が片付ける。そういう考えだった。
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最終的にはノアが止め、子供達は何事もなく帰した。ノアがあれだけ怖がらせてしまったため、何事も無かったとは言えないかもしれないが、ズボンについた汚れ以外、目立った損傷はない筈だ。
「……まだ傷が痛い」
少し気まずさを覚えながらタルタロスに帰っていると、テトがいきなり大袈裟にも見えるほど腹の傷を押さえ始めた。ノアは自分の責任で傷を負わせ、こんなに無理をさせたことを思い出し、慌ててテトを心配する。
「ごめん、テト。……僕」
「いい。そのかわり、おんぶ」
まるで用意していたかのように思えるほどすんなりと出されたテトの言葉に、ノアは申し訳なさでいっぱいで、従わざるおえなかった。帰る道中ノアの首元にくぐもった息がかかり非常にこそばゆかったが、テトは鼻歌を歌いそうなほど機嫌が良かったため何も言わず、ただ帰る。
テトのお陰でノアには優しみを含んだ笑みは戻っていた。




