2 なんてパワーだ……
「いや、人間じゃないんかーい」
チューバのような低音を高らかに、男は巨大な手のひらで独りツッコミを入れた。
ただそれだけの動作で馬鹿げた衝撃波が生まれる。
無人の湖に波紋が広がった。
「でかいな。すごいな。なんだこれ……」
バスの運転席並みに視点が高い。
身の丈2メートル。
いや、さらにもう30センチはあるか。
体は重く、歩くたびに地響きがする。
手のひらはテニスラケット大。
足は鋼のひづめ。
目を寄せると、長く伸びた鼻梁の先で大きな鼻がピクリとした。
「俺の顔、どう見ても牛だよな……」
そのほかの部位はおおむね人間のもの。
「ミノタウロスってやつか……」
どうしてこうなった、と男は凍りつく。
事故で死んで、気づけば牛人間……。
カギを握るのは、おそらくあの謎の声だ。
「全なる魂に再び器を授けん、だったか?」
器――それが、半人半牛の体を指すことは想像に難くない。
しかし、なぜミノタウロス?
なぜ、異世界?
「……まあ、いいか」
男は角の横をゴリゴリと掻きむしり、すぐに考えるのをやめた。
公式を知らなければ問題は解けないよ――。
昔、数学教師が言っていた言葉だ。
わかる問題だけ解きなさい、とも言っていた。
至言である。
事実、今考えるべきことはほかにあった。
空を大きな影が横切る。
赤い鱗を持つドラゴンだった。
その直上から別種のドラゴンが逆落としに迫る。
交錯。
そして、激しい衝突音。
鱗が弾け、炎が青空を束の間、赤く染める。
咆哮と絶叫が繰り返された。
「縄張り争いってか」
死闘はやがて決着を迎える。
皮膜を焼き切られたドラゴンが空にひと筋の黒煙を引き、地面にぶつかった。
あれでは、もう生きてはいまい。
勝者は身をひるがえし、蒼天の彼方へと消える。
男は戦慄した。
(この世界はどうやら俺が知る世界とは比べ物にならないほど危ないらしいな……)
であるなら、やるべきことは明確だ。
男は大岩と向き合っていた。
そこにドラゴンの姿を重ねる。
力に満ちた総身で弓引くように拳を引き、掌中に熱を込めていく。
「モオオオオオオッ!!」
振り抜いた腕の先に、たしかな手応え。
どごん、と。
大岩が爆ぜた。
破片の雨がはるか遠くの湖面を白く荒立てる。
「途轍もないな……」
粉々になった岩の前で男は自分に恐怖した。
同時に、とある疑惑が湧いてくる。
「さっきのドラゴンより俺のほうが強い説」
男は近くの木に抱き着いた。
ハグに始まり、徐々に力を強めていく。
ドラゴンの背骨を折るがごとく、世にもおぞましい音を立てて木はへし曲がる。
そのまま後ろに反ると、土を滝のようにこぼして木は地を離れた。
「なんてパワーだ……」
この体ならば、たとえ新幹線と正面衝突しても骨折ですむかもしれない。
人間の域を越えた超常の肉体。
死の瞬間の、切なる願いの体現だった。
「よし!」
何が「よし」なのか自分でもわからないが、とりあえず、このフィジカルがあれば上空への警戒は必要なさそうだった。
男は次の問題を解くことにした。
静脈がツタのように這う巨大な腕を組み合わせ、モォオオ、とうなる。
「やっぱり町を目指すべきだよな。異世界モノのセオリーとしては」
水面に映ったおのれの姿はお世辞にも親しみの持てるものではない。
しかし、元の世界には、ケモ耳やリザードマンという概念があった。
種族は千差万別。
容姿は十人十色。
ここが真に異世界であるなら、むしろ、かつての世界よりも異形の存在に寛容であるはずだ。
(問題は町がどちらにあるか、だが)
人工物とおぼしきものは当然見当たらない。
太陽は天頂に居座り、東西南北の区別さえつかない。
そこで、男は枝を倒して進む方角を占うことにした。
ほどよい枝がない。
なら、これでいいか、と手近な木を引っこ抜き、空に投げる。
茶色と緑の塊が巨大な放物線を描いた。
悠然と舞っていたドラゴンたちが爆竹をくらったハトのように逃げていく。
そして、轟音と砂煙。
木っ端微塵に砕け散った木はかろうじて湖の向こうを指しているように見える。
「いくか!」
男は巨大な一歩を踏み出した。
まだ見ぬ異世界の町を目指して。




